見出し画像

つれづれなる恋バナ 第五章 未来をともに【歴史長編恋愛小説】

第五章 未来をともに


 神官の家系である卜部家は、新年の行事がようやくひと段落していた。
 神楽岡の吉田神社では、卜部本家が宮司を務めているが、正月の諸行事には庶流の卜部家も毎年参加する。兼好も父兼顕、弟兼雄とともに儀式に陪席していた。
 吉田神社における新年行事の最後の務めが終わり、自宅に戻った兼好は気にかかることがあり、兼顕の部屋を訪ねた。
「このたびはご苦労様でございました。父上、お務めは今年で最後にすると申されましたが、本当でしょうか」
「ああ、そうだ。このところは腰痛に加え、胃のあたりも痛み出した。何やら患っているようだ。神事を務めるには身体が持ちそうになくてな」
 兼顕は体調に不安があり、来年からはもう正月行事には参加しないと打ち明けていたのだ。
「私も還暦を越えた。いつ迎えが来てもおかしくない」
「そんな弱気なことをおっしゃらずに」
 今年、延慶三年(一三一〇)に六十一歳となる兼顕は、堀川具守の一歳下である。
「兼好よ。私こそお前に聞きたいことがある。私が神官を退くなら自分も辞めると申したことがあったな。それは今でも変わらぬか?」
「はい。この家の家督は兼雄が継ぐことになるのであれば、兄の私は目障りになりましょう。私が家業から身を引くことが、この家の安泰に繋がりますので」
「本当にそれでよいと思っているのか」
「それが兼雄、さらに母上のためでございます」
 兼好は卜部家の家業から距離を置き、神官の座からも降りることを心に決めている。継母のとみは、夫の跡を息子の兼雄が引き継ぐことを強く望んでいる。現に朝廷において、兼雄は兼顕が長年務めていた神祇官に属し、やはり父と同様に宮主として務めを果たしている。世間的には父の後継者は兼雄だと認識されているのは間違いのないところだ。
 この卜部家の事情は、主人の堀川具守もよく理解していた。それゆえに兼雄の兄であり本来なら卜部家の嫡流となるはずだった兼好を何かと気にかけ、家司に起用しただけでなく、朝廷にも働きかけて六位の位階を確保し蔵人所への勤務を斡旋してくれた経緯がある。
「兼雄が私に気兼ねなく跡が継げるよう、私はなるだけ早いうちにここを出ますので」
 弟の兼雄は昨年に妻を娶っており、夫妻でこの実家に住んでいる。独り身の兼好は肩身の狭さを感じている。
「しかし兼好、お前はいまだに無官だ。このままでは生活もままならぬだろう。この先どうするつもりだ」
 痛いところを突かれ、兼好は黙り込む。蔵人の職を追われ一年以上、未だに朝廷での仕事を得られないでいる。頼みの綱である具守は持明院統政権の中ですっかり政治力を失っており、彼のツテを頼ることは絶望的な状況であることは、兼好も兼顕もよく分かっている。
「歌道で実績を挙げて出世に繋げる。今はこの方法しかございません」
「見込みはあるのか?」
「はい。そう遠くない未来に新たな勅撰集が選集される、との話が持ち上がっています。歌が収載されれば箔がつき、官職の道が開けましょう」
「ところで」
 兼顕が話題を変えた。
「兼好は、恋人はおらぬのか」
 まさかの問いかけに、兼好は戸惑いつつも答える。
「想い人はいることはいるのですが、なかなかこちらにはなびいてくれなくて。まあこれは、なるようになる、と申し上げるほかありませぬ」
 なんとか茶を濁す。実際には想い人は父もよく知る人物と交際している。これは父にも言えぬ秘め事である。
「そのおなごに、振り向いてくれんかのう。私はお前の行く末を案じておる。それは亡くなった房子も、同じ思いであろう」
 房子は、兼好の実母であり、最初の妻と死別した兼顕の二人目の妻だ。だが、兼好がまだ三歳の時に流行り病で急逝してしまった。兼好には実母の思い出はほんのわずかしかない。その一年後に兼顕は現妻のとみと再婚、とみはすでに兼雄を身ごもっていた。とみは兼好にも愛情をかけはしたが、それは我が子兼雄の比ではなかった。兼好は少年期から、この卜部家の嫡流となるのは自分ではなく弟だ、ということを深く胸に刻み込んでいた。
「私の息があるうちに、お前の嫁を見たいものだ。私は吉報を待っているからな」
 結局、父の身を労るどころか、逆に自分の行く末を心配されてしまった。一礼して部屋を出た兼好に、何とも言えぬ虚無感が残った。

