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【小説】ねむるどろ


【開いてくださった方へ】
・作中、糞を表現する描写が出てきます。苦手な方はお控え頂く事をおすすめします。
・全編で三万字弱あります。
・ハッシュタグにネタバレが含まれます。読後にご確認頂く事をおすすめします。

いつも我が監獄への来所、
誠にありがとうございます。

杜崎まさかず





 泥のように眠ったら、泥になってしまった。
 昨日の寝入りはまるで気絶だった。僕とシフトが入れ替えになるはずだった同じ工場の同じラインの貫田ぬきたさんが電話応答できないほど体調を崩したとかで、急遽穴埋めをする羽目になったのだ。おかげで、ベルトコンベアに乗って流れてくるパックに、長ネギとツナを塩だれで和えただけの惣菜を詰めること十六時間。労働基準の治外法権である閉鎖的な工場で、ひたすらに配膳し続けた。
 家路についた頃には、歩きながら八割寝ていたと思う。倒れそうになる体に鞭を打ってどうにか社宅のアパートに帰宅し、靴を履いたまま玄関に崩れ、泥のように丸一日眠った。
 で、起きたら、泥になっていた。
 玄関のカーペットに茶色く滲んでいて、それが胴体から漏れ出たものだと黒く濡れた作業着を見てわかった。脱ぐと、全身がその染みと同じ色で皮膚がどろどろとただれている。いや、溶けていた、の方が適切かもしれない。靴を脱ぐと、ごっそり、自分の塊が靴にへばり付いた。泥のようにぬらぬらとこぼれ落ちる自分の肉を掬っては体に戻しながら、べちゃべちゃと音を立てて洗面所に向かう。
 鏡を見る。泥のように、ではなく、泥だった。
 洗顔すると顔がなくなってしまいそうなので、何をするでもなく、ただ洗面所で呆然と自分の顔を眺めていた。
 奇妙だとは思った。しかし、さして不安に苛まれることはなかった。
 これからの生活をどうするかよりも、明日の仕事を休める口実ができた嬉しさの方が遥かに勝っていた。この体たらくなら、一日、二日の休養では済まないはずだ。嬉しい。大人になってから飛び込んだ夏休みである。
 とはいえ、工場にどう説明しよう。「起きたら体が泥になっていて。衛生服を着ているとはいえ、さすがに泥が食品を扱うのはまずいんじゃないかと思いまして」。いや、泥になった、と言って信じてもらえるわけがない。
 考えた末、仕方なく、この姿を工場へ見せに行くことにした。工場は社宅から徒歩十分程度。この状態でも行けない距離ではない。普段なら、職場が近過ぎて気が休まらないと恨んでいた距離だが、今ばかりは感謝した。
 靴は履かずにアパートを出た。また脱ぐときに体が減ってしまうし、足が汚れたところでどうせ元々汚れている。
 体がもったりしている。きっと前の人間の体の方が重かったのだろうが、地面に貼り付くので後を引くのだ。振り向くと、茶色い足跡が地面に鈍く光ってアパートに続いている。しばらくしたら、あそこの家主は泥だとか噂になるのだろうか。そしたら住みづらくなるのかな。きっと、良い風に取る人はいないだろう。有難がるのは、びっくり人間を紹介するバラエティ番組くらいか。もしそれで稼げるのなら、こんな人を人とも思っていない、いや今は泥なんだけど、こんな工場すぐに辞めてモンスターとして生計を立てていけるのに。
 泥の足跡が少しづつ地面に乾いていくのをぼんやり眺めながらとりとめのない思いを巡らしていると、アパートから茶色い毛だるまがのっそり転がるように出てきた。
 茶色と言っても、泥みたいに汚らしいものではなくて、褐色で稲を想起させるような鮮烈な光沢を帯びている。
 頭に耳が生えている。目に大きな隈がある。大根を膨らましたような尻尾が付いている。
 あれは、たぬきだ。二足歩行の。
「あれ、お前、土岡つちおかか。多分土岡だよな」
 狸が毛を揺らしながら指差して、嬉しそうに僕の名前を呼ぶ。
 狸のでっぷりとした腹と、腹に張り付くように押し出された『Doleドール』とプリントされたバナナ色のTシャツ、太く苦しそうな大声……よく見たら、見覚えがある。
 よく似た同僚を思い出して、泥の底から怒りが込み上げてきた。
「貫田さん、貫田さんですよね! 勘弁してくださいよ、昨日僕十六時間ネギ盛り続けて気い狂いそうにーー」
 泥の飛沫を散らしながら怒鳴っている内に、目の前の不思議に脳が追い付いて来る。
 貫田さん、何で狸になってるんだ。
「土岡、何でそんなにドロドロなの」
 貫田さんも同じことを思っていたらしい。そりゃそうだ。この姿を見て僕だとわかったことを褒めたい。
「朝起きたら、泥になってたんです。なんでしょうね、これ」
「泥は不便そうだなあ」と、貫田さんは腕を組んで唸る。
「そういう貫田さんは、何でそんなに毛むくじゃらなんですか」
「俺もお前と同じでさ、起きたらこんなんになってたんだよ。昨日電話で工場に仮病伝えたあとさ、何度か工場から電話あったんだけど、俺もう発泡酒飲んじゃってたから狸寝入り決め込んで出なかったの。そしたら、そのままマジで寝ちゃって、起きたら狸」
「仮病だったんですか」
 空咳に似た乾いた笑いが漏れた。
 電話応答もできないほどの体調不良、ってそういうことか。僕は同僚が真っ昼間のアルコールライフを微睡みながら謳歌するために、十六時間も工場の稼働音の中で自分の頬を叩いて、目を血走らせ、パートの愚痴を聞きながら延々とネギを詰め続けていたのか。後半の八時間なんかは、これだけネギと一緒にいるんだから意思疎通が図れるんじゃないかと思い、時々「調子はどうだい」と話しかけていた。ネギから「絶好調さ! 君の労を労ってあげたいよ! ネギだけにね!」と返ってきたので、相当疲れていたはずだ。
 泥が沸騰するような怒りが湧きあがってくる。大体、貫田さんにはこういうところがある。割を食った相手に対して、よくもいけしゃあしゃあと仮病を使って酒を飲んで寝てたなどと言えたもんだ。それだけ神経が図太ければ、生きるのもさぞ楽しかろうと時々羨ましくなる。第一、人生を楽しめていない人間は、バナナでもないのに『Dole』と書かれたバナナ色のTシャツ一枚で外には出られない。どこで売ってるんだ、そんなシャツ。
 その貫田さんですらズル休みをさせてしまうほどの工場ともなると、社会倫理の底が知れる。そもそも、昨日僕が詰めた惣菜は全国のコンビニの冷蔵棚に陳列されると言うが、あの何千個もの『ネギとツナの特製塩だれ和え』は無事売れるだろうか。少なくとも、近所のコンビニで手に取っている客は見たことがない。コンビニ側も売れないのがわかっているのか、いつも三つしか置いていない。そして、その僅かな在庫でさえ、たった二日の賞味期限を過ぎれば廃棄される。となれば、僕の十六時間耐久労働は虚無じゃないか。穴を掘って埋める作業と何ら変わらない。
 そうだ、空っぽな労働を強いる工場、ひいてはそれを命ずるコンビニが悪い。環境さえ整っていれば、貫田さんが仮病を使うこともなかったし、僕が人の倍働くこともなかったのだ。
 良いアイデアが思い付いた。僕は今、幸いにも、泥だ。工場の食品に泥を混入させるのは容易である。だって、僕は従業員なのだから。泥が混ざってた、なんて話になれば、あっという間に閉業だ。「泥ネギを使ってたんです」じゃ逃れられないだろう。
 いや、待て……体が泥なら当分休めるって考えてたんじゃなかったっけ。
「何をぶつぶつ言ってるの」
 貫田さんの言葉で我に返る。眠そうな顔で腹を掻いている。
「いや、工場を潰そうと思いまして」
 我に返っていなかった。
「物騒だなあ。もっと気楽に考えなきゃ。土岡も仮病使いなよ。あと親戚死んだことにするとか」
 貫田さんが穏やかに笑いながら僕の肩を叩いたら、ぴちゃりと泥が跳ねた。泥の付着した手の平を見て、心配そうに尋ねる。
「あ、泥、手に付いちゃったけど、大丈夫?」
「わからないですけど、そんな急に汚く扱われるの、ちょっとショックですよ」
「そうじゃなくて、これ多分、土岡の体減っちゃうんじゃない? 戻るの?」
 言われて気が付いた。そういえば、アパートを出てたったの数十歩でも、泥は足跡になって道に落ちていっている。当たり前だけど、人間の体は有限だ。ひとつしかない。泥が増えなければ、いずれ消滅してしまうのではないだろうか。
 貫田さんは自分の手にこびりついた泥をどうにか僕の体に戻そうと、指で体にこそぎ落している。しかし、毛に絡み上手くいかない。
「お前、雨の日とか、絶対外出ちゃだめだぞ。溶けて排水溝になんか流れたら、海までいっちゃうよ、海」
