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割とガチで自殺が上手くいきかけた話

表題の通りである。この場合「上手くいく」という表現が適切かどうかはさておき、意味合い的にはそのまんま何のひねりもなく本当に死にかけた。
ダラダラとした長文を無理やり読ませるのも申し訳ないので時間のない方用に要点のみを取り出すと
「20代の頃、決定的な出来事があった訳でもなく、ふと服薬自殺をはかり、ガチで死にかけた」
それだけである。
そして“魔が差す”ことは本当にあるのだと知り、すべての自殺に大きな理由や深い意味があるわけではない……かもしれないという持論を形成するに至った。

以下は覚えている限りの経緯だが、なにせ15年近く前の出来事なので整合性に欠く部分があってもご容赦いただきたい。
また表現の都合上その手順や薬の名称・量などを記載しているがこちらも正確な記録ではなく、ついでに言うと私は決して自殺をほう助するつもりでも、自殺を推奨しているわけでもないと念を押しておく。

酔い、そして思いつく

あの日は横浜駅周辺で日付が変わる頃まで飲んでおり、気が付けば終電がなくなっていた。いつもならタクシーで帰るか始発の電車を待つところだったが何故か急に
「家まで歩いて帰ってみよう!」と思った。
思いついた。
衝動的に。

歩いて帰宅するのは初めてだったが、何度か車で通ったこともあり道に迷う可能性は低い。
だがその距離は電車にして6駅分。徒歩ではどうがんばっても3時間以上はかかる。
「べろんべろんに酔っ払った20代の女が夜道を3時間一人歩き」
これはどう考えても安全とは言い難い。アホでも分かる。
しかしこの時の私は妙にウキウキしており「行ける!」と根拠のない自信に満ち溢れていた。完全なる酔っ払いの思い付きだった。アホ以下である。

少し空腹(飲んだ後のアレ)を感じていたため、駅近くにあったコンビニでおにぎりとお茶を購入し、ついでに『ゴールに着いた際のご褒美用♪』とビールも買った。
そうして、おにぎりとお茶をほおばりながら出発。あとはただ黙々ともぐもぐしながら歩いた。
耳に挿していたイヤホンからは何の曲が流れていたかさえ覚えていないが適当に陽気な音楽を聴いていたように記憶している。

たしか、まだほんのりと暑さが残る秋だった。
パラパラと小雨が降ってきたが、歩き続けて暑くなっていたため雨に濡れても気にならなかった。むしろ冷たい雨を気持ち良いとさえ感じていた気がする。
音楽を背負い雨に濡れながらゴールを目指す自分はさながら映画やドラマの主人公みたいだと浮かれていた。実際はただの酔っ払いなのに。

傘もささずに歩くこと3時間半。幸いにも危ない目に遭うこともなく自宅にたどり着いた。
全身雨と汗でグッショリだったが、身体が濡れた不快感や歩き続けた疲労感よりもゴールしたのだという高揚感が凄まじかった。もうこの時点で精神的におかしくなっていたのかもしれない。

タオルで頭を拭き服を着替え、リビングテーブルの上にコンビニで買ってきた500mlのビールを2本と冷蔵庫に入っていた缶入り酎ハイを数本並べた。高揚した気分はそのままにプルタブを開けてぐびっと飲むと、汗をかいて少し抜けていた酒気が瞬く間にUターンしてきた。
美味しかった。
気分が良かった。
とても気分が良かった。
そして私は唐突に思いついた。
「ちょっと自殺の実験をしてみよう」と。

大きなキッカケがあったわけではない

数時間前の「ちょっと歩いて帰ってみよう」と同じくらいのテンションだった。
まるで楽しいことを思いついたかのように、少し前に読んだ完全自殺マニュアルの内容を思い出し、本当に人は簡単に死ねるものだろうかと検証したくなったのだ。
まさか本当に死ぬことはないだろうという浅はかさと、死んだら死んだでそれでもいいやという投げやりな気持ち、そして何よりも占めていたのは単純な好奇心だった。小学生から高校生まで通信簿にはほぼ必ず「好奇心旺盛な子です」と書かれていただけのことはある。

翌日も仕事はあったし、買い物にも行きたかったし、ニコ動のゲーム実況が投稿されるのを日々の楽しみにしていた。恋人とは少し前に別れていたが、気の置けない友人はネット上にもリアルにもいて孤独ではなかったと思う。
20代に入ってすぐの頃からうつ病を患っていたがすでに症状は落ち着いており、少しの安定薬を飲みながらも音楽活動やフリーの仕事や細かいバイトなどをこなし、自分のうつとは上手に付き合っていたつもりだった。

