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ヒリヒリな文章。

半年ほど前から、オードリー若林さんのnoteを購読している。

それまでずっとどうしようか迷っていたけれど、やっぱり読むことにして良かったなと思う。

お金を払わなくても読める文章は沢山あるし、noteでもいろんな人の文章に触れることが出来るけど、内発的な動機はやっぱり自分への浸透力を高めてくれる。

ネットという開けたフィールド上の秘密基地的な空間にも感じる。
願わくば、もうしばらく続けてて欲しい。

とても正直な人だなぁと思う。
感情を丁寧に扱うという実は難易度SSランクの次元で自分と向き合ってる。
日々の浮き沈みをちゃんと書くところが好き。

あと、ヒリヒリ感。
ヒリヒリ感って、なんだ。

✳︎

生きていると、心にモヤがかかったり
快晴ピーカンに澄み切ったり
土砂降りで地固まらなかったり、いろいろだ。
空模様より忙しい。

心のモヤを晴らさせようとする本や先人たちの知恵は、役に立つこともあるけれど、なかなか解消できないこともある。

名言やありがたいお言葉だけを取り入れようとしても、自分に上手く馴染まないことはよくある。
中和されずに漂う油のよう。

私というバケツに入った水の中に、重みのある言葉たちがフヨフヨと浮いている。
なんだか滑稽だ。

昔を生きた素晴らしいと称えられる人たちの言葉は強い。
何百年も前に唱えた哲学者の言葉が、今という時代を風を切って歩いている。

それが自身を救ってくれることもある。
同時に、言葉だけが一人歩きしていることも、あるかもしれない。

✳︎

亡くなった人は、この先地位が落ちることはない。
世間的な評価が上がることはあっても下がることは少ない。
「今を生きていない」という強固すぎる足場がある。
フィールドを去った人だから。

たとえ過去の素行の悪さが明るみに出ても、もうこの世にはいない人だからと、きっと私たちは許せるし、称えることを続ける。

でも、いま生きている人の言葉は違う。
人の心を温めることもできれば、意図せず傷つけたり、自身の地位が揺らいだり、いつだってそんな可能性と隣り合わせだ。
これから何が起きるのか、何を起こしてしまうのか、当たり前だけど分からない。

そんな中で綴られる文章というのは、昔を生きた哲学者や文豪たちからは得られない、危うさをはらんだヒリヒリ感がある。

それは、書き手と読み手、両方の揺らぎが重なったところにしか生まれない。

両方が揺らいでないとダメなのだ。
どちらかの足場が固まっていると、ヒリヒリ感は感じられない。
今の時代を、一緒に生きている証のようなもの。

私が今欲しているのは、こういうヒリヒリ感なんだなと、改めて感じる。

✳︎

noteをはじめた頃は、ここに書き綴ったことをあとで読み返すことを密かに楽しみにしていた。

でも一年経ってみると、全くそうは思わないことに驚いた。
とても読む気になれない。
私こんなこと書いているよ恥ずかしいな、とさえ思う。

これが中学生の頃の日記とかだったらきっと「かわいいな自分」とか思えるんだろう。
だけど、一年前の自分をかわいいと思えるほど見違える成長は遂げていないのだなと思った。

でもその恥ずかしさは、ある種の危うさをはらんでいるようにも感じて、それはそれでいいと思える。

内容はどうであれ、脳内を駆け回った筆跡は大切にしたい。

✳︎

ヒリヒリ感とは、痛いの手前。
痒いの先、疼く感覚。
何かが研ぎ澄まされている。

感情を丁寧に扱うことって、とても難しいことだと思う。
私はなかなかできない。
自分を律する方向に向かいがち。

正解を見つけると、私はすぐにそこを安住の地にしてしまうから、良い言葉だけに多くの意味を見出しすぎないようにしたい。
名言に振り回されないぞ。と自分に言って聞かせることが最近のマイブーム。

考えることを止めないために、誰かが導き出した即効性に頼り過ぎないようにしたい。

ヒリヒリと中和。
相反するものを同時に感じたことを忘れないために、ここに書いておく。




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