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真空パックの呪い

音楽をやってきた、という言い方はしっくりこないのだけれど
誰かに経歴を伝えるときには、どうしてもこの言い方になってしまう。
実際、音楽をやってきたのだとも、うすぼんやり思っている。

大学では軽音部、
卒業してからはライブハウスに入り浸った。

そんなわたしのiTunesや、iPhoneの「ミュージック」アプリには、”友達の曲”というものが、存在する。
数はきっと、少なくない。

わたしの世代は、「CDを焼く」ことができるようになり、簡単にデモCDの配布もできるようになった。
CDを”プレスする”
お店で売られているのと同じ形状にする、ということも何度か経験させてもらった。
わたしもそうだったし、周りもそうで、まさしく”そういう”時代だった。
(10個くらい上の人になると、若い頃は”カセットテープ”だったという話が出てくる)

ときどき、友達の曲を聞く。

ほんとうに、ほんのときどきにしている。
友達の曲は、思い出が多い。
この曲を作ったり、歌ったり、演奏している人のことを、わたしは知っている。
曲は、世界の何処かで魔法として生まれるのではなく、眉間にシワを寄せる瞬間がありながらも、強い意志で生存してきたことを、どうしても無視できない。
客観的に、なれないのだと思う。

友達の中には、今も変わらず友達でいる人もいれば、以前より仲良くなった人もいる。
もう、会わない人とか、会えない人もいる。
まだ歌っている人もいれば、そうじゃない人もいる。
そうじゃない人、というよりも、「歌っているかどうか知らない」人もいる。

真空パックされた音は、変わらずそこに存在し続ける。
それを聴くわたしが、どれほど変わっていっても、音は変わらない。
呪いみたいに。

わたしはその呪いに、静かに祈る。
尋ねる、と言ったほうが適切かもしれない。
届くわけのない声で、「げんき?」とつぶやく。

傲慢だと思う。
会わないとか、会えない人に、そんなふうに尋ねるのは、傲慢だと思っている。
ほんとうに気になるのならば、連絡をしてみればいい。
でも、そうじゃない。

げんき?
まだ、音楽は続けている?
続けていて欲しい、なんていうのも、また傲慢だ。
あなたの音が好きだった。
でも、音は決して、あなたのすべてではない。
でも、ステージに乗るあなたが好きだった。

あなたの音、生きているよ。
その、息を吸い込む瞬間
歪むギターの音
縫うようなベースライン
突き刺して弾けるようなスネア
その、すべてに。

げんきにしていますか?
答えはなくても結構です。
これは、呪い染みた祈りに過ぎません。


わたしは、元気です。

あなたが知っているわたしは、誰ですか?
いつのわたしだろう。
いまのわたしは、あの頃の気配を残していますか?
少しばかり、成長していますか?
結果は、どちらでも構わないのだけれど。

声を掛けてくれなくてもいいんです。
ただ、わたしが”わたしらしく”生きている姿に、もし安堵してくれたならば。
これ以上、嬉しいことはありません。

元気です。
もう、あなたがいなくても。
あなたの姿が、見れなくても。


昔の、険しい思い出の大半を、わたしはもう覚えていません。
学校の近くの花壇で深夜に語った思い出とか、
半分こしたウィルキンソンのジンジャーエールのことばっかり、覚えています。
夏に、ガリガリ君の梨味ばっかり食べたこととか
帰りの車で食べた、果汁グミのこととか。
そんなのばっかりです。


未来はどうであれ、今は
あなたの音が鳴っています。

むかしは、お客さんの数とか、CDの売れ行きとか(制作費を回収したいとか)、そういうことばかりを気にしていましたが
いま、わたしがあなたの音を聞いています。
懐かしい、という感傷を捨て去っても
やっぱり、良い曲だな、とか、良いCDだな、とか
悔しいことに「敵わないな」と思ったりします。

そういうことで、充分じゃないでしょうか?

もう、同じ音が鳴らなくても
歴史を共有し、共に駆け抜けたあなたが
すこやかな時間を手にしてくれていることを、願うばかりです。



【photo】 amano yasuhiro
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