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義務教育を哲学する──義務としての教育、そしてアナーキーなもの

義務教育を哲学する
──義務としての教育、そしてアナーキーなもの

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1.はじめに

 限りなく周知の通り、日本には6歳から12歳までのあらゆる子を対象に実施される初等教育としての「小学校」制度と、13歳から15歳までのあらゆる子を対象に実施される前期中等教育としての「中学校」制度がある。これらに追従して、後期中等教育としての「高等学校(高校)」制度や、高等教育としての「大学」制度が続き、その延長線上──すなわち教育を主たる目的とする機関──として法科大学院などの専門職大学院を望むこともできる。とはいえ、もはや──日本における──現代の大学進学率においては、こうした説明も蛇足というほかないようにさえ感じられるし、おそらくこうした印象ないし肌感覚は、このエッセイに目を通していただいている読者諸氏の多くにも当てはまることだろう。
 そうしたなかでも、──上記のいわば「メインストリーム」に属していない専門学校などの諸教育機関も含め──こうした数多ある教育機関に開かれた現代における主題として、本稿では、いわゆる「義務教育」としてのそれ──つまり「小学校」と「中学校」の総体──にのみスポットライトを当てることになる。これが紙幅の都合かと尋ねられると、首を大きく横に振って否定することは決してできないが、こうしたふたつの制度によって相互補完された「義務教育」というカテゴリーに──顕在的にも潜在的にも──多くの特筆すべき念慮の余地が含まれていることは、もはや我々の共通理解の域に達しつつあると言っても過言ではない。
 本稿を通しては、おのずと「義務」それ自体が本稿の主題を侵食しつつある点は否めない。それは、──後述するように──義務それ自体がラディカルなものであり、また教育という幾分●●同様にラディカルな機構との接着点において、それはひときわ目を見張る志向性を帯びるためである(この点においては、同じく「教育」というアスペクトからの綿密な検討も十分要求され得ることになるが、やはりここでは紙幅の制限からも基本的に立ち入ることができない)。そうしてピントを絞ったなかでもやはり、以下の検討を通して解き明かすことのできる「義務教育」概念の姿態は、──私の能力不足による点からも──きわめて限られたものになる(そしてそのほとんど全体は、形而上学的な域に収まるのみであろう)。これは、暗黙のコンセンサスとして十分なものであるようにも思われるが、ここではディスクレーマーとしての一筆をご勘弁いただきたい。加えて不精な言い訳を続ければ、このエッセイは思い立ったがのち数日の間に衝動的に書き上げた、いわば即興劇●●●のようなものである。叙述の混乱や浅薄な思索によって諸氏を無用な謬錯へと陥れるようなことがあれば、それは──言うまでもなく──すべて私の責任であり、あらかじめお詫びを申し上げたい。

