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「甘える」は、自己肯定感を高めることにつながる話

自分の中で「甘える」の定義が変わってきている。

以前はできないことを相手に丸投げして、自分自身のことですら相手にしてもらっていた。私はそれを「甘える」ことだと思っていた。

今の私が「甘えたい」と思う時は、誰かにただ話を聴いてほしい、未熟な私を褒めて肯定してほしいと思う時だ。もちろん、自分のことは自分でするのが前提である。それは「甘える」というよりか「応援してほしい」に近い気がする。


この記事には、甘えることが自己肯定感につながると書いてあった。私が「甘えたい」と思う時は、大体自信を無くして落ち込んでいる状態だ。自己肯定感が下がっていたのか……。

なので今回は、「甘える」ことについて深堀りしていこうかと思う。なお、このnoteでの「甘える」の定義は、先程の記事から引用して、以下のことを指す。

この自己肯定感を育てるために重要な役割を果たしているのが“甘え”です。甘えとは、平たくいうと相手の愛情を求めること。甘えが満たされると自分は愛されていると感じ、「自分は大切な人間」「自分は自分でいいんだ」といった気持ちが芽生え、自分にも、相手に対しても信頼感が生まれます。

“甘え”は人間の成長になくてはならないもの


甘やかされても、甘えられない私

私は親に甘やかされて育った。私が「できない」と喚けば、親は私の代わりに動いてくれた。まるで私の手足のようだった。

なので私は些細なことから重大なことまで、自分で考えて決めて動くことをしなかった。そのような生活を続けていたら、次第に自分で意思決定ができなくなっていた。

このように私は親に甘やかされてきて育った。しかし、私は親に甘えてきたのだろうか?

親は過干渉だった。私の人間関係に干渉するくらいだ。だから私は甘やかされても、自分の心の内を明かすことを親には一切しなかった。何か話したら否定される、余計なことを言われる、何も知らないくせに傷つけてくると思っていた。

「悩みがあるなら相談して」

親からよくかけられた言葉だ。私が外であった出来事を何も話さないから、そう声をかけてくれたのだろう。しかし、たとえどんなに死にたいくらい苦しいことがあっても、私は一切親には相談しなかった。親に相談するくらいなら他の人にする。それが私の方針だった。


だけど、相談できる「他の人」がなかなか見つからなかった。私は自分の悩みを「他の人」にすら話せない、極度の人見知りだった。

極度の人見知りである私が、悩み相談を「他の人」にするようになったのは、就職活動の時だった。「キャリアカウンセリングをとにかく使え」というゼミの先生の言葉に従い、私はキャリアカウンセリングをとにかく使うことにした。

とはいえ何度も相談しても、カウンセラーは私自身を受け止めてくれなかったように感じた。自分に合わないアドバイスをもらったり、逆に怒られてしまうこともあった。

今考えれば分かるのだが、就職という自分で意思決定しないといけない時に、私はそれができていなかった。自分が何をしたいのかが分からないけれど、カウンセラーなら私にピッタリな答えを出してくれるだろう。そう信じ込んでいた。自分で考えずに今まで生きてきた結果である。

そんな就職活動は当然ながら失敗して、就職先が決まらず大学を卒業した。その後、無職の私に優しく接してくれる人に頼ることにした。

私は誰にも言えなかった本心を、泣きそうになりながら打ち明けた。相手は黙って話を聞いてくれた。こんなにも酷くて醜い私を受け入れてくれた、と思った。だけどこの出来事を皮切りに、相手にどんどん依存していき、執着してしまって迷惑をかけた。

この経験から、誰かに本心を打ち明けることが難しくなってしまった。誰かに本心をを話すと、その人に依存して執着して、関係が壊れてしまうと思い込んでいた。私は誰かに「甘える」ことがますます困難になっていった。


ただ私の話を聴いてほしい

今までの経験から、「甘える」ことが難しいと思っていた私だった。それから数年後、私は仕事の悩みに苦しんでいた。

自分で書き出して整理しても、スッキリしない。誰かに話を聞いてほしい。甘えたい。ひたすら私が話をするから、相手にはただ「うん、うん」と相槌を打ってほしい。それだけでいいのに。

だけど、そんなことができる相手がいないから、私は誰かに甘える代わりに甘い飲み物を飲むことにした。飲み物の甘さに、私は寄りかかりたかった。甘味は私を、ただただ甘さで包み込んだ。


なのに突然、気に入っていた甘味飲料が売られなくなってしまった。甘味に甘えたいのに。甘える相手(?)がいなくなった私は、どんどんしんどくなってしまった。


私はある人に悩みを相談することにした。早急に対策を練って、仕事ができるようにならないといけないのに、動きたいのに。だけど心では誰かに甘えたい、私の気持ちを受け入れてほしい。

という気持ちをそのまま書いた。すると、返信が来た。

「私はいつでもお話を聞きますし、甘えてもらいたいと思います」

甘えてもいいんだ……。この返信の後、私は相手に長文のやり取りをして、甘えまくった。やり取りというか、相手からもらった言葉で内省をして、それをそのまま送り返すような感じだった。心は軽くなったが、今思うと甘えすぎたと思う。申し訳ない。


この悩み相談を経て、私は「甘える」の定義が変わってきたと思うようになった。そして、このnoteを書くきっかけにもなった。


まとめ

「甘える」ことは社会では許されないことだという認識になっている気がする。しかし、人は甘えないと生きていけない。「甘える」ことは、そこにいる自分自身を受け入れることだからだ。

甘える相手が親しい人でなくても、効果はある。私の場合は、会ったこともない人に聴いてもらっていた。むしろ、私のことをあまり知らない人の方が自分のことを話しやすかった。

家族には甘えることすら困難だった。甘やかされることを甘んじて受け入れていたので、私はわがままな人間だと自分でも思っていた。わがままでも、決して自己肯定感が高い状態とはいえないことに気付く。

自分の意見を通そうとして、察しろとばかりに不機嫌になることも多かった。否定されるのが怖くて、素直に甘えることができなかったからだ。わがままは、甘えられない私の自己主張の手段だった。


後に、私は自分の気持ちを伝えることが、無意識にできなくなっていることが分かった。最初に書いた、家族との関係がきっかけなのかもしれない。このことはまた別のnoteに書くことにしよう。


余談:セブンイレブンで売っていた、「きみののむプリン」という飲み物が、とにかく甘味を感じられて美味しかった。しかし今は売っていない。常に売り出してほしい。

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