「気を付けます。風呂も入れないのか、嫌だなあ。誰よりも風呂入った方がいい体なのに」
「取り合えず、家戻ろうか。どんどん減っちゃうといけないから」
 そうしましょう、と同意しようとして、ふと思い出す。僕は工場に泥になった体を見せに行く途中だった。しかし、いくら近いからとはいえ、徒歩で往復したら更に泥は落ちて小さくなってしまうだろう。
「貫田さん、ズル休みのお詫びとして、僕が泥になってしまった旨を工場に伝えに行ってもらえませんか。貫田さんの狸姿を見たら僕が泥になったことも信じてくれると思うので。あ、写真とか撮っていきます?」
「工場行こうとしてたの? それなら休みだよ」
「え、そうなんですか」
 思わぬ吉報。休むと決めた日ほど工場に足を踏み入れて気を立てたくない。とは言っても、休んだところですることは何もないのだけれど。
「多分、当分は工場閉めるんじゃないかな。工場長、うなぎになっちゃったらしいから」
「鰻、ですか。工場長まで」
「うん、なんだかね。俺らだけじゃなくて全国的なことなんじゃないか、起きたら人間じゃなくなったの」
「さすが工場長ともなると、上等なものになれるんですね」
「いやあ、あいつ社員とロボットの区別もつかないような労働させる外道だろ。そいつに鰻なんて采配ミス、神様もしないと思うんだよな。多分さ、うちの工場って入口から裏口まで狭くて細長い造りじゃない。ほら、そういうの鰻の寝床って言うじゃん」
 アパートに戻りながら、その後も貫田さんは小難しいようで子供の絵空事のような理屈を訥々とつとつと続けていたが、どういうロジックで泥と狸と鰻になったのかはさっぱりわからなかった。ただ、僕も貫田さんも、恐らく通りすがったひとりふたりのご近所さんも、その突然変異には驚いていなくて、すんなりとそれを今日の日常として受け入れていた。
 玄関の老朽化したドアを開けると、洗面台と玄関を往復した僕の茶色い足跡ひとつひとつはもう乾いてひび割れた土の小さい山になっていた。
「きたねえ家だなあ」
「しょうがないでしょ。何触っても泥付いちゃうんだから」
「こっちのことだよ」と、貫田さんは鼻で笑い、ひっくり返ったスニーカーの片足を跨いで、口の開いたままのゴミ袋をつま先で突く。周りには僕がゴミ袋の口目がけて投げては外した、数日分のストロングゼロ缶が散乱していた。
「相当疲れてるみたいだな」
 確かに、そうか。毎日目にしていた光景が正常の生活模様ではないなんて、思いもしなかった。廊下の先にある居間兼寝室には何か月も敷いたままの布団が床に貼り付いていて、それを空のペットボトルやコンビニ弁当の容器、去年の夏から出したままの扇風機、封を切っていない役所からの通知の束などが取り囲んでいる。ただただ食べて寝るためだけの部屋。寝食さえできれば十分だと思っていた自宅は、冷静になってみれば、ほんの少し裕福な牢獄だった。それを、貫田さんに部屋を見られるまで気が付かなかった。汚さを指摘された恥ずかしさを、胸に隙間風が吹いたような虚しさが覆っていた。
 立ち尽くす僕を尻目に、貫田さんは廊下を進み居間に入ってテレビを点けた。
「一応、リモコンにビニール被せとくから」
 居間から呼びかけられる。直接触ると汚れるからという理由だろう。
 僕が玄関を上がろうとすると、貫田さんは「ちょっと待って」と肉球を見せ制止して、台所にある生ごみ用のビニール袋を廊下一面に敷き詰めた。これで廊下も汚れない。
「後でうちのビニールシートも持ってくるから」
 そう言いながら、ゴミを足で避けつつ、居間にもあるだけのビニール袋を広げる。仕事では見たことのない手際の良さだった。直前の負の感情なんて脆いもので、その優しさに、昨日の仮病に対しての怒りは微塵も感じなくなっていた。
 僕はせっかく敷いてくれたビニール袋に泥をなるべく跳ねさせないよう、慎重に居間に上がった。
「お手間かけてすみません、ありがとうございます」
「これで昨日のはチャラね。バナナ食べる?」
 穏やかに笑う貫田さんの手には、バナナの房があった。たわわなものが四本反り曲がっている。
「どっから出したんですか」
「ずっと持ってたよ。ほら、やっぱ疲れてんだよ」
 僕の返答を待たずに、一本もいで皮を手頃なところまで剥き、手渡してくれる。バナナなら持ち手が可食部に当たらないから有難い。
 テレビでは昼のワイドショーが流れていた。
 記者に囲まれている政治家が神妙然とした顔で一言謝って、そそくさとその場を去って行く。謝罪の言葉は「不徳のいたすところで、深く反省しております」。もうそれは政治家の鳴き声のようなものだ。つまり、いつもと変わらない光景。
 ひとつだけ違うのは、その政治家が『牛』だったことだ。
「貫田さん、牛が謝ってましたよ」
「牛が謝ってたな。朝からこのニュースばっかりだよ」
 貫田さんはそう言い終える前に、バナナを一口頬張る。大きな狸が目の前でバナナをもぐもぐと食べている。鋭い犬歯が剥き出ているからか、可愛らしさは全くない。食べる姿は想像よりも獣だった。
 貫田さんが咀嚼しながら言う。
「国会審議中に寝てた政治家たちが、起きたら軒並み牛になってたんだとさ」
「それでなんで謝るんですか」
「多分、寝てたからだろ」
 牛に変異したことに関心はないのだろうか。映像がスタジオに戻ると、ちょっと前まで仮装してホッケーばかりしていたタレントの司会が、眉間にシワを寄せて「牛になっちゃったら言い逃れできないよねえ」と、自分の三股不倫の過去を棚に上げながら世間を切るコメンテイターに話題を振った。
 議事堂が政治家の仮眠室なのは何十年も前からのことなのに、それをトップニュースに掲げて視聴率が取れるのだろうか。鰻が営む工場の作業員である泥と狸が牛の謝罪を眺めている、この状況の方が余程取り上げるべき問題のはずだ。
 しかし、ワイドショーは牛への変異を居眠りの証拠としか扱わず、そう思っている僕もそれに対して驚きは感じていなかった。
「なあ土岡さ」
 もう二本目のバナナを剥き始めている貫田さんが言った。
「また寝て起きたら、人間に戻れるのかな」
「どうですかね」
 僕はバナナにかぶりついた。何度か噛んで口が止まる。レンガを舐めているような味がする。恐らくこれが泥の味なんだろう。いや、味なのだろうか。匂いがただ口の中に広がっているだけのようにも感じる。甘味はない。口にしたバナナの断面には泥が付着している。
「戻れたら戻った方がいいんですよね」
「そりゃそうだろ。そんなに不便じゃ生活できないよ。俺だって、今は大して支障ないけど、多分不便なこと出てくるよ。酒が飲めない、とか。飲めないのは困るなあ」
「バナナは大丈夫なんですか」
 二本目を頬張りながら「美味いよ」と満足気に返す貫田さんが羨ましい。
 この調子だと、他の食材もきっと泥の味がするだろう。飲み物も泥水に感じるのか。嗅覚が生きていることを憎んだ。しかしーー。
「戻れなかったら戻れなかったで、どうにか生きていく方法もあるんですかね」
 僕の落ち着いた言葉に貫田さんがむせた。
「その姿で生きていくのは無しだろ。だって第一どうやって食っていくんだよ」
「テレビに取り上げてもらうとか。怪奇泥人間、みたいな」
「無理だろお。俺が狸で、工場長が鰻だからな。びっくり人間、俺らの周りでもう三人いるんだから、全国で考えたら山ほどいるはずだよ」
「そう、ですよね」
 正直、僕も狸姿の貫田さんを見た時点で察していた。泥人間としての見世物興行が難しいことは。何より、世間がこの変異に関心がない。
「寝て起きたら、やっぱ人間に戻ってるんでしょうか」
「それ、俺がさっき言ったやつじゃん」
 貫田さんがひげを揺らして笑う。バナナは既に無くなっていた。
 ニュースの話題は天気予報に変わっていた。人間のアナウンサーだ。夕方から台風並みの暴風雨らしい。
「お前、暇だからって夜に外出ないようにな」
「わかってますよ」
 不貞腐れたような声が出た。雨の日に外に出られないからじゃない。バナナが泥の匂いしかしないからじゃない。人間に戻れた方がいいのはわかっているのに、それを素直に飲み込めない自分に、ほんの少しだけ、戸惑っているのかもしれない。
「土岡、怒ってんの? 昨日のことまだ恨んでる?」
 貫田さんが僕の顔を申し訳なさそうに覗き込んだ。
「いや、全然、そんなんじゃないです。あの、バナナの味がちょっと」
 笑顔を作って適当な言い訳を返すしかなかった。自分でも感情の理由の整理が付いていないのだから。
「バナナ? 不味かったの」
「泥の味しかしなくて」