 翌日、堀川邸に参じた兼好には、あの仕事が控えていた。新年最初の代筆である。
 例の離れ舎で、具守が見守る中、下書きに目を通す。そこには、御年六十二歳を迎えた男の愛の魂がほとばしっていた。

 一条よ。私はそなたのすべてを愛している。頭のてっぺんから、足のつま先まで、そなたのすべてが愛しくてたまらない。

 思いに耽ってきた女をついに抱きしめ、その体を我がものにした男の偽らざる叫びである。念願を果たした男は、みなこんな感想を抱くものなのだろう。
 九月十五日の最初の逢瀬から、十月、十二月と、すでに二人は二度夜を重ねている。

 私の六十余年は、一条と出会うためにあったと言ってよい。そなたと結ばれるために、私は幾多の艱難辛苦に耐えてきたのだ。

 あなたと会うために生まれてきた。これもまた、男の常套文句なのかもしれない。何人もの妻を抱え、浮き名を流してきたこの男は、何度生まれかわってきたのだろう。
 だが、最後のあたりの一文で、兼好ははっとさせられた。

 一条に見つめられたら、私はすべてが報われる気がする。そなたの愛を感じるとき、私は今日まで生きてきてよかったと、心の底から思える。そなたと会えぬ日々は、どれほど心細いか。いつもそばにいてほしいと願わずにはいられない。もはやそなたのいない人生など考えられない。

 兼好は不思議な感覚がした。あれほど高い地位に上った人物が、たった一人の女性から愛を捧げられると、こうも弱々しさを露わにしてしまうのか。しかし、心の奥底で、共感できるものがある。
(私でも、同じことを書くかもしれない)
 男は、愛する女に愛されないと、心細くなり威勢はしぼみ自尊心を喪失してしまうのか。富や地位や名誉なんぞより、女を失うことの恐怖感はそれらを遥かに凌駕するのか。女に心を閉ざされたら、男はただ頼りなく、行き場のない迷える小鳥のように浮世をさまよい続けるほかない生き物なのか。
(男は、みな同じだ)
 青い海のように澄んで広い女の偉大さの前に、男はひざまづくのみなのだろう。
 具守の繊細な愛欲に力を注ぐべく、兼好は今回は男くさい豪勢な筆致で丁寧に清書した。
 今回も、ふたりの共同作品は上出来だ。
 普段は完成した清書を素早く受け取る具守だが、今回は違っていた。
「兼好よ、今日はお前が届けてくれんか」
「なんですと?」
「いつも唐橋家に届けている下男が、熱を出して休んでおるのだ。お前しかいない。どうか頼む」
