見出し画像

大学院時代。これは躁なのか!?ー強迫、双極症ー 闘病記【18】

大学院デビュー

前回は大学院での友達であるMとの思い出を述べました。今回は私の大学院デビュー期について述べたいと思います。

卒論を褒められて、研究が軌道に乗っていた私は意気揚々と大学院に進学しました。大学院では生徒による自治会があり各自役割を与えられました。私はじゃんけんに負けて会長をすることになりました。

じゃんけんの最後まで残ったのがFさんでした。お互い最後まで残ったこともあり声をかけました。そして二人ともたばこを吸うので喫煙所で話をすることになりました。

Fさんは他大学から進学してきたので友達がいないということでした。また大学院生がみんな真面目で肌に合わないとも言っていました。

アウトローな存在であるところが私にはピンとくる感じがあったので「友達になろう」と言いました。Fさんは喜んでくれました。また大学生の時と同様に女性関係で暴走する悪い癖が出始めていました。

研究に邁進する

研究はうまくいっていました。青年団をはじめとした地域社会の研究にとどまらず日露戦後の国の地方自治についても研究の視野を広げていました。

またゼミや授業でも積極的に発言し、学部生に慕われる先輩となりました。チューターと言って、教授の授業を手伝いをすることもありました。博士課程の先輩方からも一目置かれていました。

今思えば私がうつ病を抱えながら研究をしていることを考慮して周囲は気を遣ってくれている面があったのだと思います。しかしその時はそんなことに気づくことは出来なかったのです。

研究もそうですが、大学院ではMという友人もできましたし、Fさんとも親しくなり、留年した文学部の友達もいて順風満帆の滑り出しだったと言えると思います。ここで落ち着いて研究に取り組めばよかったのです。

しかしうまくいかないのが私の人生です。
落ち着いた日々は長くは続きません。

躁の気配

私は徐々に日本史専修のメンバーから尊敬されるようになりました。
将来は教授になれるなどと言う人もいました。

実際、教授は私の将来のポストを用意すると言ってくれました。それに対して私は謙遜した態度を取りましたが、満更でもなかったのです。私がうつ病であるということを考慮して安心して研究に打ち込ませようと思ったのでしょう。

特に前回述べたようにMからは「天才」と呼ばれていたので、私は自分が本当に研究においては「天才」ではないのかと思い始めていました。

一方夜のバイトは続けていました。大学院生になったということでお客さんからも将来を期待される存在となりました。
また店で私の論文を掲載した雑誌を販売しました。みんなお付き合いで買ってくれました。一般の人にもうけるのだと思い有頂天になりました。

そしてだんだんと自我肥大を起こしていたのです。

躁のエピソード?

学校に企業が説明会に来たときです。私とMはどちらとも進学希望でしたが説明会に冷やかしに行きました。そこで企業のブースを回って話を聞いていました。

そんな中熱心に話をしてくれる人がいました。その人はGEの子会社の人でした。その人に対して「私を雇うのにいくら積んでくれる?」と偉そうなことを言ってしまいました。さすがにMも驚いたようで「あんなこと言って大丈夫か?」と聞いて来ました。
私は「GEがなんぼのもんじゃい」とひどい剣幕だったようです。

また学会に行ったときも自分が最年少にも関わらず、3つも質問をしました。全国の教授陣が集まる中で恥ずかしげもなく不遜な態度で質問していました。その時自分は研究においては「天才」だと思っていたのです。
他人の目を気にして気を遣うという本来の私とはかけ離れた姿でした。

上記二件のエピソードはうつ病で治療を受けている人とは思えないエピソードです。

うつ病

もちろんその頃も病院とカウンセラーにかかっていました。先ほども述べたように概して調子はよかったのですが、ときどきうつ状態で起き上がれない日がありました。また強迫症にも苦しんでいました。

起き上がれない理由は特に見当たりませんでした。自分はうつ病と診断されているので仕方ない、早く病気が治ればいいなあと思っていました。やはりこの時点でも病気を自分の外側に見ていたのです。