「うわあ、そりゃ不憫だなあ。ほら、人間に戻った方がいいに決まってるんだから」
 そう言いながら、僕の食べかけのバナナをおどけて奪い取り、ほぼ一口で平らげた。
 貫田さんの無神経さが時々、薬になることがある。
 でも、いつも多分多分と言う貫田さんが、決まってる、なんて言葉を使うほど人間に戻ることを勧めるものだから、僕のこの感情は僕ひとりでしか整理できないのだと、思い知ってしまった。
 別に悲しくはない。大体、人間に戻れるかどうかもわからないんだから。本当に、捕らぬ狸の皮算用だ。これ、貫田さんに言ったらウケるだろうか。
 それを言おうとするのを止めるかのように、居間に一つしかない窓に水滴がポツポツと吹き付けた。
 雨だ。予報よりも早い。
「降ってきましたね」と、触ることのできない雨を眺めながら呟く。
「おお、ホントだ、もうか。本降りになる前に俺、うちのビニール袋持ってくるわ。んで今日はさ、酒飲んで寝ちゃいなよ。美味いかはわからないけど、酔ったら寝られるでしょ」
 貫田さんは玄関に駆け足で向かう。その丸い背中に言葉を投げた。別に、気になっていたことではないけれど、何となく。きっと眠かったからだと思う。
「泥とか狸も夢って見るんですかね」
「寝るからには見るんじゃない? あ、泥は寝るのかな」
「寝ますよ。眠いですもん。さっき起きたばっかりなのに」
「そうか。それなら今日は人間の夢見るぞ」
 言葉はドアが閉まる音で切れた。
 入浴剤のテレビCMの音と、まだ静かな雨音が混ざったノイズが部屋に充満する。湿度が上昇したせいか、呼吸が泥臭い。泥になった自分の存在価値の無さをありありと証明する臭いだ。しかし、それは世間から見た価値、だと思う。僕個人の感じる価値は僕の中だけにしかなくて、それは世間の基準からしたら無価値、それどころか非難の対象にすらなり得ることである、気もする。もし、その異なる二つの価値のどちらか一方を選ばなければならない状況に面したら、僕はどちらを取るべきなのだろうか。
 もやつく頭を振ったら、泥が飛び散って壁が汚れた。
 居間の隅にひっそりと座る一人暮らし用の小型冷蔵庫に手を伸ばす。貫田さんの言う通り、酒を飲んで寝てしまおう。
 手が泥でも、ストロングゼロ缶のプルタブを開けるくらいの力は出せた。仕事終わりでもないのに、癖でごくごくと、一気に缶の半分を煽ってしまった。
「無味……」
 炭酸の泡立つ感触すらない泥水が、独り言を吐き出させる。
 毎日聞いていた大きなゲップの音が、人間だった名残に感じた。





 
 途切れない轟音と、棒になった脚。青いビニール手袋をはめた手は僕の意思とは関係なく、長ネギとツナをごま油で和えただけの惣菜をバットから掴んでは、ベルトコンベアに乗って次々と流れてくるプラスチックのカップ容器に移し続けている。
 工場長が別のラインで惣菜を盛り付けているパートを怒鳴っている。うるさい機械音の中でも聞こえるように声を張り上げているから、ヒステリックに喚いているように見えた。しかし、パートに言葉は届いていないようだ。その間も、容器は右から左へと流れ続ける。
 壁はいくら油や煤で汚れていても無機質に感じた。戦争映画だったかホラー映画だったかで見た、違法実験の被験者を収容する施設の壁がこんな感じだった気がする。
 それに四方を囲まれて、同じ動きを繰り返す。今日は夜勤だから、二十一時に出勤して翌朝七時に昼勤と交代の予定だ。食事兼仮眠休憩の二時間分を抜いて実働八時間という計算なのだろうが、ここ数か月の実働時間が十時間を下回ったことはない。
 隣で作業をするパートのおばさんが僕に愚痴らしきものを吐いている。
「ーー息子が煙草をーー夫が仕事でーー犬がうるさーーカレーが酸っぱくてーー」
 ほとんど何を言っているのか聞き取れない。僕は僅かに聞き取れたセンテンスを参考に適度に相槌を打つ。恐らく、相槌も聞こえていない。この環境下では仕方がないことだ。それなのに、時々、ちゃんと聞いているのかと怒鳴られて二時間聞き取れない説教をされることもある。
 衛生服とマスクで目元以外の顔が隠れているため、この人が誰なのかもいまいちわかっていない。僕は見知らぬ人と共に働き、見知らぬ人の愚痴を聞き、見知らぬ人に怒鳴りつけられているのだ。毎日、毎日、毎日、毎日、毎日。
 空の色もわからない密閉空間では、一台の壁掛け時計だけが過ぎ行く時間教えてくれる。そろそろ上がりかと思い時計を見上げたら、まだ出勤して二時間しか経っていなかった。
「ねえ、ちゃんと聞いてる!?」
 パートが耳元で大声を出す。今日も始まった。でも今日はラッキーだ。僕の隣に付くパートは例外なく全員僕に向かって愚痴を吐いて来るのだが、今日は背丈的に説教が短めの、愚痴を吐ければなんでもいいタイプのおばさんだ。
 これが、説教にエクスタシーを感じるタイプのパートの場合だとその日の疲れが倍になる。特に、おじさんのパートが危ない。根拠なく全知全能なので、「ーーは知ってるか?」と頻繁に聞き取れない質問を投げてくる。聞き返すと、それを僕の反抗と捉えるらしく不機嫌スイッチが入ってしまうから、「知らないです」と返すほかないのだが、そこからの『無知な若造に世の中の常識を教えてやろう特別授業』が長いのだ。それだけ偉そうに教鞭を振るうのだから、大層高尚で今にも役に立ちたくてうずうずしている知識を教えてくれているのだろうと思っていたが、一度質問が聞き取れた時には「ざるそばのスダレのところに挟まったそばをよ、きれえに箸で掴む裏ワザ知ってるか?」と言っていた。たまたまその一度だけが下らない知識だったはずだと、思うようにしている。
「ねえ!」
 先よりも鋭い声を飛ばされ、ごま油まみれになった手で肩を掴まれる。その力は、明らかに中年女性のものではない。
「聞いているの聞いているの聞いているの」
 前後に頭が揺さぶられる。それなのに、視線は依然としてパートの顔に定まって動かない。
「やってらんねえよ!」と、背後で金切り声を上げたのは工場長に怒鳴られていたパートだ。
「文句あるなら土岡に言え!」と、工場長がパートに悲鳴に似た大声を返す。これが、僕がパートの愚痴吐きの的となる仕組みだ。面倒ごとは工場長指示のもと、僕に回ってくる。
「聞いて聞いて聞いて聞いて聞いて」
 パートが針飛びしたレコードのように言葉を繰り返している。
 マスクを外しているわけでもないのに、パートから飛沫が飛んで来る。
 唾じゃない。泥だ。
「聞い聞い聞い聞い聞い聞い聞い」
 パートのマスクはどろどろと茶色く爛れて、素顔が露わになる。
 その顔は、人間の頃の、疲労で泥のように顔色が茶こけた、僕だった。

 キイキイキイ……。不快な金属音に目を覚まして、音の方に目をやる。開きっ放しになった玄関の朽ちかけたドアが、風に揺れて軋んでいた。
 橙色の日の光が差している。雨雲は過ぎ去ったらしい。
「いくら盗むモンないからって、鍵ぐらいかけてから寝なきゃダメだよお前」
 突然の声に飛び上がる。貫田さんが横であぐらをかいてバナナを頬張っていた。まだ狸のままだ。
「え、貫田さんなんで家にいるんですか。おはようございます」
「台風で、あ、台風ではないのか、暴風雨でドアぶっ壊れてたんだよ。俺が壊したんじゃないよ。おはよう」
 ボロな社宅だ。いつか寿命が来るとは思っていたが、強風一つで壊れるとは。
 眠い目をこすり、時間を確認したくてスマホを探す。探す手はやっぱりまだ泥で、枕元に見付けたスマホを触るのに躊躇して貫田さんに訊いた。
「今何時ですか」
「十七時半くらい」
「それじゃ昼間の内に雨雲いっちゃったんですね」
「何言ってんだよ、一晩中ザーザービュービューだったよ」
 貫田さんがひげを揺らして鼻で笑う。一晩中、って、まさか。
「僕、何時間寝てたんですか」
「一度も起きなかったの? それなら、昨日の昼前からだから……一日半か」
 本当に泥のように眠ってしまった。それでも、睡眠で潰れてしまった一日を疎ましくは感じなかった。こんなに長時間眠れたのは何年振りだろうか。
「そんなことよりさ」と、貫田さんが食べかけのバナナを丸呑みする。
「朗報だよ、朗報。それも特大ビッグスーパーサプライズだよ」
 のんびりとした目を爛々とさせて、寝そべったままの僕に顔を近付けた。不思議と獣らしい匂いはしない。
「人間の夢、見た?」
「見ました」
「多分恋しいんだな、人の生活が。戻れるぞ、土岡。人間に戻れる手立てを見付けた」
 鼻先が付きそうなほどの距離で、犬歯をギラりと光らせた。
 きょとんとしている僕に自慢げに続ける。