 いつもの配達役が欠席のため、兼好に役目が回ってきた。文を届けることは、咲子に会えるということである。兼好にとっては願ってもないことだ。とはいえ、これは業務だ。手紙を渡せばすぐに帰らねばならないのだが。
「わかりました。至急発ちます」
「ありがたい。心からお礼を言おう。ところで、そんなお前だけに話しておきたいことがある」
「何でしょうか?」
 具守はきりっと兼好を見つめ、表情を引き締めた。
「私は今年限りをもって、全ての官職を辞するつもりでいる。まつりごとから手を退くこととする」
 それは思いがけない意思表明だった。口を丸くして驚く兼好をよそに、具守は決意を固めたことを示すかのように声の調子を上げた。
「政治の世界は勝ち馬に乗れないと地獄だ。時流に乗れず、反体制側に甘んじれば、心身を蝕まれ疲弊するのみである。私は四月ごろに左大将を、そして年末までには大納言の辞表を出す。持明院統の治世が続く限り、もはや私は政権内に居場所はないからな」
 具守は前年に右近衛大将から左近衛大将に任じられたが、あくまで慣例による形式的な栄進である。兼任する大納言の地位は維持しているが、大覚寺統に属するゆえに意思決定の場からははじかれ、宮中に出仕しても何もすることがなく時間を浪費するほかない始末である。廊議(びょうぎ)と呼ばれる公卿会議には出席するが、何の発言権もなく、過半数を占める持明院統の連中に議決権は牛耳られている。その廊議も形骸化しており、実質的な政治権力は院政を敷く伏見院が握っている。この状況下で具守は政治家であり続けることに潮時を感じているのだろう。
「朝廷から身を引いてからは、どうなさいます?」
「政治のことなど忘れ、悠々自適に暮らす。岩倉の別荘でのんびり過ごすであろう」
 ここで兼好は直感した。
(別荘に咲子さんを呼び寄せ、ともに過ごすおつもりか)
 広々とした岩倉の別邸で、咲子を横に従わせながら池泉庭園をのんびりと眺める。そんな近未来の主人の姿が兼好の目に浮かぶ。
「お前も察しておろう。そうじゃ、わしは一条とともに余生を過ごしたいのじゃ」
 兼好は何も言葉を返すことができずにいる。だが、生きがいを見出し希望の光を瞳にたたえている具守を見ていると、なんとか彼をさらに満足させる言葉を捻りださねばいけないと思った。そして、
「大納言様の未来が幸多からんことを願い、私も粉骨砕身いたします」
 と、当たり障りのない表現で、主人の夢見る咲子との美しい未来のため、誠心誠意尽くすことを誓った。