またカウンセラーは私が研究に夢中になっていることをよい傾向だと思っていたようです。女性関係以外のことは認めてくれていました。

そんな中でFさんとは喫煙所でよく一緒になっていました。Fさんは相変わらず友達ができないと言っていました。私も友達がいなくて困っていると言いました。

日本史専修の人からは慕われていましたが、友達と言えるのは留年した同級生とMだけでした。

Fさんとの出来事

私とFさんはたばこを通じてコミュニケーションを取っていました。そしていろいろ話しているとFさんは大学の時は水商売をしていたことが分かりました。結構売れっ子だったようです。

私は大学生の時の恋愛のように、またピンときてしまいました。そして一緒に飲みに行くことになりました。
Fさんは水商売をしていた関係で金銭感覚が崩壊していました。私の行きつけのバーでFさんは調子が出て、みんなにおごっていました。

私はそんなクレイジーなところにも惚れてしまいました。また「危険」な女性との付き合いが始まりました。

私は何もかもがうまくいっているように感じました。病気だけがネックですがそれ以外は順調に進んでいると感じることもありました。

焦燥感

一方で強い焦燥感もありました。ほとんどの同級生は社会人となり働いています。一方自分は学校に通い働いてないという負い目がありました。
だからせめて「普通」の人の勤務時間である8時間は研究に費やそうと決めました。そしてその決定が強迫的になりました。

とにかく「普通」以上に物事をこなせないといけない。それは子供の時からの思い込みでした。それと負けず嫌いなので人より早く出世したいという欲がありました。
研究はうまくいっていたのですが、焦りが出ていたのです。

躁状態というと楽しいイメージがあるかもしれませんがそんなこともないのです。私の場合、自我肥大を起こしていましたが、焦燥感も激しいものがありました。

不安と強迫症

また不安も大きくなりました。前にも述べたように、うまくいっていることに不安を覚えるのです。
中学生以来の理不尽な暴力に対する不安もあったのですが、同時にうまくいっていることが崩れるのではないかという不安もあったのです。
大学生の時、彼女と「幸せ」だった時のように不安が大きくなり強迫症はひどくなりました。

そして日を経るごとにうつ状態になる日も増えてきました。今になって思えばこの時から躁とうつが混ざっていたのだと思います。
今で言う双極症の混合状態と言われる状態だったのだと思います。
しかしその頃は混合状態という症状があることは医者もカウンセラーも知らなかったのです。

うつ病だと言い張る医者

病院に行く度に調子が悪くうつ状態になるという話をしました。医者もうつ病だということでSSRIと抗不安薬を出していました。

医者は気の良いおじさんでしゃべりやすい人でした。自分も学生時代に引きこもりのような状態になったことがあるということで、学生である私に対しても親身に接してくれました。

しかし、双極性障害Ⅱ型については知識がなかったのです。そしてどんどんSSRIを増やしていきました。

軽躁か気質か

以上述べてきたように大学院の初めは軽躁状態であったということが出来そうです。
一度研究のアイデアが湧いてきて眠れないということもありました。

しかし双極性障害Ⅱ型の診断基準である4日以上の軽躁状態ということはありませんでした。

まと十日に一度は落ち込んで起きられないという、うつ状態になりました。しかしうつ状態も3日と続きませんでした。こちらも診断基準である14日には遠く及びません。

双極性障害Ⅱ型における混合状態とラピッドサイクラーということで説明がつくのか、気質であるお祭り男と、若いときの気性の激しさということなのか。未だに謎は残ります。

この程度のエピソードは、うつ病の人には考えられないかもしれませんが、若気の至りとして持っている方もいると思います。
若いときの過ちはみなあるものです。
そういう面があるので私は大学院時代の出来事も全てが病気のなせる業だとは言い切れないと思っています。
病気もあったでしょうが私自身にも問題はあったのです。

調子よく始まった大学院生活も双極性障害Ⅱ型と思われる症状がひどくなってきました。この時既に坂道を転げ落ち始めていたのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?