ぼくたちはかなしみのままで
不安を緩和するクスリはあっても、
かなしみを取り去るクスリはないんだ。
窓のカーテンのすそから差し込む光をぼうっと眺めながら、ふと、そんなことを思った。
喪ってしまったものは二度と戻らないし、また喪うことを想像すると明日を生きることすら怖くなる。
ニュースは非情にも、すでに起きてしまったことを伝える。
そんなことが、もう起きてしまって、ことはすんでしまったのだと。
だれかが泣くのを見るのは、つらい。
昨日との断絶を経験することがある。
かなしみになってしまったものは、ほかの何かで完全に元通りにすることは、できない。
欠けてしまったら、私たちは欠けた形のまま歩いていくしかない。
やがてかさぶたのようにかわいて剥がれ落ちても、あたらしいもので蓋をしても、それは別のかたちに体が納得をして、あるいは、納得したことにしてしまって、歩くのに差し支えないように、庇うことに慣れて、心を均していくだけのこと。
あの人を喪ったかなしみのぶん、今も欠けたままでいることを知っている。
痩せた体重が戻っても、以前のように仕事をしても、時が止まっているのを知っている。
わたしの一部もまた止まっている。時折見る夢がそのことを告げる。
わたしに出来ることが何もないわけではないことも、それが欠けを埋めることにはならないことも、わかっている。
そしていつか、わたしは順当に、あなたのことも喪う。
だけど、欠けないまま生きていく人もいない。
欠けないで生まれてきた人もきっといない。
かなしみを知って、どうにもならないことを知って、
どうにもならないことが普遍なんだと知って……
さみしさと絶望のすきまになんとか居場所を作って、そこから落ちてしまわないように突っ張って耐えている。
かなしいニュースは年々、身近なものになる。
書くことをおぼえた人は、きっとそういうことをすでに知っている人だから。
呼吸するみたいに、誰かの心を吸って、自分の心を吐き出している。
進め育て羽ばたけ、って思っていた頃もあった。今は、そこからずいぶん遠くなってしまった気がする。きっとそれでいい。
とどまりたくたって、とどまれる人などいない。くりかえす人もいない。
そういう時間をだれかと分かちあっていられるなら、じゅうぶんじゃないか。
手と手をとって、今をわけあって、その先に何がなくとも、わたしはその瞬間あなたのためにそこにいたい。
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