 清書した文を袖の内にしまい、兼好は離れ舎を出た。そのまま塀のすぐ内側を歩き、正門へと向かう。周りをきょろきょろと気にしながら、兼好は次第に小走りになっていた。行く先も用件も自分しか知らぬ秘密ごとである。誰にも見つからないようにと、自然と足が動く。
 正門にさしかかった時だった。そんな兼好のそそくさとした動きを遮る、女の声が聞こえた。
「兼好よ、どこに行く?」
 振り返った先にいたのは、具守の正妻の二条景子だった。景子は侍女たちと前庭を眺めながら談笑していたところだった。急いでいた兼好は前庭の植木に視界を遮られ、その向こうにいた景子に気づかなかったのだ。
「はい、歌の仲間が催す歌会に急に呼ばれまして」
 とっさに兼好はほらを吹く。意外とすらすら言葉に出たので、嘘っぽくは聞こえないはずだった。普段ならそれっきり突っ込まれることなく黙って見送られるところだが、今日は違った。
「兼好。最近、具守様の夜の帰りが遅いことがある。一体何をしているのか」
 いつかは来るだろうと思っていた、するどい質問が飛んだ。兼好を凝視する景子の表情がたちまち疑心暗鬼なものに変わっていく。
「それは……日誌に記載の通りでございます。大納言様は下々の宮廷人たちにも目が行き届き、面倒見の良いお方。わざわざ彼らの自宅を訪問し、相談事に応えておられるうちに夜が遅くなることがあるのです」
 景子の目力に威圧されそうになったが、口調が上ずることなく、なんとか回答した。
 兼好は引き続き、具守が女と密会していることを疑われないよう、夜の帰りが遅くなったもっともらしい理由を日誌に記している。大納言具守にとっては咲子の父親は位の低い宮廷人に変わりはなく、その者の自宅を訪ねる、ということは事実ではある。相手は身分が低いので実名を記すほどではない、という理屈も一応は成り立つ。景子も日誌を目にしていると思われるが、この曖昧な記述にふれ、女の勘が働いたようだ。
 景子は怪訝そうに問い続ける。
「最近、具守様は肌つやもよく若返ったように見える。まさか、女と会っているのではないか?」
 まったくもってその通りである。だが、兼好はこう答えるほかない。
「そのようなことは、ございません」
 これはいつかは聞かれるだろうと、前もって覚悟はしていた。だから、動揺を見せることなく、淡々と否定することができた。
 正妻とはいえ、景子は具守とは親子ほどの年の差がある上に、相手は天皇の外祖父だった高貴な男である。浮気を疑っても、面と向かって具守に女の存在を問い糺すのは憚られるのだろう。なので具守に最も近い家司の兼好をつかまえ、探りを入れようとしているのだ。
「何も知らぬと申すか」
「はい。何一つ存じておりません」
 兼好は表情一つ変えず応じる。隠し事をすることは胸の痛みを伴うものだ。迷いの色が顔に出れば、すかさず畳みかけられるだろう。必死で平静な顔を装う。
 浮気が事実だとしても決して兼好が真実を話すことはないことは景子にも想像ができた。景子はお人よしな兼好の性格を知っている。それに加え、仕えて十年になろうかとしている兼好の具守への忠義心もよくわかっている。主人の道ならぬ恋を正妻にぺらぺらと白状するわけがない。兼好が全面否定する以上、これ以上詮索するのは気が引けるのか、景子はぐっと息をのみ込んだ。
「そなたを信じてよいのだな」
「はい。お信じくださいませ」
 そう言って首を垂れる兼好を前に、もう追及の言葉は出なかった。
「さっさと行くがよい」
 兼好が顔を上げたときには、すでに景子の後ろ姿が邸宅の裏入り口へと歩き始めていた。侍女たちも黙って追従している。追及を免れほっと一息ついた兼好は、ふたたび早足になって正門を出た。
 上京へと北上する兼好は、最悪の事態を思い描きながら歩を進める。
(この件がばれたら、堀川家は大騒動になる)
 兼好に真偽を確かめようとした景子には、一方で夫を信じたいという切なる願いが感じられた。具守よりはるかに年少の若妻で、期待された嫡子を産めなかった景子は深い劣等感に覆われている。夫と自分よりも七歳も若い美女との不倫が露見したら、怒りは天を衝き、家中の者を巻き込んでの騒ぎとなろう。具守の孫の具親を景子が養子として後見しているため、具守と具親の関係に影を落とす事態になりかねない。さらに質が悪いことに景子の実家は兼好が和歌を学ぶ二条家である。騒動になれば歌人としての兼好の将来に暗雲が立ちこめることも十分にあり得るのだ。
(嘘をつくのは辛いが、こうするほかない)
 具守と景子の板挟みとなりながら、出口のない綱渡りを続けるしか、兼好には術がないのである。この状態が果たしてどんな結末を迎えるのか、それは神のみぞ知ることだ。

