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#8 浜のネイティブ・ジャパニーズ(前編)

 私にとって旅は発見であった。私自身の発見であり、日本の発見であった。書物の中で得られないものを得た。−(中略)− 人の生活の場にはそこに百年の歴史があれば百年間の、百人の人が住めば百人の、それぞれの生活の歴史がひそんでいるはずである。そういうものをかぎわけて追求してゆくことによって、人は如何いかに生きて来たかを発見することがわかるばかりでなく、いま自分の立っている位置もおのずからわかって来る。
 −(中略)−
 私は日本という国はそのようにしてもう一度見直すべき国だと思う。国というよりもそこに住んでいる私たちとその生活を見直すべきだと思う。目あたらしいということは目さきがかわっているというだけでなく、今まで気づかなかったものの中の意義ある事実に気付くことにもある。つまらないと思って見すごしたものをもう一度たんねんに見直すと意外なほど深い意味をもっていたり、時には美しさをもっており、ときには生きることの法則のようなものすら見つけることがある。
ー 宮本常一短編集「見聞巷談」, p.80

 これは1907年に山口県周防すおう大島に生まれ、日本全国の農山漁村を歩いて庶民の暮らしを丹念に記録し続けた民俗学者・宮本常一さんの言葉です。浜の暮らしを思うとき、私はこの言葉に深く共感します。宮本さんの言うとおり、私たちに今こそ必要なのは、「人々の生活の場」を「見直す」こと、「つまらないと思って見すごしたものをもう一度たんねんに見直す」ことであり、そこにこそ大切なことや生きる知恵がたくさんつまっていると感じているからです。

 前章「希望をつなぐ」では、はまぐり堂と地元のお母さんたちとの、地域の足元にある宝ものを見つけ、未来へとつなぐ取り組みについてご紹介しました。今回は、私自身が浜に暮らす中で出会った、浜のネイティブ・ジャパニーズ、自然と向き合いながら暮らす浜の人たちの姿から日々学ぶことについて、お話したいと思います。

 浜に暮らすようになって私は、ここに暮らす人たちの生活が、都市部の生活とはまったく違う軸を持ったものであることを体感するようになりました。浜の暮らしの軸となっているのは、自然と密接に関わり合う生き方であり、自然の織りなすサイクルに合わせて皆で助け合いながら生きる姿勢です。
 浜での暮らしは、浜の人たちや浜出身の夫にとっては当たり前のことでも、都市での生活が長かった私にとっては驚くようなこと、新鮮なことがたくさんあり、その暮らし方を先輩方から学ぶたびに、尊敬の気持ちが湧いてきます。

「今日は南風だな」
「桐の花が咲き出したから、山のほうからいい匂いがしてるよ」
「磯はそろそろヒジキおがって(育って)きてたな」
「もう網にイワシ入って来てたよ」

 浜の人たちのちょっとした会話の中で必ずと言っていいほど話題にのぼるのは、身の回りの自然のことや、生き物のこと。自然から恵みをいただき、それを日々の糧として暮らしている浜の人たちは、いつでも自然をよく観察していて、どんな小さな変化にも気づいています。海を生業としているからこそ潮の満ち引きや波風の変化に敏感なのはもちろんのこと、その時々の植物の美しさや、生き物たちの動き、旬のものを味わう喜びもよく知っています。

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 浜の人たちは当たり前のようにこういう会話をしていますが、都市部ではこんな風に自然のことを日常的に話す人は、とても少ないように思います。
 人が作った道路、人が作った建物、人が作った商品…つねに人が作り出した、人のためのものが周りにあふれ、暮らしの中心、暮らしの基準が「人」である都市の中では、当然、人と、人の作るものに関することが話題の中心になっています。
 もちろん、そんな都会の真ん中でも、緑を植え、花を愛し、生き物と触れ合い、自然の移ろいを大切にして暮らしている人もたくさんいます。ですが全体として見れば、果たして都会に暮らす人の中に、農山漁村の人たちのように「自然の前では人はちっぽけで、自分たちは自然の恵みを受けて生かされている存在だ」ということに感覚的に気づいている人はどれほどいるのでしょうか。その実感は、都市で暮らしていると、よほど敏感に感じ取ろうとしない限り、どんどん薄れていってしまうように感じます。
 時に人が、自然すらも自分たちでコントロールすることができると思い違いをしてしまうのは、人が作り出したものばかりに囲まれて暮らすうちに、自然の大きさを忘れ、自分たちが生かされていることを忘れてしまったからではないかと思うのです。

