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自分らしく生きたいって嘘でしょう?

自分らしく生きたい、と願いながらも、自分らしく生きられないことを嘆く人が多いのは、裏を返せば、自分らしく生きたくなんか無いのかもしれない。と、思ってしまう。自分らしさを表現すれば、否応無しに人目を集めてしまう。注目されると思っているからなのか。

そもそも、「自分らしさ」さえも把握できていない人も多いように見える。だから、強み診断とか、性格診断とか、何かしらの診断ツールが人気なんじゃないかって。結局のところ、みんな唯一無二でありたいと思いながらも、突き抜けるだけの勇気はなくて、みんなと同じままで在り続けている。

自分を探す旅とか、自分らしく生きたい、とか。定期的に流行が来ては、いつのまにか廃れていく。自分「らしさ」とか「これが自分だ」っていう具体的な答えを求める前に、まず自分を認識することから始めたらいいのに。

私は、多分中学生の頃に自分が見えなくなった。自分が見えない、というのは、何を経験しても他人事に感じてしまうような。どこか一歩引いて、自分が出演していない映画を見ているようなそんな錯覚に陥ったことがある。
きっかけは、突然だった。いきなり人の話が頭の中に入って来なくなった。
部活をしている生徒の掛け声、吹奏楽部の練習する音、車が走る音。コピー機の動く音。会話をしている最中だったというのに、あらゆる音が頭の中に飛び込んできて、全然話の内容が頭に残らない。

耳を通過して外に出ていく、というまさにその感覚。何を話していたのか。確か先生からアドバイスをもらっていたはずなのに、全然思い出すことができなかった。それ以来、私は記憶すること・集中することが苦手である。ずっと自分のいない世界を見てきた。

話しかけられたら会話もするし、ちゃんと人としての生活もしてきたけれど、ふと振り返るとそこに自分がいなかったりする。今感じる自分と過去の自分との間に乖離があるような。気づけば、私は私自身が自分の存在を感じられなくなった。自己肯定感だとか自己価値観だとか、それこそ今流行りの言葉だけど。

ただ、困ったことに、私の意識下には私はいないのに、私の無意識下には私は、まだ存在していて。無意識下の私の承認欲求が大きくなって、他人から承認を求めるようになった。成績優秀、文武両道。今思えば、よくやっていたと思う。他人から褒められることで自分を認識する、というなんというか、回りくどい方法で自己認識を続けてきた。

けれど、そんな回りくどさにも良い加減、飽きてきて。他人に固執して承認されたい、という気持ち自体が重く感じるようになった。何も他人に認められなくても、自分で認めたって同じことだと気づくまでにだいぶ時間がかかった。他人が嫌いなわけでもない。好きなわけでもないけれど。ただ、他人がいなければ、何もできない自分というのに、いささか飽きてしまっただけ。

なんて、つらつらと書いてきたけれど、決して恋愛依存にも家族依存にもならなかったのは、他人に依存するほど他人を信じていなかったからでもあると思う。他人を理由なく信じる。なんて私には難しかった。

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