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「いつかの為に」・・・麻田君、地下鉄で力強い優しさに出会う。



『いつかの為に』


昼前の地下鉄は、数時間前に詰め込んでいた人間たちを吐き出し、
ほっと一息ついた様な空虚な雰囲気がある。

座席はまばらに空いていたが、
麻田君は吊革につかまって列車の揺れに体を預けていた。
すぐ降りるから立っていた方が楽だ、と考える方なのだ。

ところが、この日はそういかなかった。
快適に走っていた列車が急停車し、
その勢いで体が回って、麻田君はそのまま空いていた座席に
すとんと座り込むことになった。

向かい側の座席からその一部始終を見ていた白髪の老婦人と
制服姿の女子高生二人が、声を出さずに微笑んでいた。

麻田君は照れ隠しに車窓から外を眺めたが
車内の明かりに照らされた壁の他には何も見えない。
次の停車駅まで、二三百メートルというところだろうか。


二分、三分と時間が過ぎて行ったが、列車が動き出す気配はなかった。
乗客たちが少しざわつき始めた。

『わずかな時間でも遅れが出ると不安になるのは、
日本の鉄道が正確過ぎるからだよな』

麻田君は以前、ヨーロッパで長距離列車に乗った時、
田園地帯のど真ん中で、30分ほど動かなかった時の事を思い出していた。

『あの時は一人旅で、誰も頼れる人がいなくて不安だったけど
周りの乗客は全然動揺していなかった。
皆いつもの事だなって感じで、静かに外の風景を眺めてたな』


麻田君が思い出に浸っているところに、
車掌のアナウンスが流れてきた。

「只今、前方の駅でホームから人が落ちたという連絡があり、
この列車は緊急停車いたしました。
救助が済み、安全が確認され次第、発車いたしますので、
もうしばらくお待ちください」

ざわついていた車内が静かになった。

『状況さえわかれば、日本人だって冷静になれるんだ』

麻田君は見るとはなしに、周りの乗客たちの顔を眺めた。

安心している中に、二つだけ不安を残したままの顔があった。
先ほど麻田君を見て笑っていた女子高生たちだった。

お互いの顔を見つめ、しきりに手を動かしている。
その様子を見ているうちに、事情が読めてきた。

手話だ。 聴覚障碍なんだ。
二人とも補聴器をしていないから見た目では全く分からない。
車掌の放送は全く聞こえなかったのだろう。

麻田君は、スマホをポケットから出し、
先ほどのアナウンスの内容を伝えようと、メモのアイコンをクリックした。

起動する僅かな時間がもどかしかった。

手を動かすスピードが速まっていく。
手話を知らない麻田君にも、二人が焦っているのが伝わってくる。

「早く立ち上がってくれ・・・」

その時、女子高生たちの隣に座っていた老婦人が
女の子の肩をツンツンと叩き、同じように手動かし始めたのだ。

手話通訳者なのか、老婦人は言葉を喋りながら手話をしている。

「この先の駅で、ホームから人が落ちました。
救助が済んだら、列車は発車する。心配しなくて大丈夫よ」

老婦人を見つめていた女子高生の顔がぱっと明るくなり、
その後も手話による会話が続いた。

女子高生の話していることは分からないが、
老婦人の喋る言葉で内容はおおよそ掴める。

麻田君は三人を見守った。

「・・・・・」

「趣味で習ってるだけよ。ちょうど半年くらいになるわね」

「・・・・・・」

「あら。お世辞でも嬉しいわ」

「・・・・・・・・」

「いいえ。私の方こそ、感謝しているのよ」

「・・・・・」

「私ね。友達に誘われて手話を習い始めたんだけど、だんだん面白くなってね。早く使う日が来ないかなって思ってたのよ。だって、せっかく習ったのに、お墓に持って行くだけじゃ勿体ないでしょう」

老婦人が笑って話すと女子高生たちも笑った。

「今日、初めて手話を使う機会を貰えてうれしかった。
ありがとうね」

女子高生二人は、手を胸の前で上げ下げたり、回したり、胸を両手でトントンと叩いりした。
そして最後に、

両手の親指と人差し指で二つの絡んだ輪を作り、
胸元から前にすーっと突き出した。

手話を知らない麻田君にも、何となくその意味が分かった。
おそらくは、こんな風に話しているに違いない。

「ありがとうございます。体に気を付けて、そして長生きしてください」


正しいかどうかは分からない。
でも、その手の動きは、とても美しく見えたのだった。


               おわり


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