「狸だから見付けられたんだぞ。昼間商店街をブラついてたら、随分背中の丸まった爺さんとすれ違ってな。ジャケット羽織って、キャップ帽を深々と被っててさ。顔の半分マスクで隠してて、まるで何かから逃亡しているような具合の。まあ、風体はどうだっていいんだ。ともかく、その爺さんを捕まえて声をかけたんだな」
「そのお爺さん見付けたのと、貫田さんが狸なのと、何の関係があるんですか」
「嗅覚だよ。狸になってから視力は落ちたが、匂いにはかなり敏感になったんだ。後で調べてみたら、狸の嗅覚は人間には察知できないほどの匂いを感じ取れるくらいには鋭いらしい。そもそもイヌ科だしな」
 なるほど、それで原型を留めない泥の姿になった僕を、初見で僕だとわかったのか。
「んでさ、俺は爺さんが人間だってことがわかったのよ。人間の匂いがしたの」
 貫田さんは姿勢を直して鼻高々に胸を張った。
「でも、商店街で見付けたんなら、他にも人は沢山歩いていたでしょう。どうしてお爺さんにだけ声をかけたんですか? というか、何で声をかけたんですか」
「話の腰を折るなあ、お前は。土岡は寝ていたから知らないけど、俺が見た限り多分、この町の人は皆、既に何かに変異してるよ」
 頭を掻いて面倒臭そうに答える。貫田さんが予想した通り、この突然変異は全国的に広まっているらしい。
「ここまで話せば大体わかるでしょ、俺がその爺さんに声をかけた理由」
「ただ一人、人間だったから」
「そういうこと。何度も話遮るから結論まで時間食っちゃったじゃないか。今すぐにでも行きたいのに」
「行くって、どこへ」
「爺さんのところに、だよ。爺さんは人間に戻れる方法を知っているらしい。後は向かいながら話すから」
 貫田さんはそう言いながら家を出て、すぐにガラガラとアルミの板が震えるような音を立てて、横一線の鉄棒を押して、そのまま居間まで上がって来た。近くで見て、それがアルミ製の黒い小さなリヤカーだとわかった。
 ビニール袋が敷いてあるとはいえ、外にあったリヤカーで家に上がられたことに反射的に不満がこぼれる。
「ちょっと、タイヤ拭いてから上げてくださいよ」
「しょうがないだろ。これ以上歩いたら、お前本当に無くなっちゃうよ。爺さんところまでなんてもってのほか
「歩いたら無くなるから、って、僕がリヤカーに乗るんですか」
「そうだよ。その為に買ったんだよ、これ。新品だよ」
 貫田さんはしゃがみ込んで僕の周りの、液体に近くなった泥をかき集める。そして手の平一杯に掬ったところで、リヤカーに移す。
 僕は自分の胴体に目をやった。目を覚ましてから貫田さんばかり見ていて気が付かなかった。僕の体の多くはビニール袋の僅かな隙間から垂れ流れて畳に染み込んでしまっている。見渡すと、形あるものと言えば赤ん坊くらいの腕が二本、だけしか残っていなかった。両足の感覚はあるが胸部、胴体の泥と一緒くたになっていて、目視は出来ない。試しに歩こうとしてみたら、ナメクジの要領で泥の線を描いて這うで移動した。
「おい、あんまり動くなよ」
 心配そうに言う貫田さんの顎が頭上に見える。
「僕って今どのくらいのサイズなんですか」
「そうだなあ」と、貫田さんは両手を広げて空で縮尺を測りながら唸る。両手の間の幅は僕の想像よりも遥かに小さい。
「多分、サッカーボールくらいかな」
「え、それじゃドアノブにすら届かないじゃないですか」
「だからリヤカー買って来たんだろ。よし、そろそろ行くか」
 貫田さんは一通り僕の周りに流れ出た泥を移し終わると、そのサッカーボール程度しかない僕の塊を抱えるように掴んでリヤカーの黒いかごの中に乗せた。今日も着ている貫田さんのDoleのシャツのバナナ色が泥で汚れて、チョコバナナを思わせる。シャツにこびりついた形のある泥を丁寧に指でこそぎ取って、それもリヤカーに落とす。それでも、茶色い染みは胸の中心に残ってしまい、その大きさから僕の体が本当にサッカーボール大だと実感した。
 仕事以外の貫田さんは、いつもそのシャツを着ているように思う。愛着のある服を汚してしまった罪悪感がじわじわとせり上がって来た。
「シャツの染み、すみません。クリーニング代は出させてください」
「いいの、いいの。これ、家に同じのあと五着あるから」
 言葉通り汚れを気にする素振りはなく、貫田さんはすぐリヤカーを転がし玄関を出て、アパートの前の道を左に歩く。商店街の方だ。
 落ちかけた日が道沿いに横たわるようにして、まったりと差している。振り返ると、貫田さんと僕とリヤカーの影が縦に重なっていて、肩幅の広いスーツ姿のサラリーマンのシルエットのようだ。影が疲れて見えるのは、僕が仕事に疲れているからか、雨上がりの蒸した空気が夕日をねっとりさせているからか。それとも、僕が微睡んでいるからか。きっとそうだ、眠いからだ。あれだけ寝たのに、リヤカーに揺られる感覚が気持ちよくて、もう眠い。
「夕暮れじゃあ着く頃には真っ暗だな」
 貫田さんの言葉が眠気を覚ます。そういえば、ぼんやりしていてお爺さんの家がどこにあるのかも聞いていなかった。
「家、遠いんですか」
「三、四十分くらいかな。商店街を抜けて真っすぐ行ったら橋あるだろ。何て川だったかな、利根川の息子みたいな小さい川。そこを渡ったたら、斜め前のビルとビルの間に細い道があってさ……多分、地図見せた方が早いかも」
 貫田さんはどこからともなく出した手の平大の潰れた紙切れを僕に見せた。インクの線がミミズが這うように書かれている。右上の四角の中に太字で書かれた【うち】の文字だけは読み取れた。
「なんですか、これ」
「だから地図だよ。爺さんに書いてもらった。目悪いからあんまり読めないんだけど」
 視力の問題ではないと思う。僕も読み取れないので、一層不安になる。
「本当に着くんですか」
「着くでしょ、多分。まあ他にやることもないんだし、行ってみようや。人間に戻れるチャンスだよ」
「戻れるって言いますけど、どうやって」
「それがさ、外じゃ口外したくないって言うんだよ。人間ってこともバレたくない様子でさ。俺が声かけた時なんか、走って逃げようとしたんだから。とっ捕まえて聞き出したんだよ」
「そんな乱暴な」
「別に抑え込んだわけじゃない。なぜお爺ちゃんが人間なのか知りたいだけなんだって丁寧に力説したら、大人しく応じてくれたよ」
 とっ捕まえておいてどこが丁寧なんだ、との言葉を呑み込み大人しく貫田さんの話を聞いた。
「箱持って家に来いって」
「箱を?」
「うん、何かを入れて持って帰らせるらしい。密閉出来る箱なら何でもいいって。だからタッパー持ってきたよ。土岡の分もある」
 いよいよ怪しい。わからないことばかりだ。お爺さんはなぜ逃げようとするのだろうか。全国的にこの変異が起きているのならば、人間に戻れる方法を知っているお爺さんにとってビジネスチャンスにもなり得るはずなのに。逃げるどころか、公に明かした方が得なのに。
 しかし、それが本当の話ならば、だ。貫田さんは人間に戻れる方法を聞いたわけじゃない。
「騙されてるんじゃないですか」
 本心がこぼれる。貫田さんはひょうひょうと、リヤカーを押し続ける。
「気持ちはわかるけど、爺さんが人間なのは事実なんだから、話聞いてみようよ」
 確かに、実際に人間ではある。しかし、たまたま変異しなかったことを利用して、人間戻れる薬なんてインチキ商材を買わせる詐欺だってあり得る。箱はそれを持って帰らせるものなんじゃないか。それか、詐欺じゃないとすると、お爺さんが寂しさから話相手欲しさに誰かを招きたかったから、とか。
 逡巡している間に、商店街に入った。
 夕飯どきの商店街は活気付いていた。去年近所に乗り込んできた大型スーパーに負けんと、各店から威勢良くも温かみのある呼び込みが飛び交う。一昨日と何も変わらない光景。ただ、人間はひとりも見当たらない。
 肉屋では豚が、魚屋ではまぐろが、八百屋では南瓜かぼちゃが各々呼び込みをしている。店前で迷う婦人も、冗談を交わし笑う中年男性も、駄々をこねる子供も、人間の姿をしていない。しかし、誰もその姿に疑問を持つことはなく、まるで元から自分たちが人間ではなかったかのように見える。もしかしたら僕も、人間だった記憶は全部夢で、ずっと泥として生きてきたのかも、と錯覚してしまう。
「な。みーんな変わっちまってるだろ。思うんだけどさ、肉屋のおっちゃんは豚になっても豚肉売ってるけど、なんかこう、心痛まないのかな」
 振り返った貫田さんが僕を錯覚から覚ます。
「共食いってことですか?」
「言うなよ、わざわざ言葉濁したのに」