 唐橋家は今日はひっそりとしている。日中にしかもひとりでここを訪れるのは初めてだ。夜の帳で見えなかった咲子の自宅の全貌を初めて目にする。敷地の広さはわが卜部家と大差はない。屋敷も古びていて、板葺きの屋根は腐食が見られ経年劣化が著しい。見た限りでは豪華な暮らしとは程遠い。具守から贈り物が届き少しは潤ったはずだが、それが家の外観には全く反映されていないところに、ここに住む一家の謙虚さを感じることができる。
「おや、あなた様は、大納言様の」
 門扉に現れた兼好に気づいた下男が、驚きを込めた大きな声をあげた。唐橋家が雇っている奉公人であり、彼は咲子がしたためた具守宛の返書を堀川家に持参し、兼好に手渡している。
「今日は私が大納言様の文を届けに参った。これを一条どのに」
 袖から手紙を出し、下男に差し出す。下男はその場で正座し、有難そうに両手で受け取った。
 その時、邸宅の縁側を歩く音がした。
「あら、兼好様」
 咲子だった。下男の「大納言様」の声が聞こえたようで、様子を伺いに出てきたようだ。
「いつもの届け人が体を壊しているので、代わりに私が手紙をお届けに……」
「そうなのね。今すぐそちらに行くわ」
「えっ、でも……」
「しばらく話しましょう」
 咲子はそう告げると縁側をすたすたと歩き、中に消えていった。これから草履を履いて玄関の外に出るつもりだろう。手紙を渡した以上、役目は終わったわけで速やかにここを退出しないといけないのだが、兼好はそのまま動かずに咲子が玄関口を出るのを待った。そして咲子が現れると、
「咲子さん、二人きりで話すの久しぶりだね」
 と、上司の恋人に対して適切とは思えぬ一言で会話の口火を切った。
 兼好の目前で立ち止まった咲子は、にっこりと笑みを浮かべ、歯並びのよい白い歯をむき出しにして口角を上げると、
「兼好様、私ね……」
 と色っぽくも悩まし気な声でつぶやいた。兼好の心臓がびくっと騒めきだした。一体何を話すのだろうと、次の一言を待った。すると、
「いつも大納言様のことばかり考えているの」
 一気に血の気が引いたのを感じた。具守に仕える者としては喜ばしい一言だろう。だが、男としてはこれほど胸をえぐられる言葉はない。
「偉い方だから、お忙しいのは分かってるの。でも私、会えない日が続くと夜は寂しくて心細いのよね」
 熱愛の夜を重ね、もう彼女の心は堀川具守一色のようだ。還暦を過ぎてもなおお盛んで、美女をぞっこんにさせる具守が何ともうらめしく、そして羨ましい。
 だが今は咲子を安心させる言葉を吐かないといけない。
「大納言様はいつも咲子さんのことを心にとどめておられるんだよ。だから、心配しなくていいよ」
「そう言ってくれて心強いわ。兼好様、ありがとう」
 具守が咲子に夢中であることは事実である。それを素直に咲子に伝えた。
「あの方が文を絶えず送ってくださるから、これが心の支えになっているわ。想いをはっきりととても丁寧な字で述べておられて、やっぱり誠実な方なのね」
 具守の率直な愛情は、達筆で綴られてこそ咲子の心に響くらしい。兼好は複雑な思いに支配される。自分が行っている代筆は、二人の熱愛に多分に貢献している。家司としての役割を忠実に果たした何よりの証である。それは誉れであるはずだが、誉れとして受け入れきれない自分がいる。
「でも私、いけないことをしているのよね」
 咲子がぽつりと呟いた。とっさに兼好には、ついさきほど自分に怪訝なそぶりを見せた景子の姿が浮かぶ。高い地位を極めている男が何人もの女を抱えることは珍しいことではないし、男の甲斐性とはそういうものだ。だが咲子の目は、さきほどまでの恋する乙女の煌めきが一気に消えたかのように、罪悪感に支配される暗く沈んだ色に変わっていった。
 その目の潤いの落差を目の当たりにした兼好は、咲子の心の内側に何やら秘めたる悲しみが潜んでいるのを感じた。
「私、かつて男の人に裏切られたことがあるの」
「えっ」
 突然の告白に、兼好は立て続けに瞬きをした。咲子はゆっくりと続ける。
「私、許嫁がいたの。相手は式部大輔に就いている格上の家の御曹司だったわ。でも私が十八歳のときに、その方は別の姫君と恋仲になってね。結局その姫君と夫婦の契りを結ばれたわ」
「そういうことがあったんだ」
