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空白の学校を歩く スクールカウンセラーがコロナ禍で考えたこと ③

失われた別れ

2020年春、新型コロナウィルスの感染防止のため学校が空っぽになった。
3月はしめくくりの大事な時期。学校にとってはとくにそうだ。
学年が終わりクラスも変わる。去っていく人たちとの別れ。
悲しみにひたって新しいスタートへ気持ちを整える時期。
セレモニーや心の交流、感傷的な雰囲気。

コロナはそれらをすべてふっとばしてしまった。
この時期世界中で起きていた悲惨からみれば大きなことではなかったかもしれない。
ただ、心の成長にとってそうした体験はとても大事だ。
「大人の階段」というのは、リアルな別れのつみかさねで登るものだから。

学校の空白はその後数か月続いた。
子どもたちは友だちとも会えず、家に閉じこめられた。
スクールカウンセラー(SC)は、子どもたちの心が失ったものを案じるばかりだった。

じつは私が案じたのは、子どもたちの心だけではなかった。
教師たちもまた心の大事なものを失ったように見えたのだ。


立ちどまる教師たち

ある日校舎の中を歩いていると、空っぽのはずの教室から電子ピアノの音が聞こえてきた。
ぎこちなく鍵盤をたたいていたのは、ベテランの男性教師。
照れくさそうに「合唱コンクールのピアノ伴奏の練習してるんだよ。コロナがこんな感じだと、無くなるだろうけど。なにかしていないと気が滅入るから。」
「うちのクラス、今年3年生で合唱コンクールも最後だし、優勝させてあげたいんだよね。」

クラス全体で取り組む合唱コンクール。一体感や感動を味わうイベント。
それらも中止になってしまう。
電子ピアノの音もさびしげに聞こえた。

彼らは子どもたちと「共に居ること」に歓びを持っている。
その歓びが教師のモチベーションにつながっている。
彼らが大事にしてきた「つながり」や「きずな」。
「学校の空白」はそれらも奪っていった。

窓から校庭を見回す。人気のないグラウンドがむやみに広く見える。
体育教師が、グラウンドの小石を丁寧に拾ったり、水を撒いたりしていた。
「最近運動してないから、体が重くて・・」
部活で暗くなるまで生徒と走り回っていた人が、どんよりした目をしている。

学校が空白になる前、教師たちは本当にいそがしそうだった。
朝7時半くらいには学校にいて、ホームルーム、授業、給食指導(先生たちに昼休みはない)、夕方からは部活動。その合間に採点したり、連絡帳を書いたり、書類仕事を片付けないといけない。
生徒のトラブルやいじめ、保護者への連絡や面談も入ってくる。
職員室にはせかせかと追い立てられるようなムードが流れている。
その空気は学校全体をおおっていた。
そんな中で、SCが「子どもの心」について話すのは工夫が必要だった。
傷ついた心に触れるには、大人が立ち止まって子どもと同じ目線になる必要がある。
時間に追われる教師たちにそれを求めることは簡単ではなかった。

ただ、学校が空白になった今、彼らは立ち止まって感じているように思えた。

ある教師としみじみ話す機会があった。
ベテランの生活指導担当。生徒たちをせかして叱っていた。
彼もまた何かに追い立てられているように見えた。

学校の空白の中で、彼の口調はめずらしくおだやかだった。

「コロナ休校になって、授業も部活もなくなり家族と過ごす時間がふえました。前は朝から晩まで学校にいて、休みの日は部活動でしたから、ほとんど家に居られなかった。思えば普通じゃなかった。疲れてたんです。いつもいらいらしてましたからね。」
この先生から、こんな語りが聴けるとは思わなかった。

これも学校が空白になったからだろうか。

余裕をとりもどした彼から、ふとこんな言葉が出た。
「学校は一日中子どもたちを預かって、休みの日まで私たちがいろいろと面倒を見ていた。今はそれがなくなって、子どもたちは一日中家にいる。親は大変でしょうね。」
すこし冗談めかしてこう付け加えた。
「みなさん。学校の役割は、託児所だったことを少しはわかってくれましたかね?」

心の中でいろいろなものが動き出しているように感じた。

教師も子どもたちも、学校に「みんなが居て、つながる」ことがあたりまえとされていた。
そのあたりまえが、教師や子どもをしばっている面もあったのかもしれない。
「子どもたちのため」がんばる教師は立派だが、人として生きることも大事だ。

空白から動きだす学校

徐々に学校の再開に向けて準備がすすむようになってきた。
生徒が来れば感染のリスクが生じる。対策が手探りで行われることになった。
消毒設備、シールド、消毒の作業、ディスタンスを保つための動線確保などなど。
様々な対策はおおまかなマニュアルがある程度で、現場にかなりまかされていた。
それらほとんど教師がやらねばならない。
学校では、何か新しいことがあれば、たいてい教師たちの負担を意味する。
それが、心の余裕のない学校を生みだしてきた。

学校の空白はやがて終わる。生徒たちも戻ってくる。
また元のような学校に戻っていくのだろうか?

養護教諭と感染対策について話し合う。
学校全体のコロナ対応の責任者にされてしまった彼女は、ため息交じりで話す。
「朝検温させて、熱がある子は帰さないといけない。健康チェックカードの確認、マスクの忘れがあれば貸し出す。これも全部保健室ってことになるんですよね。」
「まあ、しかたない。やるしかないですね。」
おだやかだが肝が据わっていて、生徒たちからしたわれている。
「ただ、保健室は雰囲気が変わるかもしれないです。それが気になります。」
保健室は心の問題を抱えた子たちが集まる「心のオアシス」である。
教室へ入れない子や、パニックを起こした子、リストカット常習者など。
保健室に居られるから、なんとか心を保っている生徒たちがいる。

「でも、これからはすぐに家に帰さないとならないです。前だったら微熱があっても、いろいろ話を聞いてあげられたんだけど。」
「あの子たちは、ここで愚痴をこぼしながら、なんとか学校でやっていけるんですよ。でもこの状況だと居づらくなるかも。」
ささやかなケアの場を維持するために、養護教諭とSCは話し合った。


学校に来られず家にこもっていたために、気持ちが落ち込んでいる子たちもたくさんいる。
コロナ休校が明ければメンタルの問題が一気に出るだろう。
そういう子どもたちが「居られる場所」もまた学校なのだ。
そのために、心をつくす教師たちの存在も忘れてはいけないだろう。

SCは、学校の空白で生まれた心の語りを聴いてきた。
そこには、学校がかかえるさまざまな問題がおりこまれていた。
おそらく、コロナを経て、新たな心の物語が学校では生まれているはずだ。
SCは、それらを丁寧に聴き、子どもにとっても大人にとっても「居ることができる」学校について考えていくことになるだろう。


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