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非情なリーダーシップ論、「韓非子」から人間という生きものを学ぶ

今回は”非情なリーダーシップ論”との評価がある韓非子についてお話しようかと思います。

中国全土を初めて統一した秦の始皇帝に「この書物の著者に会えるなら、命も惜しくない」と言わしめた法家、韓非による著作が「韓非子」です。

※韓非子についての詳細はWikipediaを以下ご参照ください。

何を隠そう、私が中国古典で一番好きな書物がこの韓非子です。理由は、人間に対する深い洞察力に感銘を受けたからです。

韓非子の紹介文によく使われている表現は、「人間は利己的な生き物」、「人間不信」、「仕組みやルールで人を支配する」といったものです。

これだけ聞くと、他人を信じない嫌な奴に感じられてしまうかもしれませんが、経営者をはじめとするリーダーの立場で読むと組織をまとめるためには綺麗ごとばかりでは済まないという共感が今日まで読み継がれる理由になっていると思います。

余談ですが、韓非子が出典で、現代でも使用されている言葉も多いです。
・矛盾(何でも貫くことができる矛と何をもっても貫くことができない盾)
・逆鱗(龍の鱗には絶対に触ってはいけない鱗がある)
・信賞必罰(褒賞と刑罰)
・形名参同(本人の職分と実績)

■韓非子が説く統治論

韓非子の内容の骨子を大雑把に言うと、以下の通りです。

・リーダーの権力についての考察
・凡人を仕組みで統治する方法
・賞と罰の扱い方
・組織と部下の利害関係を一致させる方法
・部下への警戒と牽制
・人材登用の基準

ざっと見ただけでも、リーダーの立場にある人には興味が湧く内容だと思いますし、個人的には理解しておくべきことかとも思います。

優れた人材を得たい、育てたいという願望を持ちながらも、組織における自己の権力は維持する必要があり、かつ組織としての成果も上げなければならない。こうした相反する気持ちに一定の解を与えてくれるのが韓非子の考え方です。

優れた人材にも野心があり、リーダーが全面的に信頼し過ぎると、いつ寝首をかかれるかわからないという不安を抱く人間心理を突いていますし、優れた人材を求めたところでそのような人材は現実に多くないので、リーダーを含めた構成員が凡人であっても成功する組織とは何かを説いています。

それまでは、孔子を筆頭とした儒家に勢いがありました。

儒家が説く理論は、性善説に基づいており、仁や義を重んじ、社会規範を確立することで国を治めることができると考えられ、リーダーが模範を見せて、部下や民を正しい道に導いていくことが最上とされていました。徳で人を統治する徳治政治と呼ばれます。

一方の法家が説く理論はその真逆で、性悪説に基づいており、人間はそもそも欲と利益のために行動する存在とし、悪行を罰で禁じ、褒賞で望ましい行動へ誘導しながら統治するべきと論じています。法家の立場では、儒家の説く仁義というのは偽善に過ぎないという結論になるのです。

秦の始皇帝が中華統一を成し遂げた後に、思惑の異なる諸国を統治するには綺麗ごとでは済まないと感じたからこそ韓非子に興味を抱いたのでしょう。

法家は、人間の本性を変える努力はせず、その本性を利用して統治しようとするという考えであり、例えるなら、物を盗んではいけないと教育するのが儒家のやり方なら、泥棒は例外なく厳罰に処し、泥棒を告発した者に褒賞を与えるというのが法家のやり方です。

もちろん教育を施すことで人徳を学ばせることは大事ではありますが、差し当たり泥棒が増えないためには法家のやり方の方が効果的であるのも否めません。

さて、どちらが現実的な対応と言えるでしょうか?二者択一ではなく、どちらも大事と多くの方は判断するでしょう。

現代では窃盗という犯罪を抑止するために刑法で罰則を定め、他人の物を盗んではいけないと小さい頃に躾を受けると思います。

会社であれば、始業時間があり遅刻すれば減給や始末書提出などのペナルティーがあり、会社に損害を与えるような行為があれば懲戒処分や場合によっては損害賠償を負うこともあります。

ルールという規範を設け、一定の行為を抑止し、一方で教育もするのは今では当たり前のこととして受け止められていますが、過去においてはどちらのやり方が正しいのかという論争があった訳です。

儒家と法家の対比は、太陽と北風の話と似ています。

部下に対して、優しく接して諭し、望ましい行動を促すのか。ルールを盾にして命令をし、無理やりでも行動させるのか。これは永遠に悩ましい問題だと思います。

昨今では、エンゲージメント経営、理念経営といった理想的で耳障りのよい考えが増えていますが、一方で、仕組みによる経営というのも経営者には根強い支持があります。

韓非子は論語などに比べると冷めた人間統治論なので、韓非子が経営のバイブルと人前で言う経営者はあまり多くありません。

私が韓非子が好きなのは、冒頭に書いたとおり、人間に対する深い洞察力に感銘を受けたからなのですが、韓非子は人間の本性は悪であり、教育などによって正しい道に導くことなどできないと冷めきっているのではないと思っています。

人に限らずですが、物事には必ず両面や表裏というものがあります。

人に親切な人も本心からそうしたいのはなく、良く思われたいと思ってのことかもしれませんし、決断力がある人は浅はかだったりします。

そんなように考えると、韓非子が言いたいことは人間がしっかり生きるためには人間の弱さに対して真正面から向き合い、厳しい態度で臨むことで行動を改めさせることが早道と考えたのではないかと思います。

しっかり生きるという点においては儒家と同じで、そのアプローチ方法が異なるだけかなと解釈しています。現実を無視した甘い認識よりも、冷静、客観的に人間というものを捉えている点において韓非子に学ぶことは多いです。

長くなってしまったので、また別の機会に韓非子を掘り下げてお伝えできればと思います。

最後までお読みいただきありがとうございます。