 それは兼好が初めて知る、咲子の過去の失恋話だった。十年前に彼女を捨てた男がいたなんて。これほど美目麗しい女性が二十八歳になってもまだ独り身だったのは、この時の傷を引きずっているからなのか。
 いつも見せる明るさと無邪気さの陰で、このような辛い過去があったとは。
「わかるよ、咲子さんの気持ち」
「えっ」
「実は私にも、同じようなことがあったから」
 兼好もまた、頭の奥底に封印していた過去を掘り起こし、語り始めた。
「実家の近くに住んでいた、民部少丞の娘と両想いになったことがあったんだ。蔵人として仕え始めたころにね。だが私が鎌倉に下向して、一年半後に帰京してみたら、すでに娘は検非違使大尉の男に心移りしていた。その後二人は駆け落ちして今も行方知らずなんだ」
「兼好様にも、そんな辛いことがあったなんて」
 兼好もまた、自らの失恋話を吐露した。なぜ、自分のことを話したのだろう。恋人からの裏切りを味わった咲子に対し、そっと心を寄せる意思が働いたのか。同じ経験をしたことを咲子にも伝えて共感してもらいたい、との繊細な気持ちがとっさに働いたのか。
 偶然にも、二人は同じような恋の悲しみを経験していた。まさかこの期に及んで打ち明け話に発展するとは、兼好も咲子も思いもしなかった。
 しばらく二人の間に沈黙が走った。それを打開したのは、咲子だった。
「でも今は私、堀川の奥方様に対して、同じことをしているのよね」
「咲子さん……」
「恋って、人を残酷にさせるものなのね」
 咲子は胸にそっと手を当てた。具守の正妻・景子に対する背徳感を思い、震える心にそっと手を添えたのだろう。過去の経験があるだけに、人から男を奪い愛に溺れる自分を責めたくなる気持ちと、ひとりで戦っているのだろうか。
 兼好は、かつて西華門院基子の住む後宮にて、咲子が見せた涙を思い出した。愛する男に愛されなかった基子の悲哀に寄り添うように涙したあの時を。あれほど真っ直ぐに情念を表に出す人だ。良心の呵責に苛まれても仕方があるまい。
「でもね、大納言様が、永遠に一緒にいたいって言ってくださるの。私はあの御方を信じて、ずっとついていきたい。今はその気持ちの方が強くて……」
 不倫を続けることに胸を痛めながらも、具守の一途な思いが、心が張り裂けないように支えているのか。愛に生き愛に情熱を貫くことで、己の罪が少しでも忘れられるのか。人と人が契り合うことは尊く、重く、奥が深い。愛は背徳をも凌駕するものなのだろう。
「大納言様は、四月の賀茂祭を共に見ようと仰せになっていたわ。それを楽しみに日々を過ごすのが、今の私の生きがいかな」
 それは初耳で、今回の手紙の下書きにも書いてはいなかった。きっと具守が枕元で囁いたのだろう。そして、咲子の顔に笑みが戻った。
「ごめんね。こんな重たい話になって」
「いいんだよ」
「こんな話、父にも母にもできないわ。兼好様には何でも話せるから、すごく有難い」
「話をすることですっきりしたのなら、私も今日ここに来た甲斐があった。よかった」
 兼好も微笑みを返した。満足げにえくぼを見せる咲子に寄り添ったのだが、心の奥底は笑っておらず、むしろ冷めているのを感じた。
 咲子が両親にも言えぬ話をするのは、自分をよき話し相手として「信頼」してくれている証だ。だが、なぜか心は満たされない。「好かれている」と嬉しいのに、「信頼している」と言われても、喜びは沸いてこない。人から頼られるのは、本当は誇らしいはずなのに。
(まだ諦めていないんだな)
 兼好は自分の中に横たわる本当の気持ちを、まざまざと思い知らされた。だが現実は、咲子は具守との不義の愛に献身するつもりでいる。もうどうしようもできない。心を入れ替えるほかない。二人の愛を支え、二人から強く信頼されることを誇りに感じられる自分へと。
「では、また」
 主人の愛人に頭を下げ、兼好は唐橋邸を引き上げた。咲子が正門の前に立ち見送ってくれているのを、背中で感じる。信頼する男と、これからも良き友でいたいという意思の表れか。兼好は振り返りはしなかった。
 気が付くと、兼好は小走りになって一条大路を進んでいた。左右に小さな砂塵を浮かび上がらせ、堀川邸への帰路を急いでいた。


第六章へ


各章リンク


#創作大賞2024
#恋愛小説部門

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?