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サッカーを学校体育の種目から外すことによる弊害

昨日の今日でこのタイトル
なんかマッチポンプみたいで恐縮ですが

前回は「サッカーを学校体育から外す」提案をしたところで、
そうすると悲しむ子どもの存在に気づき、宿題を持ち越して終わりました。

※現実にそういう動きが起きているわけではありませんのでご了承ください。

<以下再掲>
学校体育からサッカーが姿を消すと、明確に困る、というか悲しむ子どもたちがいます。

言っておきますが、クラブチームや少年団でサッカーをしている子のことではありません。

そういった場でサッカーがしたいのに、経済的もしくは家庭の事情でサッカーが出来ない子供たちのことです。

唯一サッカーと触れ合える場のはずであった体育の授業からサッカーが消えれば、サッカーと触れ合うチャンスはほとんどなくなります。
<再掲終わり>


さて困りました。

「サッカーなどやりたくないのにやらされる」子どもと、
「サッカーをやりたいのにやらせてもらえない」子どもの利害が完全にバッティングしてしまっています。

こういう場合、どちらの意向を優先させたらいいのでしょうか。


ここで「サッカーをやりたいのにやらせてもらえない」子どもの心理が
必ずしも一枚岩でないことについて、補足説明したいと思います。

ボールを蹴る機会があるならぜひあやかりたい、と思う子どもがいる一方で、自分には縁のないサッカーを「見るのも辛い」と感じてしまう子どももいる。

後者は何を隠そう、往年の私のケースです。

小学生の頃の私は自分の心臓が悪いと信じ切っていました(騙されていた)から、何とかしてサッカーのことを忘れなければと思い詰めていました。

実際、街中でサッカー少年を見かけるだけでも辛かったし、
テレビでサッカーのシーンが出てこようものなら
席を外して暫くベランダから外を眺めていたりしました。
タイトル画像はベランダから見える景色です)

そんな努力をしても、体育の授業でサッカーをするときは逃れようがありません。
まあ学校指定の体操着でやるわけで、ビジュアル的なショックは幾分和らぎましたが…
でもパンツだけ少年団の奴を穿いてくるやつとかいるんですよね(ちなみにそいつとは仲が良かった)

もちろんボールを蹴れる喜びはありましたが、
それ以上積極的に関わることはできないのだと思うと、辛さはそれを上回りました。

そんなこんなで、結局サッカーに対する未練を断ち切ることはできませんでした。

これがもし、学校体育でサッカーが行われていなかったら、
サッカーのことを完全に意識しないようになれたかもしれません。


なんか回りくどくなってしまいましたが、

「サッカーをやりたいのにやらせてもらえない」人にとっても、
体育の授業からサッカーを外すことがプラスになる可能性はあるということです。


とはいえ、サッカーを忘れることが、嫌うことが出来た自分というものを、
いざ実際に想像してみると、寂しいもんです。

他のことに生きがいを見出し、それに向かって突き進んでいるように見えても、それはもはや自分のようで自分でない、何か別のものに変化してしまった異形の者、そういう感触です。


自分をサッカーに繋ぎとめておいてくれた体育の授業には、やはり感謝しています。

このように、あとになってからその有難みがわかることって、学校生活あるあるですよね。


結局「サッカーなどやりたくないのにやらされる子」と、「サッカーをやりたいのにやらせてもらえない子」双方の最大公約数を満たそうと思ったら、学校体育におけるサッカーの場においても、出来ない子どもをできるだけ底上げ出来るような指導を徹底することがいちばんだと思います。
それが難しいんですけどね。

クラブチームや少年団でやっている子どもは、下手な子のペースに合わせるもどかしさを感じるかもしれないけど、それはそれぞれの所属する団体で思いっきり発散してください。
そういう子には、クラスの皆の前でお手本をやらせてあげて自尊心を満たしてあげるという方法もあります。

あらゆる子供がサッカーを通じて体を動かすことの楽しさを覚えて欲しいと思います。


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