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「入船」 けっち

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Photo by けっち

先日、刃物の町で有名な岐阜県関市へ行ってきました。関市といえば、孫六です。「関の孫六」といえば、包丁やナイフのブランドではドイツの「ゾーリンゲン」と二分するほど世界中で知られている伝統のブランド。

その「関の孫六」については関市刃物会館というズバリ名前のとおりの刃物専門店に行って、一本購入したのですが、日帰り旅の目的は包丁を買うことではありませんでした。

今回の目的は「本物の中華そば」を食べること。

これまでラーメン屋や中華料理店で中華そばを食べるたびに「この中華そばもおいしいけど、本物の中華そばは子どものとき食べたやつ」と妻が言っていて、どうやら彼女にとって中華そばの「本物」は子どものときに食べたやつであるらしい。その店は妻の亡くなった祖母の住んでいた家の近所にある定食屋で、妻が子どものころに帰省するたびに、集まった親戚みんなでその定食屋の中華そば、もしくはカレーうどんの出前をたのんでいたらしい。

そして、その中華そばとカレーうどんが子ども心にとても美味しかったそうだ。その定食屋そのものへ行った記憶はないらしく、あくまでも「親戚みんなが集まったときに出前でたのむ定食屋」だったとのこと。

妻いわく、祖母が住んでいた町には観音様がいる寺があるだけの田舎町で、食べる店もその定食屋かすこし遠くにあるウナギ屋しかないそうで、必然的に出前はその定食屋からとることになったそうなのだが、大人になってもことあるごとにその店の中華そば、カレーうどんの味を思い出してきたらしい。

そんなにうまいのか?! と僕はそれについてこれまでも何度か聞いたことがあるのですが、とくに職人の技、だとか、飛騨牛をつかった、とか、そういった贅沢なお店ではなく、普通においしくて、食べると「やっぱりこれだ」と言いたくなる、そういう味という話でした。そういわれると、なぜか食べたくなってきます。車でそんなに遠くない距離ということもあり、コロナウイルスで街にも出かけづらいこともあって、関市の定食屋に出かけたのです。

関の町は、このまえ訪ねた多治見同様に素朴な田舎町でした。天気もよく、オープン・カーをオープンにして3月の陽光を浴びながら山道をガンガンにJazzを鳴らして走るのは実に気持ちがよく、コロナウイルスが蔓延しているのが作り話の世界のように遠くかんじる1日で、いざ到着して車を降りて歩いていく道はこれまで僕が歩いたどの場所よりも昭和そのものをかんじる町並でした。

「このへんかなあ」

妻が最後にこの町を歩いたのも30年かそれより前か、或いは高校生くらいのときにもきていたのか、彼女自身はっきりした記憶がなく、ただ覚えているのは中華そばとカレーうどんの味だけ、という状況で「入船」とかかれた店がみつかるものの、「ここ、やってるのかな?」「のれんがかかってるから……開けてみようか」と、すこし不安になって扉をひいてみると、まるで誰かのおうちにお邪魔してしまったような、店というより、おばちゃんの家にあがりこんだような懐かしい空気に包まれました。

大きなテーブルに椅子は8席くらいでしょうか。壁に習字でかかれたメニューがかかれていて、大テーブルの奥にはこたつ?のある四人用の座敷があり、天井にテレビがかかっています。すでに常連らしきおじさんがラーメンを食べていて、おかみさんが1人で切り盛りしているようでした。

僕らはそのあまりに親密すぎる空間にすこしびっくりしたのですが、2人とも中華そばを注文。妻がこのおかみさんを知っていたら「数十年ぶりの再会」ということになるのですが、妻はいつも出前で食べていたので、店そのものに来た記憶もないし、おかみさんのこともしらない。なので、黙って待ちます。

「遠いところからきたんでしょ?」とおかみさんに声をかけられ、「あ、はい」と僕がこたえていると「わたしは○○からだよ」と常連っぽいおじさんがこたえて「どこなの?」と話しかけてきました。「愛知からです」とこたえて、その勢いで「実は妻が子どものころにこの店の出前の中華そばをいつも食べていて……」と話すと、そのおかみさんが「え? どこの方?」と繋がって、いつしか食べにきたというより身の上話的な内容になりました。

もちろん中華そばもでてきて、一言でいうと「すごくおいしかった」です。サービスしてくれたのか、チャーシューがたっぷり入っていた。それにやさしい味、というか、お店で料理人の料理を食べる、というより、本当に家族が自分のためにわざわざつくってくれた、というような気持ちのこもった味でした。

この店の中華そばの味は、スープの出汁が、とか、麺のこだわりが……といった観点で評価することはできない気がします。うまくいえませんが、高倉健が映画のなかで食べているラーメンの味。ああ……波止場の定食屋で食べているあのラーメンはうまそうだなあ、といつか思ったことがあるのですが、そのとき「あのラーメンうまそうだなあ」と思ったあのときのうまさは、きっと僕がこの店で食べた中華そばの味だったと思います。そばの出汁や成分ではなく、作ってくれたおばちゃんと店の雰囲気そのものを食べたような感じ。こういう気分はもう随分ながいこと味わってなかったような気がしました。

古ければいい、というわけではないのですが、長い時間同じ場所で商売をつづけていたお店には、店の中にながれているその店の時間があって、そこで過ごした1時間弱の時間の感覚はあきらかに現代の都市ですごす1時間とはちがっています。どちらがいい、わるい、ではなく、まったくちがった時間の流れのなかで過ごすことは僕にとってはとても贅沢です。それに子どもの頃の妻が歩いていた町を歩くこともすごく楽しかった。ふと、子どものころの妻の姿が見えてきそうにもなる散歩道でした。今日もありがとうございます。

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