日々のストレスは確かにあった。
同居していた母親(猛毒)の過干渉がすさまじく、夜20時までに帰宅しないと数十回の着信履歴と数十通のメールを残され、私と友人の飲み会にはなぜか一緒に参加され、なんなら私と恋人の旅行にも付いて来られ、各方面(私の友人知人や元恋人)から詐欺まがいの借金を重ねられ、私の財布からも頻繁に現金が抜き取られていた。
そもそも幼いころから機能不全家族で……と、こうして書き出すとヤバめの案件ばかりに見えるが、当時の私は完全に心が麻痺しており母の存在がストレスの元凶であると深く考えてはいなかった。いや、考えないようにしていた。いわゆる共依存というものだったのかもしれないが、毎日をごまかしながら、それでもそれなりに楽しく過ごしていた。

分かりやすい大きなキッカケがあったわけではない。少しずつ蓄積されたダメージが許容範囲を超えたタイミングで、たまたま酔って気が大きくなり、たまたま自宅に大量の薬があっただけだ。

薬とノートとクソポエム

大量の薬はほとんどが抗うつ剤や抗不安剤や睡眠剤。私が病院から貰っていたマイスリーやハルシオンではなかなか死ねないらしい……と例のマニュアルに書いてあったのを覚えていたので、それならばと母の薬入れを探ってかき集めたものだ。(そこに罪悪感はない。母が日頃から私の財布を漁っていたことに比べれば可愛いものだろう)

母は長年うつ病だ不眠だ不安だ辛い辛いと病院に行っては薬を処方され、それらを正しく飲むこともせず、強すぎるだの効かないだのと難癖をつけては「この病院は自分とは合わない!」といろんな病院を転々としていた。病院が変わるたびに処方される薬は変わり、そうしてまともに飲まれず集まっていった薬は大量で、しかも強い。

ベゲタミン、ヒルナミン、パキシル、ルボックス、デパス……あとはよく覚えていないが何種類ものアルミ包装からパキパキと音をさせ、小さな丸い粒たちをテーブルに出していく。
妙に緊張しながら、でも少し楽しいような不思議な気持ち。そこに負の感情はほとんど無かった。
そして秋の朝方、私はノートに記録をしながら薬を飲みはじめたのである。水よりもアルコールで飲む方が効果が強くなると知った上で、まずは10粒くらいをビールで流し込んでしばらく待ち——なんともなかった。
こんなものかと調子に乗った私はどんどん酒と薬を飲み、

4:10 ベゲタミン×10
まだなんともない。ビールうまい。

4:14 ヒルナミン×10
変わらず。

4:20 デパス×10 ハルシオン×10
とくに変わらず。少し量を増やしてみる。

4:23 ベゲタミン×12
頭が少しふわふわする。

4:25 ヒルナミン×15
いい気分。

時間や薬の名前や量はうろ覚えだが、こんな感じでノートに記入していった。
これは後に判明したが、ちゃんと書いたつもりだった文字はビックリするほどの殴り書きで非常に読みにくかった。ただでさえ悪筆だったところに酩酊状態で書いたものだから比喩でもなんでもなくミミズが這ったような文字である。
そしてそのミミズはノートの端、空いたスペースにもところどころ這っていた。先の記録とも違う数行の文章はどうやら服薬最中の高揚感を作詞に活かそうとして書いたものらしく、素面で見るとどれも陳腐で頭の悪そうなまさにクソポエムだった。暗い世界の奥底で歪(ひず)んだ円舞曲(ワルツ)がきこえて……みたいなやつ。まだ中二の頃に書いた詩の方がマシなレベルだと思う。ひどい。これはひどい。

こうしてけっこうな量の薬をけっこうな量の酒で飲んだはずだが、何ともなかった。横浜駅で酒に酔っていた状態と変わらない。
(なんだ、全然大丈夫じゃん)
そう思っていた。

