日記と精一杯のアウトプット。
言語化を面倒くさがらないぞ、と決めたのに、もうnoteの更新も疎かになってきている今日この頃。
正直言って、言語化ってやっぱり面倒くさいなぁと思った。
だってめちゃくちゃ考えるから、頭を使う。
自分の考えをアウトプットするのってこんなに労力を使うんだな、と思った。
出来れば思ったことを忠実に、齟齬なく書きたいという思いははじめた当初のままなので、そこを曲げることはできない。
思ったことをそのまま、とも思うけど、そのままだとしっくりこないこともある。語彙力が無いから。
手の届く範囲の言葉をいろいろと並べてみても、本当の『そのまま』にはならないんだなぁと感じる日々。
ないものは出せないし、ひねり出して同じような結論が出たとき、結局これかぁみたいな気持ちになる。
人と比べると脳みそのシワが圧倒的に少ないと思うのよ、私。
ツルンとしてそう、見たことないけど。
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自分はドライな人間だな、と最近よく思う。
何か自分にとって大切なことが目の前で起きているのに、その時の自分を神のような視点で見つめているもう一人の自分をよく感じる。
ああ、今こんな気持ち。とか
ま、それは時間が解決してくれるから。とか
だからストレス耐性はあると思う。
責任感が特別ある方でもないし、不真面目な部分も結構あるし。
昔から、ストレスで体調不良に見舞われる人たちが周りに多くいる中で、私はひとりピンピンしていた。
心では決してポジティブとは言えないようなことを思いすぎるほど思っているのに、それが体調に出ないというのは、ある意味図太いんだなと思った。
同時に、自分の ”思いの足りなさ” みたいなものも感じた。
健康がいちばんなのにねぇ。
自分のことを繊細だと思ってたから、ちょっと拍子抜けしたな。
それに気づいたのが、高校生くらいのとき。
ただ最近はそれを、ちょっと虚しく感じることがある。
その悟ってる風の神の視点が鼻につくっていうか、人生1回目のくせに分かったフリするなよって思う。
そういうどこかドライな自分に
「この人生の主人公あんただよ」
と肩をトントンしたくなる。
もっとウィットでウェットな人間を目指そう。
湿り気が多いと周りに迷惑かかりそうだし、潤ってるね、くらいがいい。
理想はミスト。
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さあ、アウトプットが滞りがちな日常に渇を入れるぞ。
主人公するぞ。
最近読んだ本について書きます。(唐突)
面白かったなぁ、この本。
私の中で『面白い』っていうのは、展開が読めないドキドキ感とか、セオリー通り進まない脚本とか、没入感とか、そういうもの。
そこに笑える泣ける関係ない。
善悪関係ない。
ポジティブネガティブ関係ない。
「えぇ…」とか「うわ…」とか「ほう」
みたいな感嘆符が漏れる要素があるか無いか。
この本の雰囲気的に、面白いっていう表現は似合わないかもしれないけど、私基準の面白い枠に堂々とランクインしました。
何度「くーッ…!」とか言いながら本を閉じたことか。
この感嘆には、切なさ苦しさ愛しさもどかしさ、いろいろある。
ちょっとずつ噛みしめるように読み進めたから、そういう心境を栞にして、また読み始める時間が好きだった。
読書の良い楽しみ方をした。
あと、表現力がもう突き抜けてて、まるで美術館を歩いているようだった。
何度も足を止めて、文章そのものを味わい尽くしたくなる。
複雑で重層的な文章の魅力を知った。
ゆっくりちょっとずつ読みたい心理は、こういうところからくるのかな。
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『マチネの終わりに』
40歳前後の大人の恋愛小説だ。
普段、恋愛小説をまず手に取ることがないから、ちょっとした冒険だった。
天才ギタリストの蒔野聡史と、国際ジャーナリストとして活躍する小峰洋子の物語。
美男美女でスペックを見れば完璧すぎる二人。
知性と気品溢れる二人の会話は高尚すぎて読んでいるこちらが置いてけぼり感をくらうほど。
でも、出逢うべくして出逢った二人なのだな、と思わせる。
読み終わった直後の感想は、この手の話しは、実はこの世に数多存在するエピソードなのかもしれない、と思った。
年表に載ることのない、けれど一瞬でも誰かと心を通わせた時間って掘り起こせば誰にでもあるんじゃないかな。
それはときに、道徳や倫理的なもので照らすと即座に消えてしまうような、小さな小さなものかもしれない。
本になれば、そんなエピソードも永遠に閉じ込めることができるから良いよね。
虚構をまとわせることでしか書けない秘密もある。
著者の平野啓一郎さんがこう述べている。
この物語には、モデルとなった人物がいるそうだ。
個人的に、フィクションとノンフィクションの境目はあやふやでいいと思う。
フィクション寄りのノンフィクションもあれば、ノンフィクション寄りのフィクションもあるだろうし。
いずれにしても『思いの発露』だと感じる。
私はそれに触れる ”今このひととき” を、ただ楽しみたいのだ。
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この物語が分かりやすいハッピーエンドだったら、一時の満足感と引き換えに、全体を覆っている余韻を失ってしまうと思う。
作者はきっと後者を生かした。
約束された幸せは、約束された苦しみくらい、ときに受け入れがたい。
苦難を乗り越えて絆を深めるという展開は、救いにもなれば毒にもなる。
描かれる苦しみが、捉え方によっては演出のように感じてしまうからだ。
オチありきのフリに感じてしまうと、いろんなものが霞んでくる。
でも、本当に必要だった苦しみなのか。
回避できたんじゃないか。
そう思いはじめたら、たまらない。
どうしようもない気持ちになる。
ああ、あのときこんな行動をとっていたら。
せめてこうなっていれば。
メールや電話でのすれ違いは、何かを介して連絡を取る現代人には十分に起こり得るもので、その代償を決して小さく見積もってはいけないなとも考えさせられた。
たった三度出会った人が、誰よりも深く愛した人だった――
たった三度で惹かれ合ったという事実は、二人の中で運命的な何かを育むと同時に、相手の知り得ない部分を疑うことなく飲み込んでしまうという心理にも作用したのだろう。
思慮深く、相手を慮ってしまうこの年代ならではの性質は、大切な人を図らずも遠ざけてしまうことがある。
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この物語を貫くテーマは
「未来は過去を変えている」もしくは
「変わってしまう」ということ。
それは ”自由意志” と ”運命” をどう捉えるかで変わってくる。
作中で、ある人物から語られるセリフがとても印象的で、考えさせられた部分でもあった。
未来には自由意志が必要。
”何かが出来るはずだ” という希望になるから。
だけど過去に対してのそれは必ずしもポジティブに作用するとは限らない。悔恨を残すこともある。
”何かできたんじゃないか” と。
だから運命だと開き直ることが慰めになることもある、そんな内容だった。
結局、自由意志と運命が綱引きするこの物語に、すっきりとしたオチを求めること自体が野暮なのかもしれない。
そんなことを思った。
でもだからこそ、気品をまとった余韻を楽しむには十分すぎる作品だ。
過去を変えられる只中に、今まさに立ち会わせているかのような感覚に陥る終盤の流れは美しかった。
”このひととき” を永遠に噛みしめたい。
作中で語られた誰かの願いは、
つい今し方、私が感じたことでもあった。
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