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伊集院さんと寿司とファノンの名著〜多様性を考える〜

「100分で名著」は神番組

NHK「100分で名著」という番組をご存知だろうか。
言わずと知れた名著紹介の長寿番組である。
伊集院光さんとアナウンサー、指南役の先生が朗読やアニメーション、トークを交えて名著の面白さを紐解いていく。

私はこの番組が好きで好きで、
と言いつつカバーしきれてはいないのではあるが、
・アルベール・カミュ著「ペスト」
・大江健三郎著「燃え上がる緑の樹」
・フランツ・ファノン著「黒い皮膚・白い仮面」
・ピエール・ブルデュー著「ディスタンクシオン」
の回あたりは、勝手に「神回」と思っている。

そして、一番好きなポイントはどこかというと、
「伊集院光さんの考察の素晴らしさ」と、「それを賞賛する指南役の先生」
という構図である。

伊集院さんは、
芸人としての彼のバックグラウンドがそうさせるのかわからないが、
「置き換え能力」というか、「自分ごと」として物事を捉える能力が素晴らしいのだ。

伊集院さんの「寿司」炎上事件(2023年2月ごろ)


そういう経緯があっての伊集院さんファンとしては、
昨年の今頃にあった、伊集院さんの炎上事件に、大きな違和感を覚えたのでここに記すことにする。
(ずいぶん古い話題で申し訳ないが)


「ぽかぽか」という情報番組の中継で、ナイジェリア人と日本人のご両親を持つお笑い芸人・大久保裕オーサーオロナさんが、「デリバリーを届けさせてもらいます」と言ったところ、スタジオの伊集院さんが「彼が寿司運んできたら嫌だなぁ」と発言したという話。

この話があった後、
ご自身も黒人ハーフであることを前提にして、
伊藤亜和さんという方がnoteに投稿していらっしゃるので、
そちらもご覧いただきたい。


私の想像でしかないけれど、伊集院さんは、
「あんまり寿司に詳しくなさそうな人が持ってきた寿司なんてちょっと…」という意味で「嫌だ」と言ってしまったのかもしれない。

でも、彼が黒人のルーツを持っていることを一目で判断し、
反射的にそう言ったのなら、
伊藤さんのいうようにそれは人種差別というか「ルッキズム」の問題である。

どちらなのかは伊集院さんに聞いてみないとわからないが、
このニュースを見て、
私は「なぜよりによって伊集院さんが」と思った。

ファノン「黒い皮膚・白い仮面」

というのも、
前述の100分で名著の「ファノン」の回で、
主に人種差別について、
伊集院さんはとても素晴らしい発言をされており、
私はそれに感銘を受けて、
私の「想像力を持つ」という考え方の基礎となったのである。

簡単にいうと、ファノンはマルティニーク島というフランス植民地の出身で、白人社会で育てられた黒人として、「自分は黒人ではあるが、アフリカの黒人とは違う」という、「差別する側の」人間としての葛藤も持ち、人種差別のさまざま側面を短い人生を通して考え続け、記した作家であり精神科医である。

番組の動画などはNHKオンデマンドでまだ見られるが、無料ではないので、見られない人は、NHKのサイトに結構詳しく記述があるので読んで欲しい。


番組に大感動した私の個人的な番組まとめ

当時の私の番組で感じたこと、そして伊集院さんの発言に対する感想のメモ(番組の個人的なまとめ)はこれである。

伊集院さんの説。
「テレビ局のトイレに、『ここで仮眠を取らないでください』と書いてあった。それを読み流すことはできるけれども、僕は、ADさんたちの労働環境が居眠りしてしまうほど過酷なのではないかと思いを馳せた」


そのようにして、包摂する眼差しを開き、すべての人に対して人ごとでない「自分ごと」として思いを馳せることが重要である。


考え続けることをやめる=諦めるor決めつける

「黒人のことなんて知らない」と諦めることは分断の一歩だし、
「黒人って結局こうでしょ」と決めつけることは偏見への一歩だ。

だからアップデートし続けなければならない。答えは出ないのだ。


ファノンの最後の言葉
「おお、私の身体よ、いつまでも私を、問い続ける人間たらしめよ!」


抑圧に対して「ウイ
(フランス語で「イエス」の意)。差別に対して「ウイ」。人間関係に対して「ウイ」。
でも、そうある一方で、全てに対して「ノン
(同じく「ノー」の意)」でもあるのだ。

