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2022年の、こどもの現実

『ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー』が、スパイシーなジンジャーエールだったとしたら、この『両手にトカレフ』はどぶろくとウォッカをハーフ&ハーフにしたような、ヘビィな読み心地。


すでにメディアでも多数取り上げられ、話題を集めているブレイディみかこの新作を読んだ。
「フィクションの形をとるしかなかった」と著者も言っているとおり、そこで描かれている貧困、虐待、格差、差別などの実態は、おそらく小説以上のものなのだろう。
そして、日本でも7人に1人のこどもが貧困状態にある、というデータが指し示す通り、見えないところで苦しみ、助けを求めている子どもが必ずいるのだと思う。


依存症の母親にネグレクトされて育ち、6歳下の弟の保護者代わりを務めるミア。彼女は、自分自身の未来などとうに放棄している。彼女の唯一の望みは、弟と一緒に暮らすこと。そのため、本来なら頼るべき公的なサポート(ソーシャル、と彼女らは呼んでいる)の介入を頑なに拒む。
14歳としては、あまりにもヘビィな現実。母親は生活保護のお金をドラッグに遣ってしまい、家には食パン2枚しかない。

それでも彼女は、同級生に気づかれることなく、目立たない退屈な生徒のひとりを装い続ける。こうやって擬態がうまくなればなるほど、支援の手からは遠ざかるが、それが彼女の狙いだ。ソーシャルの目をかいくぐって、保護者の必要な年齢をやり過ごす。とっくに母親は、その役割を放棄しているのだから、あとは公的に、自分と弟のふたりだけで生きていくことを許される年齢まで待つのだ。

この戦略が、ある時崩れる。それも、善意の大人によって。ミアが、心の底で「このひとが母親だったら」と願う隣人ゾーイの行動が、ミアの生活に亀裂を入れる。その変化は、新しい未来、救いのある未来へとつながるはずだったが、現実は逆の方向へ向かう。

ラストシーンに近づくにつれ、胸苦しさと息が詰まるような感覚に襲われた。それは、深夜の電車を乗り継いで逃避行を続けるきょうだいの、狭いトイレで吸っている空気感や、駅員の目から逃れようと席を移る緊迫感を追体験しているようだった。

この小説では、主人公に言葉への鋭い感覚があり、それによって自分の内側を表現し他者との壁を越える、というふくらみが加えられている。
ラップのリリックを通じ、初めて「本当の自分」を誰かに届けたい、と欲望を持つミア。同級生に「才能」と形容される資質が、ミアを違う世界に連れて行ってくれる、という展開だったら、これまでも多く語られてきたサクセス・ストーリーのひとつ、で終わっていただろう。
けれど、痛々しいほどに現実をわかっているこの主人公は、そんな一発逆転のハピネスを信じない。
やがて、大人たちの善意がはじめて実を結んだエンディングへ向かう中、隣人ゾーイがこんな言葉をかける。

『あなたはもう何もしなくていいの。見ないふりをせずに、言い訳をせずに、何かをしなくてはいけないのは大人たちのほうだから


ここに、著者のメッセージがすべて詰まっていると思った。
そう、何かをしなければいけないのは私たちの方だ。
中学生の少女に、未来を諦めさせ、弟の世話をさせ、誰にも頼れない、と教えた責任は、大人にある。

この本を、小6の娘が読みたい、と言ってきた。
私にとっては、一晩眠れなくなるだけのインパクトがあった本だが、はたして娘にとってはどうだろうか。

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