「見た感じおっちゃん平然としてますけど。それよりも、豚肉の豚は豚なんですかね」
「え、なに、どういうこと」と、振り返った貫田さんの瞬きが増える。僕はいやらしく返す。
「つまり、豚になった人間もいるってことは、売られてる豚肉の豚だって元は人間だったかもしれないじゃないですか」
「お前あんまり怖いこと言うなよ」
 貫田さんの足が速くなる。さっさと商店街から抜け出したくてしょうがないらしい。明らかに怯えている貫田さんの姿に噴き出す。豚に変異した人間がいたとしても、それが昨日今日で市販用の豚肉に間に合うわけはないのに。それに商店街を見る限り、倫理観は人間のままなのだ。そんなことをしたら、人間のルールのまま、立派な殺人として裁かれる。
 気の抜けた会話。人間の時と変わらない安心感。変化したのは形状だけで、心も頭も、人間のままなのだ。
 貫田さんが速足になったもんだから、商店街はあっという間に通り抜け、短い鉄橋まで辿り着く。もう日は落ち切っていた。
 古びた鉄橋は、リヤカーを転がすと振動が反響してゴトゴトと音を鳴らす。川では魚が水面を蹴った。野鯉やフナの多い汚い川だ。
「ここの魚も元は人間だったんですかね」
 丸い背中越しに見える星を眺めながら訊いた。貫田さんは口を尖らせて振り返る。
「どうせお前、魚屋の魚も元は人間だったんですよ、とか言うんだろ」
「言いませんよ。そんな怖かったんですか」
「別に」と、顔を隠すように前に向き直って話題を反らした。
「土岡の見た人間の夢、どんなのだった? 腹いっぱい米食う夢とか?」
「そんな、戦時中じゃないんですから。仕事の夢ですよ」
「仕事の? 俺出てきた?」
「覚えてないです。仕事の夢だったってだけですよ」
 正直、夢の内容は鮮明に覚えていた。でも、思い出したくなかった。僕にとって、あの夢は毎日見ていた悪夢だったから。日常がそのまま投影された、悪夢だったから、口に出したくなかった。
 貫田さんは「そっか」と返して、鉄橋を渡り終えると話を続けた。
「夢ってさ、起きた時にはほとんど覚えていないらしいね」
「そりゃ大抵は覚えてないもんですよ」
「そうじゃなくてさ、起きても強烈な夢だと覚えてるって時もあるじゃん。でもさ、それでも本当は夢の内容を十パーセントも覚えてないんだって。夢って本来はもっともっと長くて細かいものらしい」
 だとしたら、僕が見た悪夢は実際、その十倍もの長さだったということになる。起きて良かったと本当に思う。
「貫田さんはどんな夢見たんですか」
「バナナの海に溺れる夢だよ。実際はもっと沢山のバナナを食べていたんだろうな。バナナの雨とか降っていたかもしんない。全部覚えてないなんて惜しいな」
 幸せな夢だと良い風に捉えるのか。貫田さんの思考を羨ましく思うことが度々ある。
 気付けば、リヤカーは鬱蒼とした路地裏を迷いなく進んでいた。光の差す隙がほとんどない暗闇の小道の先を、僕は全く見ることができない。貫田さんが足を止めずに進めるのは、夜行性である狸の嗅覚なんだろうか。既にお爺さんの人間の匂いを感じ取っているのかもしれない。僕には、何度か角を曲がったであろう感覚しかわからない。
「着いた!」
 突然、貫田さんの声が上がったと思うと、リヤカーは豆電球のくすんだ灯りひとつだけが照らす巨大な業務用冷蔵庫の扉の前で止まった。扉のアルミが反射した光が周りの景色を微かに照らし出している。ブラウン管のテレビや大型エアコン、壊れた家電の数々が山になっている。スクラップ置き場、というよりは、不法投棄の掃き溜めだ。少なくとも、家の入口らしきものは見当たらない。
 貫田さんは迷うことなく業務用冷蔵庫の扉を大きく三度ノックした。その後すぐに、日に当たって少し水分が飛び固まった僕をリヤカーから剝がすように掬い上げて、扉の前に再び立つ。
 バスッと重い扉を密着するマグネットが外れる音がして、冷蔵庫の中から覗く人影が見えた。影は手だけを差し出して、中へ入れとモーションで僕らに伝える。
 爪の先までしわがれた五本指。その手は、明らかに人間のそれだった。
 貫田さんと抱えられた僕は、お爺さんが住居としている壊れた冷蔵庫の中へ上がる。冷気は感じない。奥には無造作に空けられた穴が五つ、六つあり、青白い月明かりが差し込んでいる。それが空気孔になっているらしい。
「物凄い臭いだな」
 貫田さんが僕に声を潜めて耳打ちする。僕には物凄い、とまでこぼす臭いが感じられない。泥だからか、変わらずに湿った泥の臭いだけが鼻腔に充満している。
 しかし、嗅げずとも、両壁に貼り付けられた電飾がクリスマス色に光るとその臭いの原因がわかった。
 お爺さんの風体は想像以上に汚れていた。雑巾のように古びたジャケット羽織っていて、色が飛んでるキャップ帽は所々布が剝がれている。マスクは唇に当たるであろう箇所が黄ばんでいて、いつから着けているものなのかわからない。その脇からは髭が茂って飛び出している。見るからに、浮浪者だ。
 そして、意外にも奥行きのあったその冷蔵庫の隅には、動物がいた。人間から変異したものではない、純粋な、四つ足で裸の動物。
 それは、バクだった。これも強烈な臭いの要因のひとつだろう。隣には衣装箱ほどの大きな桶に水が張られていて、人糞そっくりの黄色い糞が浮いている。バクのトイレだ。
 モノクロの毛色を見る限りマレーバクだろう。マレーバクは絶滅危惧種に指定されているはずだが、百歩譲って一般家庭が違法飼育しているならまだしも、なぜこんな浮浪者の元にいるのだろうか。
「煎餅布団しかないけど、まあ座んなよ」
 お爺さんが指し示す方向には、折りたたまれた段ボールが二つ並んでいた。いくら泥だからと言って、ここに座るのは躊躇する。第一、泥が染み込んでしまう。
 それを察してか、貫田さんは僕を抱えたまま段ボールにあぐらをかいた。お爺さんも向かいの木製の椅子に、今にも折れそうな脚を軋ませて座る。
「その泥の子が例の同僚かな。随分小さくなっちゃって。人間に戻りたいのかい」
「はい、戻りたいです!」
 貫田さんは僕の返答を待たず元気よく答えた。すぐにでも戻りたそうな声量だ。
 お爺さんは片耳を指で塞いで眉間にシワを寄せる
「そんなデカい声出すなよ、一応ぼくは隠れ身なんだから」
「お爺さんは何で隠れる必要があるんですか? 人間に戻れる方法なんてお金になるのに。こんな生活からもすぐに解放されますよ」
 僕はかねてからの疑問をぶつけた。詐欺である可能性を否定できるものはまだ何もない。
「望んだ生活なんだ。こんな生活なんて言わないでくれ」
 彼が僕を睨む目は、黄色く血走っていた。これは怒りの感情からの発色じゃない。僕はこの目の色をよく知っている。過度な疲労から来る体調不良のサインだ。
 お爺さんは帽子を外し、ざんばら髪を掻きながら「ごめんな、デカい声出すなって言ったのはこっちなのに」と謝罪した。
「でもね、他人が思う価値と、自分が思う価値は往々にして違うもんだよ。決めつけは良くない。ぼくは幸せだ、あの子のお陰でね」
 親指で示した先にはバクがいた。素知らぬ顔で横たわっている。お爺さんが振り返り、「ボー!」と呼ぶと、バクは耳をひくつかせた。
「ボーがぼくの幸せの理由でもあり、隠れる理由でもある」
 彼の顔は見えないが、温かい眼差しをボー、と呼ばれるバクに注いでいるのが語調から伝わる。しばらく、ボーを見つめて、お爺さんは向き直った。そして、隠れ身である理由を朗々と語り出した。
「もう何年前になるかな、ぼくが毎夜悪夢にうなされていたのは。
 その頃見る夢と言えば、仕事に追われるものばかり。見たくなくても見ちゃうんだ、それしかしていなかったから。何も激務だったわけじゃない。労働環境が悪かったんだな。人や場所、拘束時間……稼ぎは良かったよ。不眠不休で働いていたからね。しかし、その金を使う時間は皆無だった。趣味だとか女だとか、何か使うあてがあれば無理矢理にでも時間作って消費していたのかもしれない。でもさ、何もなかったんだよ、ぼくには。がらんどうだった。だから、仕事をする他なかったのかもな。曲がりなりにも、仕事をしていれば空っぽな自分でも社会的には価値を付けてもらえるから。
 そんな折だ。職場で死人が出た、過労死だよ。たまたま社員が持病持ちだったから、会社はそれを理由に過労の事実を隠蔽したがね。昭和気質の古い会社だ、労務管理はタイムカードだけ。アナログだから改ざんなんて容易なのさ。
 社員の死をきっかけに会社の腐敗にようやく気付いて退職、なんて発想には至らなかったよ。腐敗なんてとっくに気付いていた。気付いた上で働いていたんだ。それよりもぼくは、その事件のお陰でできた二日間の休みに困惑する気持ちの方が遥かに大きかった。先も言った通り、ぼくにはこれしかなかったからね。