 海からは、海藻や魚、カニやタコ。山からはクルミや梅、山菜や山椒…。浜には、季節ごとに豊かな自然の恵みがもたらされます。
 浜の人たちが総出でヒジキを刈るのは、春の大潮の日の、一番潮が引く干潮の時間帯。ワタリガニがやってくるのは、新緑の季節。自然の恵みの旬は、注意深く自然のサイクルを観察していなければ、あっという間に過ぎ去ってしまいます。みんなが自然の変化を常に話題にするのは、それが暮らしに密接に関わる大切な事柄だからです。
 豊かな恵みをもたらす海ですが、一方で時には強い風が吹き、波が岸壁に打ちつけるような大時化おおしけで漁を断念することや、台風の来る前にはみんな船が流されないように大急ぎで準備することもあります。海は一瞬にして人の命すら奪うこともある、危険と隣り合わせの場所でもあるからこそ、小さな天候の変化、海の変化を、浜の人たちはいつも注意深く見ています。
 
「今日は波立ってるから沖さ出られないなぁ。ま、しゃーねぇ。そういう日もあるな!」

 浜で暮らしていると、こういう、自然の厳しさに対する「しょうがないよね!」というような言葉もよく聞きます。
 自然の恵みとともにその厳しさも受け止めながら生きる人たちには、どこか根底に「思うように行くこともあるけど、そうじゃないこと、うまく行かないこともあるのが、当たり前」という気持ちがあるようです。
 それは、深刻に思い悩んだりするのとは正反対の、ある種カラッとした、爽やかなあきらめの言葉のように私には響きます。
 浜の人たちは、自分たちは大きな自然に生かされている身であり、自然はコントロールできないのが当たり前で、そのことに対して無理にあらがわない、執着しない、自然の流れに軽やかに身を任せる術を、当たり前のように持っています。そして時化や台風が、海に豊富な栄養を送り込み、また新たな恵みを与えてくれることも皆よく分かっています。

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 人智を超えたところで働く自然の営みに抗うことなく、その時々できることをしたら、あとはあきらめて待つ。そしてまた、恵みを感謝していただく。
 浜の人たちには「そんなの当たり前だ〜」と言われてしまいそうですが、私はそんな姿勢に触れるたびに、人が本来自然に向き合うときに持つべき謙虚さを感じて、いつもハッとします。
 
 自然から離れ、今や自然とは本当はどういうものなのかを感じる機会すらなくなって来ている都市の生活。お金さえあれば、全てのものを得たり、蓄えたり、増やしたり、なんでも自由にできる(ように思える)暮らし。
 そんな暮らしの中では、自然だって自分たちの力でコントロールできるはずだ、どうにかコントロールしてやろう、という考えになっていってしまうのも、当然なのかもしれません。
 しかし、例えそんな人間中心の暮らしをしていたとしても、ひとたび突発的な自然災害などが起これば、私たちはどこで暮らしていようとも、自然の恩恵と厳しさの中で生きている生き物なのだということに、突如として気付かされます。
 だからこそ、いつでもどんな場所で暮らしているとしても、自然と向き合う感覚、謙虚さを持つ姿勢が、私たちにとって大切なのではないかと思うのです。 

 自然の変化に敏感に気づくこと。季節ごとにもたらされる自然の恵みを、時期を逃さずに受け取り、感謝していただくこと。自分の力ではどうにもならないことには抗わず、自然の流れに寄り添うように、謙虚に生きてゆくこと。

 この、昔はもっと誰もが当たり前に持っていたかもしれない感覚、いつの間にか失われつつある大切な感覚を、浜の人たちの当たり前の暮らしの中から、私は日々学んでいます。


(続く)




はまぐり堂 LIFEマガジン【ネイティブ・ジャパニーズからの贈り物】
執筆担当:亀山理子(はまぐり堂スタッフ / ネイティブ・ジャパニーズ探究家)早稲田大学教育学部学際コース、エコール辻東京フランス・イタリア料理マスターカレッジ卒。宮城県牡鹿半島の蛤浜に夫と動物たちと暮らしながら、はまぐり堂スタッフとして料理・広報などを担当。noteでは浜の暮らしの中で学んだこと・その魅力を”ネイティブ・ジャパニーズ”という切り口から発信中。


掲載中の記事:
はじめに
#1 食べることは生きること(前編)
#2 食べることは生きること(後編)
#3 足元の宝ものを見つける(前編)
#4 足元の宝ものを見つける(後編)
#5 希望をつなぐ (前編)
#6 希望をつなぐ (中編)
#7 希望をつなぐ (後編)
#8 浜のネイティブ・ジャパニーズ(前編)
#9 浜のネイティブ・ジャパニーズ(中編)
#10  浜のネイティブ・ジャパニーズ(後編)

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