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ジブン語と再現性

唐突に思ったこと。というか繋がったこと。

診断名がつくということにも、
はたまた作詞したものが共感を得ることも、
ツイートがバズることも、
再現性があることが重要なんだと思った。

症状と「再現性」

私が何がしかの不調に困っていて病院の門戸を叩き、そこで状態を説明するとき。
もしも前例にない症状だったら、それには名前がつかない。定義がないから。すると、その病気や症状は「ない」ことになってしまう。

昔はそうやって見過ごされてきたものがたくさんあったし、今もきっとある。

「まだ、ない」のと実際に「ない」のとは違うけれど、その扱いは難しいだろう。

実際、私はPAT(発作性上室性頻拍)という診断がつくまでに、はっきりと発作が出て検査をはじめてから3年以上かかった。

診断がつくまでの間、なんの対処法も治療もなくただ発作をやり過ごすしかなかった。それが循環器的なものなのか心因性のものかもわからなかったし、なにより上手く症状を伝えることができなかった

「脈が突然速くなる」では、伝わり方の粒度が粗すぎたのである。

医師が目星をつけたところの検査では異常が出なかっため、私は長い間「健康」だった。

ところが、一度診断がついてからは、まず然るべき科であれば、病名を言えば伝わる。

救急隊員の方だと、病名を言うだけでは伝わらないくらいにはマイナーな病気らしく、よく機械の故障を疑われる(脈がおそろしく速くなり、血圧が下がりすぎるので)。それでも、自分で疾患の部位と症状を伝えることができるので、問題ない。

診断がおりる前と後で、症状そのものは全く変わっていない。
にもかかわらず、私にも医師にもきちんと病気が認識できるようになったのである。

これはつまり、伝える側が自分の伝えたいことを把握して、ポイントをおさえて伝えることができること、
受け取る側が全体像(診断名、少なくとも部位)を把握できること、
この2つが揃ったことで、言葉でのやり取りが適切に行われるようになったということだと思う。

「体験」「体感」「心象風景」と「再現性」

もうひとつ、別の話をしよう。

たとえば私が今ここで、「私の仁王は四国の『地獄めぐり』の中に今もいるんです」と話したところで、誰にも通じないことは明白である。
既に読者の頭の中には「?」しか浮かんでいないに違いない。

 - 仁王って何? 金剛力士像?
 - 地獄めぐり?
 - 今もいるとは? ん? ???
 - そもそも何の話をしているの

この中で最も重要なのは最後の部分であって、

「仁王」が私の中に存在する「立ちはだかるもの」の象徴であることや、私が四国出身で幼少期にはよく徳島に行っていたこと、その徳島に「地獄めぐり」という怖ーい名所があるという前提を伝えたとしても、

「何を伝えたいのか」が明確にならない限り、相手に伝わるものはほぼないといってよい。

このような「体感」や「体験」を「わかる情報」として伝えるためには、もう少し一般化する必要があって、
一般化はこの場合、抽象度を上げることになる。
(通常は、ものごとを伝えるにはより具体に落とし込んで抽象度を下げることが求められるけれど、この場合は逆)

抽象度を上げるには、自ずと意図(≒収束する点)を明確にする必要が生まれる。

この「仁王が〜」の例で抽象度を上げて言い直すと、「全く関係の無い複数の事柄が、なぜか自分の中で紐づいてしまっていることってありませんか?」といった具合になる。
(そう直されたってさっきの文言とは繋がんないよ! というツッコミはさておき)

これをいくら具体的にしても、それは私の精神世界における独自のシナプスについて説明したにすぎず、再現性がない情報には「意味が無い」。
意味が全く無いわけではないが、意図や全体像が掴めない限り意味が生きてこないのである。

言葉で伝えるということの意味

つまり、こういうことだ。

言葉は記号である。
言葉を使って伝達するには、言葉に対応する「もの」や、概念や、意味合いや印象がある程度合致している必要がある。
言葉を受け取る時、受け取る人は耳や目を通してその言葉を拾い、自分を通して「相手の言わんとすることを、自分の内側に描こうとする」。

そのとき「全体像」や「最も伝えたいモチーフ」や「意図」が掴めていない状態で、「言葉だけで」それを描くのは存外難しいのである。
たとえるなら、絵が描かれていないパズルのピースを組み立てるようなものだ。それがどの辺に位置するのかも、なにと繋がっているのかもわからない。

これはデザインの概念にも通じるものがあるだろうと思う。

作詞における「再現性」は、一筋縄ではいかない

さて、
作詞の場合は、その抽象度をいったん上げて、上げたところから敢えて独自のシナプスに依存する表現に戻す、その塩梅がうまくいけば効果を産むことがある。

たとえばこういうことだ。
「夕焼け」と「さみしい、切ない」などの感情は、ほぼ言語そのものに近いレベルで共通認識として存在する。だから、説明がなくとも情景で情緒が伝わる。

「夕焼け」は暗喩表現として「さみしい、切ない」の代わりになるほど、成熟したイメージを持っているということだ。

アスファルトに降る雨のにおい、はどうだろう。これもまあまあ伝わる。

田舎町の、田んぼの真ん中にぽつんと建ったコンビニの、白々しいあかるさ。
夜の海の、飲み込まれそうな黒さ、遠く響くフェリーの汽笛、海風。ディーゼルのにおい。誰も見ていなくても絶えず打ち寄せてテトラポッドに散る潮煙。
ピアノの右端の鍵盤を叩いた時の、氷のような無声音を含んだ音色。

粒度が小さくなればなるほど伝わるハードルも上がるが、より細やかな言葉にしにくい心の機微に近づいていく。

情景と感情がどのようにリンクするか、ユングの集合的無意識的の話にも通じるテーマなのかもしれない。

歌詞には造語や一般的でないオノマトペが使われたりもして、誰も知らない単語なのに、誰の耳にもノスタルジーを運んできたりする。

いずれにせよ、繋がる脈を感じさせることが出来なければ、それがいかにリアルな感情であっても伝わらないのは確かだ。

「再現性」ってなんだろう

結局、言葉の「再現性」ってなんなのだろう。
それは、その言葉を聞いた人が、その人の「ジブン語」に翻訳できることなのかもしれない。

誰かのジブン語を、抽象を通して自分のジブン語に変換すること。

受け手が自分の手で再現することが出来てはじめて「伝わった」という体感が生まれるのではないだろうか。

そう、誰も知らないはずなのに再現性があるということについて、考えたてみたかった。

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