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あの頃の「私だけの秘密」

小学校の頃から、国語の授業中に隠れて巻末の小説を読むのが好きだった。

国語の教科書には実に多くの読み物が収録されている。さらに、それらはすべてその年の児童・生徒に向けた本の1番良い部分を抜粋しているため、どれも読み応えがある。しかし、収録されているすべての小説や評論を授業で取り扱うわけにはいかない。1年間の授業スケジュールには限界があるため、「ごんぎつね」や「少年の日の思い出」のような有名な作品のみを取り扱うようになってしまう。今思うと非常に勿体無い話なのだが、これは仕方がないことだ。

だが、私は毎年教科書に載っている小説はほぼほぼ目を通していた。読む時間は授業中。音読で自分の番がまだまだ来ないな、と余裕がある時は早速教科書をペラペラとめくり巻末に収録されている、授業では到底取り扱うことのできなさそうな小説を読んでいたのだ。

1番覚えているのは高校2年生の現代文で読んだ村上春樹の小説だった。当時授業で取り扱われていた夏目漱石の「こころ」の音読が始まるとすぐさま教科書を後ろから開き、自分の番が来るまで読んでいた。「え、村上春樹って教科書2年連続載ってんじゃん」とか他愛もないことを思い巡らせながら読んでいく。そして、自分から3つほど前の席に座っている友人の声が聞こえて来ると、自分の読む番が近づいていることを察し、慌ててページを戻す。そして、クラスメイトの読む声と教科書を照らし合わせながら現在地を探す。ここはスピード勝負、もしここで見つけるのが遅れてしまえば、私が授業に集中していないことがバレてしまう。あくまで平然と授業を受けている様を装いながら、目をギラギラと凝らし探すのだ。そうこうしている間に自分の出番。「ラッキー!読む部分短いじゃん!」とか心の中でつぶやき、何事もなく出番を終えればまた村上春樹の世界に戻る。

教育実習を終えた今でこそ「頼むから授業に集中してくれ。」という教師側からの目線で過去の自分に訴えかけてしまうのだが、当時の自分は「授業中にこっそり読む」という魅力に取り憑かれていたのだから、そんな言うことなんか聞くはずもない。もちろん、どの小説も内容が素晴らしいがために惹きつけられてしまう、というのも理由の一つだが。

私は高校時代はこのことを誰にも言ったことがないし。それは、学校の中ではありふれている「授業」という時間の中に秘められた「私だけの特別な時間」と心のどこかで自覚していたから誰にも言わずにいたのかもしれない。(ちなみに、同士を授業中にこっそり見つけたことはある)

高校時代なんて、自分では大人だと思っていてもまだまだ先生や親の管理下に置かれている子供だ。「秘密」を作ろうとしても、作りたくても、作れなかった。だが、案外授業中に「誰も知らない自分だけの秘密」が隠れていたのだとすると、親にも先生にも知られ得ない「私だけの秘密」を心の中で守りたくなるのは想像に難くない。

昨年の秋、母校に教育実習に行ったが私の授業では隠れて別のページに出かけてしまっているような生徒は見られなかった。私が英語科の授業(しかも文法)を行っていたから、というのもあるかもしれないが、それ以上に私が気づかなかったからかもしれない。新米教師より新米な仮教師だった私には、授業と並行で生徒全員の細かい部分まで気がつき、見ることができなかった、という後悔が大いに残っていたのだが、もしこんな小さな生徒の秘密を守れていたのならなかなか悪くないのでは、とほんの少し思うのだ。

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