2.義務教育としての「義務」

 ひとつの独立国家・主権国家としての日本における義務教育は、

〈国民が共通に身に付けるべき公教育の基礎的部分を、だれもが等しく享受し得るように制度的に保障すべきである〉

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/attach/1419867.htm

というナショナルな要請によって援用された──より緻密に言えば多数決原理による立法プロセスを経た実定法規たる教育関連法の総体として観念される──当為命題への志向性を内包とし、その外延には無数の手段による色彩豊かな「教育」が同時多発的に、かつ──多くの場合は──絶対的な被義務教育者への時間的・身体的・思想的な「拘束」の主体として──角度とその姿態を七変化させながら──機能している。本稿では、こうした内包に対応した外延と実際にみなされているもの──そしてそれを前提に実世界で機能しているとされるもの──が、果たして本当にその外延に属する──あるいは属し得る──ものなのかという問いからは、──紙幅の制限と私の能力不足という二重苦を噛み締めつつ──ひとまず的確な距離を置くことになる。同様に、あらかじめ断っておくことになるが、「教育」それ自体をランドマークとしつつ、他国に根を張った既製品のイデオロギーとの対比に終始するような議論は、──ナショナリズムという観点を持ち出さずとも──不毛なものにほかならず、本稿でそのような切り口を示唆する状況は限定的なものとならざるをえない。
 かくしてここでの第一の関心は、はたして義務教育がどこまでの深度の義務性を──少なくとも現代の日本国内に日本国民として生を受けた──あらゆる行為者に対して課しているのかという点にある。まず、拘束主体としての義務教育の作用は、その任意の行為者が出生──すなわち有感生物としての「目覚め」──を得るはるか前より進行していく。ここで、無限の因果に便宜上の蹴りをつける点には幾分の塩梅があれど、現存する我々のまさにほとんどは、被義務教育者からの義務をさらに世代間を通貫した義務教育という媒体──そして各個別の諸家庭という最も人格形成に甚大な影響を及ぼす媒体──を経て、身体的・精神的構成要素とたらしめられる点が注目される。義務は、それ自体として人間をなにかへと仕向けるのに、突出して類稀なる手続きである。そこへ、罰(punishment)や制裁(sanction)といったリアクションがあるか否かを問わず●●●●●●●●●、少なくともある行為者とさらにある行為者とのきわめて鋭利なラベル差を──義務遵守者と義務違反者といった形で──もたらすことができる。これはまさに、罰や制裁といった手続きを機構として据えるためのコストの免除を宣言することにほかならず、発話や非認知的・非言語的アプローチといったきわめて廉価な──あるいは多くの場合無償の●●●──手段へと還元されることになる。さらにこれらは、暗黙知領域において作用する性質さえ多分に持つため、金銭という普遍国家における最信用手段を媒介とした行政的援助の対象とすら相違することになるだろう。すなわち、視認を許さない発話や非認知的・非言語的アプローチによる暗黙知的干渉は、行政という顕在知的干渉のみしか殊更──あるいは一定のものとして──確実になし得ない国家機関という、唯一の直接的・統一的権威との決定的な齟齬を引き起こすことを意味するのである。これらに対して我々がどのような態度を取るのか、換言すれば、我々の脳がどのような認知的反応を引き起こすことになるのか●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●は、文字通りまた義務教育による義務へと還元され得る──し、実際にその大部分が還元されているように思われる。
 こうして見通しを立ててみると、回帰的であり循環的である義務をナショナルに包み込み、数々の統治技術によって──価値判断を問わず、前記した内包を中心とした──国家へと最適化される手段こそが、義務教育としての「義務」である。そして、それを背後から暗黙知によって──視覚的に静けながら──さらに奥深くへと抉られたものこそが、「義務」としての義務教育に特有の「深度」である。もっとも、ここでは制度的支柱としての義務教育における義務と、──本来はそれと別個独立したものとみなされてきた──家庭内における──それが教育であるかを問わず作出される──義務はあらゆるコンテクストにおいて混同されつつある。されどこれらは、実際に純然たる別範疇として語り得ることができないどころか、相互に補完するものでもあるという理解は間違いなく一般的であろう。