 喜んだのは一瞬。いざ休日迎えてみれば、何をすればいいのかわからない。休みなのに、変わらず悪夢は見るし、変わらず出勤時間前には起きちまう。まだ日も昇っていない朝を迎えた瞬間から手持無沙汰なんだよ。
 ぼくはただ時間を埋めたくて、何か月も読まずに溜め込んでいた新聞を手に取った。新聞と言っても地方紙でね、大抵が地元の平和な情報ばかりだよ。どこそこの公園でチューリップ祭りがやるとか、近所の小学校が百周年を迎えたとか。それでも、読む以外に選択肢はなかった。何せやることがない。
 適当に手に取った新聞は三日前の朝刊だったかな、『バクの赤ちゃん誕生 男の子』とあった。家から二駅分も歩けば着く小さな動物園の小さな記事だったよ。パンダならこんな扱いはしないだろうな。別に興味があったわけじゃない。しかし、動物園に行けば一日くらいは潰せるだろうと、何の気なしに足を運んだよ。
 小さな動物園には、ゴリラもライオンもキリンもいない。いるのは猿と鳥、ふれあい広場のヤギやロバくらいなもんだった。そんな状態だから閑古鳥が鳴いていたよ。バクだって、折角新聞に載せたってのに、客は疎らで。
 だからよおく見えたよ、ボーの顔が。その赤ちゃんバクってのが、ボーだよ。
 寂し気でね、まるで動物園に囚われた自分の人生を自覚しているようだった。目は潤んでいて、今にも涙がこぼれそうでね。対して、親の方は動物園に慣れ切っているんだろう、諦めを通り越した虚無の顔をしていた。その顔を見てやっと理解したんだ、それが今のぼくだと。だから、ボー、いや当時はバク助と名付けられていたかな、まだ諦めを知らないこの子にそんな生涯を送ってはほしくないと思ったんだ。放っておけば、ボーも親のバクのように、僕のようになってしまうから」
 お爺さんの顔は語る内にほころんでいき、最後には母のような優しい表情で目を瞑った。
「じゃあ、つまり、さらったってことですか」
 言葉が口をついて出た。それ以外あり得ない。お爺さんがゆっくりと目を開けて返す。
「どうして攫ったとわかる」
「だって、マレーバクは絶滅危惧種でしょう。一般人に譲り渡すわけがない」
「泥の君、詳しいね。そうだよ、攫ったんだ、だから隠れている」
 お爺さんは依然優しい表情で扉を指差した。
「ちょうど、君らが押してきたようなリヤカーでね」
「リヤカーではバレるでしょう」と貫田さんが腕を組んで言う。僕は攫ったことを咎めようという気はなく、言い方から貫田さんも同じ感情だとわかりホッとする。
「それがね、バレなかったんだよ。いや、攫った後はその日のうちにバレて、ニュースになったがね。生まれた時にはあんなに小さい記事だったのに、事件になったら全国紙で報道さ。いつだって世間はそうだよ、善意には無関心で悪意には興味津々だ。
 話を戻そう。冷静であれば、リヤカーで攫うなんて手段取らなかっただろうに、悪夢にうなされ睡眠不足で、何よりボーを救いたい一心に燃えていたぼくはその日の帰りにリヤカーを買い、次の日に決行を決めた。理由は次の日に豪雨の予報が出ていたから。
 晴れの日で閑古鳥が鳴いていたんだ、雨の日、それも豪雨の中入園してくる客がいるわけがない。そして、そんな悪天候でも、バクは外に出ているという確信があった。バクは水辺の動物だ。雨を喜ぶ。
 ボーがいる場所が檻の中ではなく柵の向こうで良かったよ。誰もいない園内、堂々と柵を越え、ボーを抱えてそのまま茂みの中を闇雲に走った。茂み、というのは動物園を取り囲む竹林だよ。リヤカーで入園して、リヤカーで退園したら、さすがに受付に目を付けられてしまうからね。その茂みの果てにある塀を、前もって垂らしておいた紐はしごで上って、難なくボーと共に園外へ脱出した。
 外付けしてあったリヤカーにボーを乗せた時の表情を、今でも鮮明に覚えている。突然の出来事への戸惑いじゃなかった。親との別れを悲しむ顔でもなかった。親愛の顔。親バクには向けていなかった子供の慈愛の顔を、ぼくに向けていた。やはり自覚していたんだ、自分が囚われていたことを、そこから解放されたことをね。
 がらんどうだったぼくに、生きる価値、生かしたい価値が芽吹いた瞬間だよ。これを世では父性と言うのだろうか、共に来てくれたボーを護る為に駆け回って居場所を探した。家に戻るわけにはいかなかった、バクの体臭は強烈だ。それに数か月もすれば三百キロ超の隠しようのない巨体にまで成長する。しかし、街中ではどれだけこそこそしていたってリヤカーを押しているだけで目立ってしまう。だから、路地裏に身を潜めながらリヤカーがギリギリ通ることのできる道をなるべく細い方へ、細い方へと走った。道を抜けて、この掃き溜めが突然現れた時は神が味方をしてくれたんだと、涙が出たよ。つまりは、神がぼくのこの選択を肯定してくれたってことだからね。ボーと生かしたいと思った価値は正しかったんだ。
 その日は何年振りかにぐっすり眠れた。起きたら、ぼくを追う連中は動物園職員から警察に変わっていたよ。しかし、この場所、この冷蔵庫は一度も目を付けられたことがない。
 まだ神が味方をしてくれているんだ。守ってやるから、その代わりにボーを大切にしろと、かつての悪夢から解放された朝を平穏に迎えるたび言ってもらえている気がするよ」
 お爺さんはそこまで語ると、辿り着いた幸せを噛み締めるかのように長い長い溜め息をついた。
 沈黙、電飾の方から微かにバチバチと何かが弾ける音がする。目をやると、羽虫が灯りで遊んでいた。虫を焼き焦がすほどの熱力はなく、巡回してはぶつかるを繰り返している。夢中に遊ぶその姿が楽しそうに感じた。
 貫田さんは痺れを切らしたように、申し訳なさげに言った。
「あの、それで人間に戻れる方法というのは」
「ああ!」とお爺さんが膝を打つ。
「そうだよな、それ聞きに来たんだもんな。ごめんね、昔話始めると止まんなくて。年取るとダメだね」
 恥ずかしそうに笑う顔から、先程の疲れは見えない。無邪気で屈託のない笑顔。こんな風体なのに清潔感すら感じられる。心なしか顔色も良くなっている気がする。寵愛するボーとの思い出が満たしてくれた心が、輝いて表出しているのだ。
 苦笑いを返す貫田さんに、他に人はいないのに声を潜めて言った。
「箱は持ってきたかい」
「はい、タッパーで良かったですか」と、貫田さんはまたどこからともなくタッパーを二つお爺さんの前に出した。毛に隠せるのだろうか。
「十分、十分」
 お爺さんはボーの方に行き、僕らを手招いた。従って、貫田さんは僕を抱えて向かう。
 空気孔から差す月光に照らされたボーのトイレがある。お爺さんはそれを指さした。
「これだよ」
「これ、って、糞ですか?」
「そうだよ」
「糞、がなんですか」
「食べるんだよ」
 貫田さんがぎょっとした顔をして、すぐにかぶりを振る。動きから、糞を食べる屈辱や苦痛と、待ちかねた人間に戻れるチャンスを一瞬で天秤にかけたのがわかった。息を呑んだ音がした。
「これを食べれば、確実に戻れるんですか」
「うん、確実だよ」と返すお爺さんの目は真っすぐだ。
「どうして確実だと言えるんですか」
 僕が口を挟む。信用しかけた気持ちが、食糞という異質過ぎる手段を聞いて崩れかける。詐欺とまでは言わずとも、若者二人を茶化したイタズラなんじゃないか。
「ぼくが戻れたからだ」
 お爺さんが真っすぐな目をそのまま僕に向けて言う。
「君らと時を同じくして、ぼくも朝起きたら変異していた。小鳥になっていた。恐らく文鳥の類だと思う」
「鳥なんていいじゃないですか。大空を飛ぶなんて誰しもが一度は見た夢ですよ」
「そりゃあ空を安全に飛べたら気持ちいいだろうさ。でも、小鳥じゃあ猛禽類の恰好の的だよ。それに何より」と、ボーに目をやる。
「この子に飯を食わせてやれない」
 ボーを挟んでトイレの向かいには、林檎や人参の破片が転がっていた。確かに小鳥の力で運ぶのは難しそうだ。
「それで人間に戻る方法を知っていたお爺さんは、すぐに戻る選択をした、と」
「いいや、戻れたのは偶然だよ。空には外敵が多過ぎて怖くてね、ここでじっと元に戻る方法を考えていたんだよ。勿論何も浮かばない、が、腹は減る。ボーの飯は大方片付いた後だったもんでね、それしか食べるものがなかった」
 貫田さんはお爺さんが示す方を見て、すぐに目をそらす。蚊の鳴くような声で、食べたら戻れる、食べたら戻れる、と何度も唱えている。僕を抱える腕が力んでいるのが伝わる。
