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大切なことは、ライブハウスに教わった。

新しい部署に移動して、2週間が経った。

教えてもらって、まとめて、
それを確認しながらもう一度やってみる前に、新しいことが舞い降りてきて
気づくと、繋がっている。
「Aと流れは一緒なんですね」とか
「AがあるからBってふうになってるんですね」なんて言いながら、「そうそう」「なるほど」と笑い合う。
ゴール地点を見据えて、少しずつ前に進んでいることに、強い実感を伴う日々は、慌ただしく過ぎてゆく。

“仕事”ということの大枠を考えるときは、いまでも思う。
大切なことは、ライブハウスに教わったのだ、と。

ライブハウスに務め始めたのは、大学の終わり頃だったと思う。
大学2年のときにお世話になったライブハウスにそのまま入り浸って、「働かせてくださいよ〜」なんて言ってたら呼んでもらえて、少しずつシフトを増やしていた。

あのころはなんだか、働くことへの絶望感があった。

初めてのアルバイトは高校生の頃、ガソリンスタンドで。
車が好きだった、なんていうわけはなくて、「父親の知り合いのガソリンスタンドで、夏休みだけ人手を募集している」というので、行ってみた。
午前中は高校の夏期講習、午後はガソリンスタンド。
帰ったら、ごはんを食べて、疲れて眠る。

夕食のときの父親は、なんだか横暴に見えていた。
おかわりくらい自分でよそえばいいのに。なんて思っていたのに。
17歳とか、18歳のわたしは唐突に悟ったのだ。
「一日仕事して疲れて帰ってきたら、そりゃこうもなるわな…」
父親の気持ちがわかる、と思った。
そして、それが一生続いていくのかと思うと、絶望した。
父親は大工で、一緒に住んでいる祖父も大工だった。
一生って、仕事って、
どろっとした黒い水のようなものが、心臓をじんわりと濡らしたことを覚えている。

ライブハウスにいる前は、飲食店で働いていた。
当時はmixiが流行っていて、「あの店は提供が遅い」みたいなふうに書かれていたのを目撃してしまった。
わたしのことかもしれない、と思った。
学校へ行って、アルバイトをして、バンドをやって、
仕事にやり甲斐を見出す前に、わたしは疲れてしまった。
この先の未来は、時給の50円アップと、発注の業務、時間帯に於けるバイトリーダーの肩書き。
たった50円で、多くのものを背負わされるような気がして、「このままでいいや」と思った。
「仕事を覚えるのは大変かもしれないけど、定期的にアルバイトを変えて”下っ端”でいるほうが効率がいいのかもしれない」と感じたことも、記憶している。
そんなことを思っているうちに、身体がぼろぼろになって、一年経った春に逃げるように辞めた。

ライブハウスなら、と思ったんだろう。
あのころのわたしは、ほとんどライブハウスには行ったことがなくて
行くとしても知り合いのライブを見るだけに訪れたその場所は、とてつもない憧れの地だった。

受付やドリンクの仕事を教えてもらって、たくさんの音楽を聞いて
大学4年の頃から自分の音楽活動も活発になったわたしは、就職活動をしなかった。もともと、やる気もなかったけれど。
そして、卒業してどうしようかと思ったとき、店長に拾われた。
「これからどうするんだ?」
「行くところがなかったら、ここで働けばいい」

わたしは、迷うことなく頷いた。

それから1,2年は結構大変だったと思う。

照明や、ステージ周りの仕事を覚えてゆく。
と言っても、教われることに限りがある。
最低限を仕込まれて、「じゃああとは本番で」となってしまうのは、当然のことで
そして本番と言うのは、「誰かのたった一度のライブ」のことだった。

リハーサル中も、ライブ中も、「わたしに仕事を教えてくれる人」はあんまりいなかったと思う。
スタッフは最低限だったし、何よりほとんどの時間で音が鳴っている。会話もままならない。
わたしに仕事を教えるよりも、「イベントを遂行する」ほうが大切で、それはわたしがいなくても進んでゆく。進まなくてはならない。