3.教育と義務の交差点

 本来、教育と義務は一心同体──不可分──となるものでは決してない。仮に、──それが原始的なものであるか否かを問わず──アナーキーな状態において、無支配のもと人間およびその共同体が乱立した場合、生まれる教育の内実は──そもそも従来「教育」と呼ばれてきたものを実際に実施するのか否かという点も含めて──無数となるだろう。たしかに、統一政府によって統治された任意国家──そして、日本のように厳格な「義務教育」システムが支配する場──においてさえも、そうした実情は少なからず予想できるし、ごく一部においては現にそうであるのかもしれない。しかしながら、それを確固たる現実的諸統一へと規定するのが義務教育であり、義務教育に期待されるほとんどすべてでもある。
 教育が、義務という「臨界点」まで引きつけられたとき、そこには──当然ながら──本来義務でなかったものが義務へと格上げされる●●●●●●●●●●というプロセスが介在する。本来義務でなかったものが、ある共同体において義務となるということは、従うべきものとしてのある種の「神格化」というラベルの獲得を意味する(またこの様相は、その共同体規模が偏狭であればあるほど、より激しいものとなるだろう)。そしてこの様相は、神格化の対象となったものそれのみではおさまらない。後述するように、それを執行するものが──自律的、他律的とを問わず──自ずと帯びるものである。
 ──人類に不可分なものとみなされつつ──その数千年の記憶に随行してきた神格化という手続きは、かならずと言っていいほど一定度の盲目性を帯びる──また帯びてきた──のが常である。これが教育という本来であれば高邁とみなされてきたものと融合した際の暴力性は、──やはり人性ゆえの不遜さに勢い付けられる点においても──察するに余りあるものと言わなければならない。しかし実際のところ、義務教育における「義務」は、──多くのそれと同様に──絶対的なものではない──し、──また多くのそれと同様──そうなり得ない●●●●●●●。──後述するように──これに対するアナーキーな応答としての不登校は、また合法的権力行使に裏打ちされていたアウシュヴィッツからの脱獄とのごく小さなアナロジーにも訴えることができるだろう。

4.執行者と被義務者の非対称性

 義務教育における教師は、前述した内包の中軸を担う当為命題をその正当化機構とする執行者である。執行者は、──多くのそうした対置構造と同様に──被義務者に対してあらゆる面での──そして多くの場合完全なる──優越性をもつ。すなわち、──言うまでもなく──身体や脳の発達いかんという純然たる哺乳類としてのフィジカルな問題のみならず●●●●●●●●●●●●●、当為命題によって正当化された執行者としてのそれをもである。ここで、義務教育段階とその特性を決定的に異とする高等教育段階──大学との対比をもって明らかになることは、その非対称性の激しさである。非対称性それ自体は、あらゆる行為者との間に受け入れられるものであることは、あながち間違いではない。しかし、この狭間の肥大化に無関心であればあるほど、そこに──言語行為、非認知的行為問わず──教育といった従来は楽観的で高尚であったものへと侵入せんとする、あらゆるトロイの木馬を見落とすことになるだろう。
 またさらに、我々がここでより多くの注意を払うべき点は、義務教育における「ドグマ」と「成熟した科学知」の不完全な区別──それらの混同──である。こうしたふたつの潜在的な──いわば──自己破壊装置が、あらゆる義務教育にはビルトインされている。そしてこれは、国家と執行者双方によって織り成される義務教育それ自体の自己破壊装置であり、かつ被義務者へと後天的に●●●●ビルトインされる自己破壊装置でもある点は、言うまでもないであろう。これらについては、さらなる叙述が必要となるわけで、以下でより進んだ検討を経ることになる。