「満腹になったと思ったら、人間に戻ってたよ」
「糞を食べたら、ですか」。言葉尻の声が萎む。メカニズムを理解しようという気はもうない、人間が変異している原因すら不明なのだから。しかし、現時点の救済の唯一の手段が、食糞、ということを脳が呑み込んでくれない。
 お爺さんは僕らの表情を見て穏やかに、何かを察したように数回頷いた。
「無理に食うもんでもないよ。今日は一旦帰ってゆっくり考えてもーー」
「いえ! 食べます! 食べさせてください!」
 途端、貫田さんは言葉にならない叫び声を上げながら、ボーのトイレに手を突っ込む。黄色い飛沫が上がり、トイレに大きな波が起きた。いくつかの糞が桶から流れ落ち、貫田さんが手を伸ばした瞬間地面に落ちた僕の頭にもひとつモノが付着する。糞を手掴みしたその感触が気色悪かったのか、貫田さんは「ひい!」と悲鳴を上げて、突っ込んだ時よりも素早く手を引っ込めた。糞は手放していた。情けない。
 一足遅く、お爺さんが貫田さんを慌てて制止する。
「急ぐな、まず手を洗ってこい、外に蛇口があるから。食べるのは違う糞なんだよ」
 それを先に言ってよとかなんとか、ブツブツ吐きながら貫田さんは涙目で外へと向っていった。お爺さんは泥である僕を躊躇することなく抱え上げ、頭上の糞を払う。
「怪我はないかい」と優しく声をかけてくれる。その一声で、なぜ僕が彼の話をずっと聞き続けていられたのか、わかった気がした。彼の声には馴染み深さがある。それも幼い頃から何度も聞いたことがあるような。
 そう感じたせいか、気恥ずかしさが込み上げ「平気です、泥なんで」と素っ気なく返してしまった。
「そうか、良かった。しかし相方さんは相当人間に戻りたいんだね」
 声を聞く度、むずむずする。よく分からない恥ずかしさから逃れたくて、咄嗟に話題を変える。
「食べなきゃいけないのは糞じゃないんですか」
「糞は糞だけど、違う糞なんだよ。これは林檎や何かのモノ。食べるモノはこれから出てくる」
「これから?」
「うん、ボーが君たちの夢を食べてからだ」
「それって、つまり」
「そう、夢の糞だよ。紫色に光る糞だ」
 信じられない。バクが夢を食べるなんて伝説は、日本人なら誰しも幼い頃から耳にしてきた周知の作り話だ。しかし、お爺さんの表情や語調から嘘の気配は微塵も感じられない。それに、イタズラなら夢の糞なんて話を重ねる理由がない。第一、食べなくてもいいとまで言っているのだ。
「信じろって言う方が無茶だよな」
 僕の混乱を察して、お爺さんが呟いて溜め息をつく。長い溜め息だった。それはボーの話を終えた後のものよりも長く、体中の空気が全て抜けてしまうのではないかと思うくらいの溜め息。悲哀に満ちた色の溜め息だ。
 しかし、その悲哀が信じてもらえない切なさから来るもの、ではないことが、なぜだか僕には、手に取るように分かった。
 貫田さんがいない内に、その溜め息の源に訊きたいことがあった。
「人間に戻れて、良かったですか」
 電飾にぶつかり飽きた羽虫が、冷蔵庫の空気孔のふちに止まる。月明かりに照らされた羽虫の影は大きく、お爺さんの顔を暗闇で覆った。それは一瞬の出来事で、すぐに羽虫は静寂の中で羽音を響かせて外へ飛び去っていってしまう。
 貫田さんが外の蛇口で手を洗う音だけが微かに聞こえる。
「良かったよ、もちろん」
 嘘だと思った。お爺さんはボーの世話が再び出来ることを安心したし喜びもしただろう。でも、人間に戻ったことを良かったと感じる心とは別だ。だって、それはーー。
「お爺さんは人間である自分が嫌いですよね」
 彼は目線を落して、また僕に目を向けた。柔和な表情のまま、見つめる。
「どうしてそう思う」
「僕も人間だった自分が嫌いだからです」
 僕は、人間に戻りたい一心の貫田さんの前では言えなかった言葉を、吐き出した。
 お爺さんがボーと出会うまでの過去は、ほぼ僕の、泥になる前の人生そのものだった。何もないから仕事に明け暮れ、何もないから酒を飲んで寝て、何もないからまた出勤をした。世間的な価値付けで自分を誤魔化して、僕が思う価値を探すことから目を逸らし続けていた。
 僕はまだ、僕が思う価値が何なのかは明確にはわかっていない。でも、泥になって明らかになったことがひとつある。
 世間的な価値なんて、毒だ。毒に囚われていた僕が、人間だった頃の僕が、大嫌い。
 お爺さんは、僕の言葉を味わうように目を瞑って、少しだけ頬を緩ませた。言葉はない。でも、その優しくも切なげな表情が、答えだと思った。
「しつこい汚れでした。これ多分、臭い何日か落ちませんよね」
 貫田さんが文句を垂れながらバタバタと帰って来た。手の毛に付いた水滴を飛ばしながら歩いて来る貫田さんは、まだ半ベソをかいている。「いやあ、さっきはごめんな」と片手で謝罪をして、お爺さんから僕を受取る。水滴が冷たい。
「冷水に触ったら頭が冷えました。人間に戻れる方法を教えてください」
 貫田さんが全く冷静になっていない口調でお爺さんに頭を下げる。
「夢の糞を……まあさっき泥の子に話したからいいか。君は早く戻りたいみたいだし」
 お爺さんは先程まで座っていた段ボールを広げて、さらに段ボールを重ね厚みを作る。続けて、その端に皺だらけの週刊誌を何冊も重ね雑巾のようなタオルを被せる。一応、布団と枕のようだ。
「まず、ここで寝てもらって、ボーに夢を食べてもらおう」
「夢を! バクって本当に夢食べるんだな」
 貫田さんが興奮した口調で僕に囁きながら、待ってましたとばかりに僕を抱えたまま急いで段ボールに横たわる。そしてすぐ「寝れるかな」と起き上った。何だか、ここに来てから貫田さんがどんどん馬鹿になっていっている気がする。
「夜は長いから、眠くなったら寝ればいいさ」
 そう言って笑いながら、お爺さんがカビたタオルケットを持ってきて貫田さんの足元に置く。この環境下で眠るのは、体内時計以上に衛生的に心配だ。
「糞は食べなくてもよくなったんですか」と貫田さんが訊く。
「いや、食べるよ。夢の糞が出てくるから、それタッパーに入れて持って帰って。自分のタイミングで食べな」
 貫田さんの安堵は束の間、一瞬にして表情が引きつる。夢の糞言えど、食糞は嫌らしい。僕も嫌だ。しかし、忙しく今度は表情が明るくなり、お爺さんに聞こえないよう僕に耳打ちする。
「俺たちの夢の糞をさ、高値で売れば儲けられないか、これ」
「自分の夢の糞は自分で食べなきゃダメだよ。前に穴から入り込んできたネズミがぼくの夢の糞を食べたことがあってさ、そのネズミも人間に戻ったんだよ。だが、その姿はぼくだった。どうやら、その夢の主の姿になるらしい。悪巧みはできないね」
 お爺さんの笑い話に、貫田さんが舌打ちをして悔しがり不貞寝する。その話によれば、つまり人間には戻るけど、自分自身に戻ったのかはわからないのかもしれない。姿形が同じなだけで、それが元の自分なのかはーー貫田さんが横になった瞬間、睡魔が襲ってきた。泥になってからうっすら眠い状態が続いていたが、この急激な眠気には堪えられそうにない。貫田さんのふかふかの獣毛に包まれた狸腹がクッションになっているからなのかも。
 お爺さんは椅子に腰を下ろし、子供の寝かしつけにお伽噺を読み聞かせるかのように、一人語りを始めた。その眼差しは僕に向けられていて、二人で話した時と同じ表情に戻っている。

「さっき、神がぼくの選択を肯定してくれた、って話をしたね。人間に戻るためには、糞を食べないといけない。これもきっと、神からのメッセージだと思うんだ。人間に戻るというのは、苦渋にも辱めにも耐え、自尊心を捨てて生きることだと、そう伝えようとしてくれているんだ。これは警告だよ。これ以上、泥の君やぼくが選択を間違えないためのヒントさ。だが、狸の子のように人間に戻りたいと思うのが、世間的な、一般的な望みだろう。惑わされないようにね、君は君の中だけにある価値に正直にーー」



 見たはずの夢は、一切、覚えていない。



 路地裏の細道は道を挟むビルが空を遮断して薄暗かったが、そこを抜けると朝日が昇りかけているのがわかった。長い間暗がりにいたせいで、白み始めた空ですら眩しく感じる。
 転がるリヤカーの振動で、二つのタッパーの中で水に浮かぶ糞が揺らめいている。色は紫だ。
 貫田さんは行きと違って、とぼとぼとした足取りでリヤカーを押す。寝起きだからだ。
「なあ、土岡は夢見た?」
 不意に僕に背中を向けたまま問いかける。
「どうでしょうね、覚えてないです。あ、これはホントに」
「ホントにってなんだよ」