「ウイ」であり「ノン」であることを選択できる権利を持つ。それこそが人間の自由なのだ。そしてそれを問い続ける、バージョンアップし続けることが大切なのだ。


想像力

このように大感動してしまった私は、奇しくも人種差別というキーワードで伊集院さんが炎上しているのはとても腑に落ちないことだった。
伊集院さんの言葉は、この回だけのものではなく、「想像力を持つ」という私の考えの基本の一部になっている。
「嫌だ」と言った本意はもはや本人に聞かないとわからないし、言われた人が訴えることではある。単なる「言葉狩り」と言う人もいるだろう。
ただ、私は、伊集院さんが「想像力」のある人だと思っていて、今回の発言も含め、問い続ける人だと願い、同時に私も問い続ける人間でありたい。

差別に対して意識の高い人でも、反射的に線引きをしてしまい、人を傷つけてしまう恐れがある。ということが炎上事件から言えるのかもしれない。

そして、この芸人さんや伊藤さんをはじめとする外国にルーツを持つ日本人の方が、今までどれだけ「外見で判断」されてきたかということに思いを馳せた。

アドゥワ誠投手の鉄板ネタ

私の好きな広島カープの投手に、アドゥワ誠さんという人がいる。
彼は、ナイジェリア人と日本人のご両親を持つ。
彼の挨拶の鉄板ネタは
「外見はこうですけど、日本語しか話せないんでよろしくお願いします」
というものだ。
そうすると、皆から笑いが起こる。
身体的特徴を長所であり個性として、皆に覚えてもらい、会話のきっかけにする。それは彼の長所だと思う。だからこそ、私は彼を特に応援したいのだと思う。そして、彼が生まれ持った長い手足も、プロ野球選手としての大きな長所だ。
場を和ませるきっかけとしてそういう挨拶をしているのと同時に、その場で彼は彼なりの「伝え方」をしたんだと思う。

私は、彼が幾度となく、何十回も、何百回も、「英語話せないの?」とか「日本語お上手ですね」と言われてきたであろうことを想像する。
noteを書いた伊藤さんも記しているように、それは果てしなくわずらわしく、日本にいる限りそのことで孤独を感じ続けるのかもしれないと思う。
日本人なのに」。

日本人である彼らを外見でジャッジして、自然に「異分子」扱いしている私たちは、本来どうあるべきなのか。偏見を持ってはいなかったか。
「黒人なら英語喋れるでしょ」といった見方は偏見ではないのか。
絶対的な答えは出ない。一人ひとりがその場その場での最適解を見つけていくしかない。

そして、外見的にわかる特徴を抱えている人もいれば、外見的にはわからない特徴で悩み、苦しんでいる人もたくさんいる。
皆それぞれ、何かしらのネガティブな悩みを抱えているものだ。

そういった「実はこういうことで悩んでいるんだよね」という情報を、どうにか周りに伝えるなり抱え込むなりして、なんとか乗り切っていくものなのだと思う。それは本人の課題と言える。

その上で、ネガティブなことを乗り越えようとする人に対して、周りの人が切り捨てることも決めつけることもせず、
考え続けること、相手を思いやり、アップデートし続けること
が、
多様性を考える」ことと言えるのではないだろうか。

「考えるのをやめるのは、分断と偏見の始まり。
知らないと切り捨てることは分断だし、
決めつけることは偏見の一歩だ。」
そう言った伊集院さんの言葉が思い出される。

想像力を持ち、個々の特徴を受け入れ、すり合わせる

「想像力を持つ」ことは時にネガティブに働くこともある。他者の不幸などを想像してしまうと自分の考えを犠牲にしがちだし、それによってストレスも感じやすい。とても一筋縄ではいかない、大変なことだ。

しかし、私は、人との関係性を作るにあたり、「想像力を持って」他者と接し、対話し、お互いの価値観をすり合わせること、可能な限り寛容になることを大切にしたい。
それができるだけの余裕を常に心がけたい。

そして、一人一人、違うからこそ尊いし、繋がりたいのだと思う。

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