私が覚えているのはここまでだった。

死ぬよりも死にそうだった

次に気が付いた時、私は動けなかった。
横になっていた。
かろうじて頭を動かせそうだったが誰かに額を押さえつけられた。びくともしない。
それどころか手足が自由に動かせない。
何かで拘束されている。
口に何かが突っ込まれており、
何かが流し込まれて、
息が出来ず、
苦しくて咳き込んだ。
身体が、みぞおちの辺りがビクビクする。
えずいて、
えずいて、
えずいて、
えずく。
叫びたくてもまともな声が出ない。
声の代わりに何かの液と咳が出た。
何度も何度も何かが流し込まれ、その度あまりの苦しさに暴れた。
ひたすら全力でもがいていたら右手の拘束が少し緩んだ感じがした。
拘束具はマジックテープだったらしい。
必死に小指の方から手を窄め、手首を返し拘束具から手を抜こうとした。
小指が少しずつ抜けようとする。
関節の痛みは感じない。
少しずつ少しずつ。
抜ける。
成功した——と思ったのも束の間、
「ちょっと!この子!手ぇ外しちゃったよ!」
という鬼のような怒声が聞こえ、即座に右手の拘束具が巻き直された。
それでも諦めず何度も足を、手を、頭を動かそうと暴れた。
それはもう暴れた。
だってめちゃくちゃ苦しいもん。
ひたすらに流し込まれる液体、息が出来なくて、咳込み、えずき、また何かが流し込まれ……の繰り返し。
鼻にも何かチューブが入っていたかもしれない。目からは涙が流れる。
失禁していてもおかしくはない。
体中の穴という穴から何らかの体液が出ていたと思う。
死ぬほど苦しかった。
死ぬよりも死にそうだった。
いつになったらこれは終わるのだろうかとただただもがき続けた。
そのうちに、苦しさからか疲れからかは分からないが私は再び意識を失った。

夢を見た。
何もない白い空間に、数年前に死んでいた父親(毒)が浴衣を着て厳しい顔をして立っており、無言で首を横に振っていた。

次に目覚めた時、口の中にはもう何も入っておらず(酸素マスクのみ装着)手足の拘束も解かれていた。
ぼんやりしていたら知らない女の人と母親の顔が上から覗き込んだ。
「分かりますかー?返事はできますかー?」
そう声をかけてきた女の人は白衣を着た看護師さんだった。私は病院で胃洗浄を受けていたらしい。

意識を取り戻してから2日ぐらい入院した。
処置の間はあんなに厳しく鬼のようだった先生や看護師さんたちも、ひと段落してみれば皆とても優しく——腫れ物にでも触るようなという表現がしっくりくる感じではあったが——何故あんなことをしたのかと強く怒ることも深く追及することもなく「苦しかったでしょう?もうダメだよ」と労わるように声をかけてくれた。多分めちゃくちゃ気を使ってくれていたのだと思う。
こちらにしてみれば
「実験のつもりでした。そこまで思い詰めての自殺ではないんです」
とも言えず、ただバツが悪いのと申し訳ない気持ちで「すみませんでした」と答えるしかない。
少し経って母から連絡を受けた兄が病院まで駆けつけてくれ、こちらにはけっこう怒られた。が、あまりよく覚えていないので割愛する。ごめんねお兄ちゃん。

自分で起き上がれるようになり、医師の診察を終えた後は割とあっさり退院許可が下りた。薬が抜けた以上、病気でもないのに病院のベッドを占領するわけにもいかない。
まだ少し頭がぼやーっとした状態ではあったが、簡単に荷物をまとめて会計を済ませ母と共にタクシーと電車で家路についた。
帰宅後もしばらくは布団で休み、改めて今回の出来事について母から話を聞いたのはもう少し後だった。

また日常へ

あの日、母が目覚めたらリビングで転がっている私を発見した。
時々酒を飲み過ぎては力尽き転がっていることもあった娘だがこの日は何か違和感——これが親の勘なのか人の勘なのかは分からないが、とにかく直感的に「いつもと違う」と思ったそうだ(この違和感が運命の分かれ道だった)
よくよく見れば倒れている娘の周りには大量の酒の缶と空になった薬のシートが散乱しており事態を把握した母はすぐに救急車を呼んだ。

朝方だったため極力静かに到着した救急車に担架で運ばれる私。隊員の人は現場に散らばった薬のシートと、どうやら今しがた運んだ患者が書き残したらしいノートの殴り書きを発見し、原状を報告するべくその全てを確認していた……ということはあの歪んだ円舞曲のクソポエムまでばっちり見られていたに違いない。死にたい。死にかけてたけど。

