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つれづれなる恋バナ 終章【歴史長編恋愛小説】

終章


 年を重ねた今、実感することがある。昔の思い出とはなんと美しいものだろうと。夜空に輝く星たちがどれも煌びやかなように、若かりし日の出来事は淡く、瑞々しく、そして愛しい。
 振り返ると、あの女性との日々は、彼女の麗しさとともに、無数の星々の中のもっとも煌びやかな一等星として、絶えず私の胸に刻まれている。
 青春の昔の叶わなかった恋の思い出を、清々しい気持ちで回想することができる私は、幸せなのかもしれない。

 今私が心の底から願っていることは、咲子さんの幸福である。
 咲子さん。今、どこで、何をしている。あれから延政門院一条としてしなやかに生きていたはずだが、延政門院様は十年前におかくれになった。その後どんな道を歩んだのだろうか。あなたの住処が分からぬゆえ、こちらからは便りを送ることはできない。
 互いに出家の道を選び、三十余年があっという間に過ぎた。私は六十歳になった。あなたも無事に生き抜いて、還暦を迎えたであろうことを切に願う。
 眺めているだけで惚れ惚れしてしまう、大きく澄んだ瞳、透き通る長い黒髪。にっこり笑うと丸みの豊かなえくぼが刻まれ、会話をすれば人懐っこく、いてくれれるだけでほっとする癒しの力がある。そのくせ感受性が豊かで涙もろく、他人の気持ちにやさしく寄り添えるがために、心許した相手に気を遣いすぎてしまうところがある。長短含め、あなたを包む全ての要素がかわいらしかった。
 あのころの記憶のまま、あなたは私の中で生きている。咲子さん、あなたはいかがだろう。あの遠い昔に出会った卜部兼好のことを、あなたは今も記憶に深く刻んでくれているのだろうか。

 咲子さんとの日々を振り返るとき、やはりあの方のお姿が常について回る。堀川内大臣こと、堀川具守様だ。奔放ではあるが面倒見がよく、時には豪胆にして時には繊細でもあった御方。老齢とは思えぬ瑞々しさを保ち、好色漢であり続けた憎めない御方。青春時代に仕えた主人であり、人生において最も大きな影響を受けた人物であり、そして手強すぎる恋敵であった。
 そんな具守様から仰せつかった仕事を、私は全力でこなしてきた。至らぬ点も多々あった。だが家司としての経験は、遁世してから遭遇した様々な困難を乗り越える糧にはなったと思う。今思い返してみれば、私の最も印象的で、最も試練を与え、そして最終的には「失敗」に終わった仕事が、具守様と咲子さんの愛の下支えだった。
 四年に及んだ代筆業務。私の字が具守様の純真なる想いとして咲子さんに伝わり、咲子さんの心を開かせた。そして逢瀬を重ねるに至り、愛を育まれた。それは確かに大きな達成であろう。だがお二人が添い遂げることは叶わなかった。具守様は咲子さんを突然失い、寂寥感をお募りになったままご逝去された。その意味で、やはり私の中では失敗なのだ。具守様に対し大変申し訳なく、未だに私の胸を締め付ける。

 そのうえで今、天に向かって問いたいことがある。なぜ天は、あの時私に究極の選択を迫ったのか。私は咲子さんのことがずっと好きだった。だが、あの花散らしの雨の日、私の胸に飛び込んできてくれた咲子さんを、私は受け止めることができなかった。
 彼女への恋と、主人への忠義。とても天秤になどかけられない。咲子さんとの契りは、すなわち具守様への裏切りである。冷たい雨の中で、どちらかを選ぶ勇気も覚悟も、私にはなかった。
 しかしあの日こそ、咲子さんとの恋を成就する唯一の、千載一遇の好機だったはずだ。自分の心に素直に従えば、ぎゅっと彼女を抱きしめるのみならず、唇を合わせていただろう。たとえそれが主人への背徳だとわかっていても。しかし彼女が岩倉で具守様と共に過ごすことが決まったことで、私の気持ちが途切れつつあったのは偽らざる事実。それと同時に咲子さんは代筆の秘密を知り、私への想いを膨らませた。皮肉にもほどがある。恋のすれ違いの、なんとむごいことか。
 私は最初で最後にして最大の好機を逃し、結果的に彼女を出家に追いやってしまい、私自身も俗世を離れる決断を余儀なくされた。私は愚かだった。なぜ素直に彼女の真摯な思いに応えることができなかったのか。私と咲子さんの一瞬の両想いは、春雨とともに静かに流れ去ってしまった。