5.ドグマと成熟した科学知

 義務教育が義務としての名を冠する最たるゆえんは、それが成熟した科学知に関する教授空間としての役割に求められる。これは別として、──現在やひと昔前の日本に見られる──きわめて前近代的な軍隊式の集団行動を扇動する役割それ自体と峻別されているようにも見受けることは可能であるし、いまのところ、それを仮定の一端として棚に上げていても●●●●●●●●いささか問題ではない。
 我々のここでの関心は、執行者である教師のもつ執行者固有のドグマと、義務教育それ自体がもつ──教育理念や教材画定などを含む──ドグマである。もっとも後者は、──これまでの議論を踏まえる限り──やはり義務教育を裏打ちする当為命題へと──直示的に──帰着することにいならざるを得ないのではないかと疑念が生じる。他方で前者は、義務教育それ自体への一定の循環性を認めつつも、やはり直示的な帰着は許さないようにも思われる。この際我々は、執行者である教師があらゆるアスペクトにおいてなんらかの確実な信念を持つこと──そして、それがであること──を経験的によく知っている。そしてその信念は、それが勘違いや妄想であるか否かというテストに晒されることのない間で●●●●●●●●●●●●●●●肥大化していき、前述した非対称とのきわめて暴力的な相乗効果を獲得するに至る(この点は、後述の非対称性に立脚するものである)。仮に、こうした舞台が現在の義務教育よりも高等な機関であった場合において、そこにはより高等な審査者が──被教育者ながらも──「教育」の客体として存在するのであり、まったく無抵抗な状態でこのようなドグマから伝搬する脳および身体への諸干渉は、義務教育の特筆すべき様式のひとつでもある。
 義務教育のあらゆる瞬間において、これらドグマと表裏一体でありながらも、脳への干渉を主宰する──少なくともそう大々的に標榜されている──のは、成熟した科学知である(見方を少し変えれば、これ自体にもある種のドグマ性を見出すことができるのかもしれいないが、やはり紙幅の制限からここでは立ち入ることができない)。成熟した科学知は、日々の教授におけるあらゆる場面において、──博覧に供されながら──義務教育空間の主題へと志向することになる。それは、数日前まで未就学児としてラベリングされていた行為者に課されるパブリックな義務とパターナリスティックに抱き合わされた要請であって、──成熟した科学によってもたらされた──執行者の肥大化したドグマを感受すべき免罪符は、ナショナルな要請の面をもってそれら──すなわちドグマと成熟した科学知の──不可逆的な混同へと至るのである。

6.フィジカルな空間としての義務教育

 教育それ自体は●●●●●、フィジカルなものではない。なぜなら、手段としてのフィジカルに至らずとも──それが「教育」というラベルにふさわしい限り──純然たる教育は当然に達成し得るためである。では、なぜ義務教育においてフィジカル性がきわめて鮮明に観念されるのか。それは、前述した執行者と被義務者の激しい非対称性に由来することにほかならない。きわめて簡明な仮定に訴えると、これらの非対称性の一切を除去することが可能な状態に被義務者がセットアップされた場合、こうしたフィジカル的空間としての義務教育は崩壊を迎え、その姿態はおよそ180度転換するであろう。さすれば、義務教育的内包および執行者固有のドグマは、ただちに危機に瀕することにならざるを得ず、そうしたドグマからの脱却を共同体からの自然的サンクションに曝されることを免れない。

7.アナーキーな応答としての不登校

 不登校は、──言うまでもなく──それ自体として重ねて議論してきた義務教育の内包性とおよそ究極的に相反するものであるほか、ここであえて整頓された経験的事実を持ち出さずとも、現代国家のあらゆる先鋭点を随行する諸現象として──ほとんどの場合──負のコンテクストの下地となるべき──顕在的にも潜在的にも──議論的(controversial)な輝度を有する。そうした義務教育への最も穏健●●かつ最も開放的な応答は、義務空間への物理的接触を断つことに求められる。応答としての不登校に顕著な点を挙げれば、それが限りなく穏健な●●●リアクションに昇華されていることにほかならない。フィジカルな空間としての義務教育へとドグマと科学知の峻別を忘却した●●●●執行者の不採用●●●を完遂できるのみならず、それ自体が最も穏健な手段としての体裁に徹しているといえよう。

8.おわりに

 私自身の力不足から、本エッセイでの議論はここで力尽きることになる。正直なところ、これらの叙述にあたっては自らに内在する──ある種の──形而上学的衝動の高まりに迎合●●できなかった面が大きいし、それが失速のすべてであるように思われる。義務教育それ自体のより進んだ検討は、この場における議論の域を確実に脱しているし、──それが形而上か形而下かを問わず──もとより私自身の力不足からもそれを許さないであろう。
 こうした関心が私自身に尽きるものでないことを願いたいばかりではあるが、本エッセイで取り扱った論点への哲学やアナキズムという視座からの検討は、未だ十分でないように思われてならない。今後は、──僭越ながら以上の諸叙述をひとつの小さなトリガーにしていただければたいへん嬉しい限りなのだが──そうした議論の隆起をぜひとも期待したい。

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