困ったわたしは、音響さんの動きを観察した。
彼の動きは、機敏で美しい。
「無事に、音が鳴るまで」の環境を、しずしずと整えてゆく。

彼が見ているのは、ステージ全体と、出演者さんの動き。
邪魔になりそうなマイクスタンド、そこから垂れ下がっているケーブルを避けて、
「どこですか?」と聞かれる前に、ギタースタンドや電源タップを配置する。
ドラムに設置されたマイクは要注意で、ドラマーさんがセッティングに入る前に避けなければ、倒れてしまう。

準備ができた人から自由に音を鳴らすから、会話は次第にできなくなる。
本番の場合、ステージは薄暗く、出演者さんは緊張で浮足立っている、という、なかなかハードな状態で準備を進めなければならない。
何もできなくて突っ立っている時間も、多かったように思う。

怒られながら、次第に仕事を覚えた。
うちの場合は、音響さんはひとりだったので、この人の指示に従えばいい。
自然と、「彼なら次はこうするだろう」ということが理解できて、先に動くことができるようになったと思う。
数年経った後には、阿吽の呼吸と言っても過言ではなかった。
次のバンドのセッティングを確認して、「オッケー」と笑いながら、軽やかにステージへと駆け出すわたしがいた。

そのころには、自分も定期的にライブをするようになって、いろんなライブハウスの人に助けられた。
自分が演者側で、「ありがとう」と思えた手助けを、仕事のときには真似るようにした。

「無事に、すべての音が鳴りますように」
「出演者さんが少しでも安心して、ライブに臨めるように」
わたしは、暗いステージの隅に立って、全体を見回し続けた。
「どうすればいい?」と誰かに聞く前に、必要だと思うものを差し出す。
音が鳴るまでに必要なもの、快適な演奏環境にするために必要なもの。

わたしはギターもベースも弾けないのに、「音が出ない」のトラブルにも対応できるようになった。
だいたい、アンプの電源が入っていないとか、メインのボリュームが上がっていないとか、ケーブルの順番が逆になっているとか、そういうことだった。
ライブ前って、信じられないくらいそういうことが起こる。
演奏だって、準備だって、「練習通りにできない」っていうのが、ライブ本番というもので
その張り詰めた緊張感は、ライブ前から始まっている。

そして、すべてのバンドの演奏が終わったときに、わたしはようやく深く息を吐くのだった。

いま思えば、これがわたしの仕事のすべてだった。
「目的地を理解して、然るべき道を歩む」という、ただそれだけのこと。

ライブハウスではそれがわかりやすくて、「ライブが開催できる状態に整えること」で
いつも、そこに向かって全力だった。

いまでも、変わらない。
わたしは、目的地を確認する。
仕事をしながら「困ったな」と思うこともあるけれど、質問する前に考える。
目的地に対しては、どういうアプローチをするべきか、と。
考えているうちに解決することも多いし、わからないときは「こういうやり方でいいですか?」と意見と併せて確認したり、「AかBだと思うんですけど、どっちですか?」と質問するようにしている。

いまでは、隣にいつでも質問できる人がいるけれど、
わたしは、ライブハウスにいたときの、あの気持ちを忘れない。
質問するより早く、相手の行動を見て、意図を理解して、望みを叶えるように動いてゆく。
「なんでも聞いて」と言ってもらえたことも、すなおに受け止める。
意図がわかっても、専用システムが使えないと前に進めないというような物理的な問題のときは、さくっと質問をする。
専用じゃないシステムのときは、ググればいい。

そうして生きていれば、どこで何をしていたっていいのかもしれない、と最近は思う。

会社務めや、アルバイトとか正社員とかの雇用形態とか、いろいろ思うことはある。
反発し続ける、幼いわたしも死んでいない。

それは、どうでもいいことだったのかもしれない、とようやく思えるようになった。
目的地を理解して、そこへ向かって考えて、誰かと一緒に進んでゆくこと。
そしてゴールしたときには、「よかったね」と一緒に笑い合うこと。

与えられた「ゴール地点」そのものよりも、
「ゴール地点に向かって、どうやってわたしらしく進んでゆくか」を考えながら努めること、その過程を楽しむこと。

仕事って、そういうことだと思う。
そういうことだといいな、と思っている。



【photo】 amano yasuhiro
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