 だがあの愚かさは、今思えば、天の思し召しだったように思えて仕方がない。
 恋の三角関係の結末は、「三人が痛みを分かち合う」というものだった。私が全てを捨てて略奪愛に走っても、具守様への背徳感に縛られ続け、私と具守様の間で悩み苦しんだ咲子さんをさらに傷つけるだけだったのではないか。明るく天真爛漫な咲子さんにしても、そのままどちらかを愛しどちらかを奈落の底に落とすのは忍びなかっただろうし、苦痛は続いていたと思う。具守様も、ここで身を引くことで正妻景子様との関係がこじれることを回避し、醜聞を広げ晩節を汚すことなく、堀川家の安泰を保たれた。ギリギリのところで、天は私たち三人を絶妙に切り離したと言えるのではないか。
 岩倉で咲子さんと一度だけ偶然に再会できたのも、ようやく「私の意思による私自身の手紙」を彼女に書き送ることができたのも、天の配剤だったと思わざるを得ない。世の中うまくできているとしか言いようがない、ありがたき贈り物であった。

 梅の花がやさしく咲きほこる頃のひょんな出会い。まさに花のようなあなたを見初めて芽生えた恋は、桜を散らす雨が滴る日に幕を下ろした。その名の通り、あなたは私の心に煌びやかな万葉の花を咲かせてくれた。そして咲き誇る花園の記憶が美しいまま、あなたは私にかけがえのない恋の思い出を残してくれた。

 ありがとう――

 咲子さん。とにかく生きていてほしい。元気でいてほしい。幸せであってほしい。今私があなたに望むのは、ただそれだけである。

 令和の世の諸君よ。私の恋の話はいかがだっただろうか。
 諸君が生きる時代の遥か昔に、結ばれることなき恋に淡い夢を見た一人の男がいた。このような男を、諸君はどのような思いで見つめたのだろうか。
 卜部兼好のかけがえのない青春の記憶をともに辿ってくれたことに、心から礼を申し上げたい。
 いま、鉄の札を握りしめながら、想い人に淡い気持ちを込めて文を交わしている人もいるのだろう。想いが通じず、ため息を漏らしている人もいるかもしれない。満たされる恋もあれば決して叶わぬ恋もあろう。祝福される愛もあれば許されざる愛もある。恋愛の形は人それぞれだ。
 だが、人生の先達として、一つ言えることがある。今がどれだけ辛くとも、悲しくとも、時が経てば全てが良い思い出に変わる。命ある限り、美しく成熟した思い出たちをそっと胸に抱き、生き続けることができる。全ての思い出は夜空を織りなす満天の星そのものである。その輝きは永遠である。
 人が人を好きになる。ただそれだけで、満天の星のひとつになって光を放つ価値がある。
 全てのものは絶えず変化し、生あるものは必ず滅ぶ。それはいつの時代も変わらぬ真実である。この常ならむ世の中において、諸君もまた限りある命を生きている。その短くはかない時間の中で出会う人たちと紡ぐ日々は、燦然とした光の結晶となって夜空を彩ることになる。いずれ煌めくはずの思い出を生み出す今この瞬間を、どうか大切に生きてほしい。
 それが私の素直な思いだ。


完。


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