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前進の錯覚、後進の感覚(休職した話)

ここずっと最近、「進んでいるのか後退しているのか」というベクトルで人生というものを捉えてた。

なぜなら嫌でも結婚、出産、マイホームのような話が身近にポンポン出てくるから、無意識に意識はしてしまう。まるで幸せという一つの決まったゴールにめがけて、マイルストーンが置かれているようだ。

ただそのステップアップなのか、ステップダウンなのか、低空飛行なのか、なんて考えで僕は何も見えてなかったし、結局何もできていなかった。


唐突だけど、最近自分は以下のような状況に陥った。


・鬱の初期症状を発症
・適応障害(抑うつ状態)と診断され、仕事を休職


気付いたら精神疾患にかかるという、なんともあるあるな展開を迎えて、大学を卒業して当たり前に就職したあの感覚を思い出した。行儀よくレールの上を走るだけのあの感覚。

「ああ、憂鬱が順調にガンガンと進む。」

「仕事自体がしんどい」「これで休むのは甘えかな」と感じる反面、実はその感覚がSOSでもあるからこそ、正直"鬱病"の判断は個人判断の裁量が大部分を占める。

あまり驚いていない、という事に自分自身ほんの少し驚いた。世間を穿った見方で睨みつけ、奇を衒うこそ正義だなんて威張り切っていた学生時代と本質は変わってない。当時も自分は少し普通じゃない感覚があったからこそ今回は、その感覚に正式な病名がついてきた程度でしかなかった。

他人の人生を羨んでいるうちは、どの人生を選んでも後悔するのは事実だと受け止めている。

だから、今は平日にガラガラの映画館に行くか、何もしないに徹するくらいにしようかと思っている。
「大丈夫ですか?」という心配の声にもありがた迷惑なくらい食傷気味だ。
でもやっぱり適度に遊ぼうかな。なんて一人部屋でつぶやく日々を溶かし続けている。


僕は偶然が偶然重なって、振り返った時にそれらを必然と呼び、その作られた必然によって世界は成り立っている派である。偶然の連続はやがて必然へと変わる論である。

だから、偶然を愛したいし、未来では笑っていくつかの偶然を必然にしていきたいと思っている。正直、理想を語るだけの元気が出てきて少し安堵している自分がいる。
来るべき時に来るべき出来事が起こって、そこでとる自分の行動もやがて必然と言い張れるように、今を頑張るしかない。
端的にいうと、"頑張らない事を頑張る"という事である。


そんな人間だからこそ、いまは前進と後退を一度ゴミ箱に捨てて、焼却炉で燃やしてどこかの埋立地の肥料にしてもらいたい。

やがて自分がその埋立地の上を、少し大きな歩幅でぐんぐん歩いて"前進"している事を信じてる。振り返った時にこれは必然だったと言える未来を迎えにいくために、今できる事はやるだけ。

そう考えるだけでほんの少しだけ心が軽くなった気がした。


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