病院に運ばれてからも意識は戻らず「正直かなり危ない状態です」と医者に言われた母は慌てて兄に連絡。その後は前述の通り処置室にて胃洗浄を施されていたため母は待合室で待機、処置が終わってから入室……という流れだった。あと少し遅れていたら本当に助からなかったらしい。

「もう二度とこんなことはして欲しくない」と懇願されはしたが母も私を責めるようなことは言わなかった。正しい判断だと思う。私も私で通常なら「心配かけてごめんなさいお母さん」なんて台詞を返して涙ながらに抱き合うところだ。
しかし我が母は毒親である。しかも猛毒だ。猛毒の親であるから自分が原因であるとは一切考えもしていなかったようで、
「〇〇さん(元恋人)との事を引きずっていたのね。あんなひどいケチな男、別れて正解だったのよ。仕事でも何かあったの?無理しなくていいのよ。お金はお兄ちゃんに何とかしてもらうから」
というホラー映画みたいな台詞を口にした。
そして、薬は抜けたが共依存は抜けなかった私は何も言えずにうんと頷き、また日常へと戻っていったのだった。

現在

夫と結婚して1年ぐらい経った頃、母は亡くなった。常識人の夫と暮らす中で自分の生い立ちや両親の異常性をようやく客観的に見られるようになってきていた矢先だった。
母の訃報を聞きまず思ったことは「やっと解放された」だったし、涙の一粒も出なかった。そしてこの完全なる解放のおかげで視界はよりクリアになり見えてきたことも多い。

私は長い時間をかけて緩やかに少しずつダメージを受けていたのだと思う。
うつ病は薬でどうにか押さえられても、幼少期から大人になるまで積み重なったダメージはそう簡単に消えない。それらを見ないように見せないようにごまかしながら、自分自身をも騙しているうちにいつしか心も麻痺していき、痛みに気が付かないまま良くない気持ちを呼び込んでしまう。一瞬前までそんな気はなかったのにふと“魔が差した”のだ。そこに余りある好奇心も追加され実行に至った。酔った勢いのほんの軽い気持ちで。

もしもあの時に手遅れだったら……と考えることがある。
現在は愛する夫と可愛い子供にも恵まれて非常に幸せな生活を送っているが、それでも私は言える。
「あの時一歩間違って命を落としていてもそれはそれで幸せだった」と。
今の幸せが偽物だと言いたいのではない。この幸せはたまたま生きながらえた世界線での幸せであるということだ。未来に予定されていた幸せを取りこぼしたからと言って、そんなことを知る由もないその時点では特に損をする訳ではない。救われたいのは、解放されたいのは、タイミングが合ってしまったのは、その時その瞬間なのだから。
今私が生きている日々はボーナスタイムだと思っている。

かもしれない

身近な人や芸能人が自死すると「悩みなんて無さそうだったのに」逆に「すごく悩んでいたようだった」などと何らかの理由を探したくなったり、
「またねって笑顔で言っていたのに……おかしい」「明日明後日と約束があったのだから自殺するわけがない。他殺では?」などと推理したくなることはないだろうか。
人は理解できない衝撃に遭遇するとどうにかして自分なりの答えを出さなければ不安になるし、怒りや悲しみの原因を誰かのせいにして安心したい。もしくは我が事のように当事者やその近親者に感情移入し、自分は真実を知らなければいけない!という正義感がむくっと生まれてしまう。

当然、思い悩み苦しんだ末での決断であるケースは多いのだと思う。
はたから見たら大したことなさそうでも本人にとっては死よりも苦しいことなんて世の中にはたくさん散らばっている。

だけどもしかしたら。

実はただの好奇心から始まった事故のようなものだったかもしれない。
あるいは日々の細かいストレス——それ単体では決定打にならない程度のもの——が積もり積もって“魔が差した”だけなのかもしれない。
残された遺書だって酔った勢いで書いた単なるポエムだったのかもしれない。
そして残された者にとっては悲しいことこの上ない判断でも、その時点での本人にとっては一番楽で一番幸せなのかもしれない。
人の命はけっこう儚い。
そんな可能性を頭の片隅にでも入れておけば、ほんの少しだけ気が楽にはならないだろうか。あれこれ難しく考察するより健康的だと思うのだけれど。
結局のところ真実なんて本人にしか分からないし。


【補足】
自殺という単語を「自死」とするべきか少々迷いましたが、特に報道関係者ということではないため、今回は馴染みのある「自殺」で統一しております。今後置き換えたくなったらしれっと修正するかもしれません。

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