深い諦めに支えられている
今必要な事は、何もしないでいられる能力だと思う。
スマホを触ったり音楽を聴いたり、求められてないにも関わらず僕らはいつも多忙そうだ。
日々、"何かさせられている感覚"から逃れられない。
それは心に余裕がないからだよって言われるかもしれないけど、だとすれば大多数の人々が心を病んでいる事なのだろうか。
年齢を重ねるにつれて、何かを成し遂げる事がありたい姿なのかという問いが風船のように膨らみ続けている。
成功ばかりが目について、誰でもそこに近付ける風潮が顕著になっている。
無謀という概念が遠くに流れていった。
欲望の焦点は霞んでいき、自分が今どこを進んでいるのかさえ見失ってしまう不安に駆られる。
主語がこちら側にあたるのが期待であって、周りは何一つ変わっていかない。
自分に対する過度な期待を辞めれたのは、
間違いなく"深い諦め"があったから。
諦める行為が悲しいなんて誰が決めたんだろう。
人生は、諦める道の先で新たな期待を迎え入れる連続に過ぎない
大切なのは現実という虚像をいかに屈折させて実像として結べるか否かだ。
正解なんて存在しないからこそ正解にしていく過程に大きな意味が与えられる。
理由として、僕らの語る現実はひどく着色された後で、実態としてはあまりにもお粗末で卑劣であるからである。
だから現実や意味や世界は、自分で創る。
間違えたら壊してまた創り直せばいい。
"創る"ためには想像力や知識などよりも先に諦めるという前提がプロセスとして欠かせない。
深く諦める事で認められた自分があって、
淡く期待する事で得た幸せも数えきれない
例えば僕は、どんな生物をも温かく照らす太陽のような存在にはなれないけれど、特定の人々を暗闇の不安から救い出す月にはなれる。
頼りにはならないかもしれないけど、隣にいて安心させる事は出来る。
(広義の意味での)世界が春から始まったように、
(狭義の意味での)世界は手放す事から自転し始める
"狭義の意味での世界"はすなわち自己や感性、あるいは命そのものだ。
世界のねじを巻いた後、鮮やかな桃色の葉に僕はきっと涙を流すかもしれない。
それでは良い夜を
おやすみなさい
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