 そういえば、貫田さんには仕事の夢を見たことも、あまり覚えていないと誤魔化していたんだった。思い出して、口ごもる。
 鉄橋に踏み入れた。川の果てには僅かに地平線が覗き、まだ姿の見えない朝日が光だけを伸ばして空にグラデーションを作っている。所々で魚がパチャパチャと水で遊んだ。すると、そこから静かに波紋が広がり、薄くなって消えた。
 二人とも朝ぼけしたまま、中身のない会話が空気に混じって流れる。
「俺も夢、見たのかなあ。全然覚えてないんだよな」
「ボーが食べてくれたんじゃないですか」
「あれってさ、マジなのかな」
「あれだけ熱心に信じてたのに今更疑わないでくださいよ」
「でも、実際色は紫だしな。普通の糞とは違うんだろうね。まあ食べてみりゃわかるか多分」
「食べるんですか?」
「食べなきゃしょうがないだろ。戻れる方法、今んところそれしかないんだし」
 鉄橋も半ばまで差し掛かる。短い橋の中腹。貫田さんはリヤカーから手を放し、黒いアルミの籠に腰かけて川を見つめる。僕もそれに合わせて、体を光る川の方に向ける。
「ちょっと休憩。久々にあんだけたっぷり寝たら、なんか疲れちゃった」と、またもやどこからともなくバナナを一本取り出した。
「寝たの七時とか八時でしょう。十時間はぐっすりだったんじゃないですか」
「これも、バクが夢を食べてくれたお陰なのかねえ」
 貫田さんはまだ眠たげな眼でバナナを一口頬張りながら続けた。
「バクも寝るのかな」
「生きてるんだから寝るでしょうね」
「じゃあさ、バクって夢見るのかな」
「寝るからには見るでしょうね」
「どんな夢見るのかな」
 日が落ちる時と昇る時の速度は速い。川面から日が頭を出したと思うと、目視できる速度で川にみるみる光を漏らしていく。
 バクが見る夢なんて考えたこともなかった。返答を考えている内にも、日は昇り続ける。
「案外俺らの夢を代わりに見てくれていたりしてな。その食った夢をさ。夢の代打」
 冗談交じりに言う貫田さんの説は、妙に腑に落ちた。だとしたら、あの悪夢をバクが、ボーが代わりに見たことになる。それは不憫だ。他のバクならわからないが、恐らくボーは人間ではなくとも、僕の夢がストレスフルなものだと感じ取れただろう。
 ボーは人間の感情を理解している。語り口や表情から察するにお爺さんはそれを確信していただろうし、だからこそ僕も確信した。
 だって、お爺さんはきっと、僕のこれからの選択の先にいる人なのだから。僕が自分に正直な道を辿れば、その先にはお爺さんがいるだろうから。
 お爺さんは人間の形をしているだけで、人間をやめていたんだと思う。それも、変異が起きる前に。ボーと出会った瞬間に、世間的な価値を捨ててボーの親になった時点で、お爺さんは大嫌いだった人間から脱したのだ。
僕は逆に、姿は人間ではなくなったが、心は人間のままだった。だから、仕事の悪夢にうなされたんだ。世間的な価値に絡めとられて、こんがらがり、人間に戻りたくない、なんて言葉も言えなかった。それを認めていいものかさえ、わからなくなっていた。
 しかし、僕の先に立つお爺さんは、正直な選択をして幸せになった。そして、幸せそうだった。人間だった頃では決して浮かべられなかっただろう笑みを見せてくれていた。
 あれが僕の探していた、命を費やせる人生の価値、なのだとわかった。
 僕は、僕にとってのボーを探しに行く。
「あ! 何してんだよ、もったいない!」
 貫田さんが咄嗟に立ち上がったその横で、僕はリヤカーの中から手を伸ばして、自分のタッパーの中身を川に捨てていた。
 紫色の光沢が次々と川に落ちていく。朝日を反射する糞は宝石のように輝いて見えたが、全く惜しくはなかった。
 貫田さんが橋の欄干に手をかけ、糞の落ちて行った方向に「ああ」と喘いだ。そして、振り返った貫田さんが焦った顔で問う。
「まさか、俺の分じゃないだろうな」
「大丈夫です、ちゃんと僕の分です」
 貫田さんはホッと胸を撫でおろして、溜め息交じりに続けた。
「土岡、泥のままでいいのかよ」
「はい、僕は……信じてもらえないかもしれないですけれど、今のままの方が幸せです」
 言葉に出せる、貫田さんに言えると思っていたけれど、いざ言葉にしたら声が震えた。まだまだ人間らしい。胸を張って言える勇気はなかった。泥である僕を介抱するかのように手を焼いて、リヤカーまで用意してくれた貫田さんに、非難されるかもしれない。朝になって更に小さくなった僕を、惨めに思うかもしれない。でも、やっと言葉にできて良かった。
 日の光が水の上、魚が起こした波紋で踊る。空はもう、赤かった。昨日家を出る時に見た夕焼けと同じ色だ。違うのは、感触。日がさらさらとしている。
 貫田さんが目を大きく開いて僕を見る。しばらく、僕と貫田さんの間を風が吹き抜けたら、貫田さんが我慢できずに噴き出した。犬歯を見せながらケラケラ笑っている。
「なんだよ、お前どんな気持ちで爺さん家訪ねたんだよ」
 いつも見る貫田さんの和やかな顔だった。
「もっと早く言ってくれりゃあ無理に付き合わせたりしなかったのに」
 貫田さんは笑い上擦った声で言う。涙目になるほど笑っているその姿を見て、僕は恥ずかしくなる。でも、その反応が僕の荷を下ろしてくれる。
「そんなにおかしいですか」
「だって土岡、流れで糞食うところだったんだぞ。とばっちりもいいとこだろ」
「すみません。僕でもわからなかったんです。人間に戻りたくない僕は正しいのかって。きっと、世間的には戻りたい貫田さんの方が正常で僕は異常なんです。でも、お爺さんと会って、やっと言えるようになりました。世間的な正しさは必要なくて、僕の正しいと思うことを優先するのがーー」とまで言ったところで、貫田さんの手が言葉を跳ね除ける。
「難しいことはわからん。要は工場で働く生活に戻りたくないんだろ。ありゃあ酷いところだよ、あんなところに居続けたら精神が毒に侵されて自分が何なのかわかんなくなる。でもな」
 貫田さんは、僕の泥の頭に手を置いた。貫田さんの手の平に入ってしまうくらい小さくなった僕の頭に。
「それが世界全部だと思うな。工場とか一部の世間が毒でも、俺はお前の毒じゃない」
 泥の滑った感触の中で、貫田さんが僕の頭を撫でたのがわかった。
 僕は、気付かない内に貫田さんまでも勝手に毒にしていたんだ。それがよくわかって、情けなくて、泣けてきた。
「多分な」と、こんな時におどける貫田さんは無神経だ。図太くて、空気が読めなくて、仕事を休んで酒を飲むような、いつもの貫田さんだ。だから、救われるんだ。
「シャツのクリーニング代と飯代、出させてください」
 涙声を悟られないように、小さく言う。
「だから、いいんだって、汚れなんて。家に何枚もあるから。飯は奢ってもらうけど」
「前から気になってたんですけど、その『Dole』のシャツ、どこに売ってるんですか」
「え、欲しいの?」
「いりませんよ。服屋で見たことないんで」
「そりゃそうだよ、非売品だもの。一枚あげるよ」
「いりませんって」
 何てことない会話の中で涙は引っ込んだ。体は人間ではないけれど、日常の楽しい部分だけが戻ったような気がした。
 バシャバシャバシャ。会話を連続する激しい水音が遮る。二人で川に目をやる。昇り切って、輪郭がくっきりした朝日。それが赤く照らしているのは、魚ではなかった。
 川から肩を出す、おびただしい量の裸の人間。男性で、顔はーー僕だ。
「土岡の大群だ!」
 奇妙な光景に本能から怯えている絶叫を上げて、貫田さんはリヤカーの持ち手を取るとすぐに走り出した。
「やっぱりあの魚も人間だったんですね」
 対して、僕は冷静、というか貫田さんが僕に怯え逃げ惑う姿がおかしかった。
「人間だったんですねって、気色悪いだろ」
「失礼な。僕の顔ですよ」
「なんでお前が繁殖してるんだよ」
「川に捨てた僕の夢の糞を食べたからですよ。でも、これで糞の効力が証明されましたね」
「そりゃ良かったけどさあ。ああ、今夜夢に出るなあ」
 リヤカーを激しく転がす貫田さんの背中は、恐怖で縮こまっても、大きく見える。
 僕になった魚たちの顔が満足気だった。それは、久しく見ていなかった自分の笑顔だったから、きっとこの選択を神が肯定してくれたんだと思えた。



◆ ◆ ◆



 
 目がさめたのは、いっぱいふる雨がつめたくて、じゃなくて、夢をたべおわったからなんだ。それでも、おなかはへるの。夢はカロリーにはならないんだよ。
 ここは、どうぶつ園からどのくらい離れてるんだろうな。まわりには、草がたくさん生えていて、向こうがわでは川がながれてる。今夜はとってもつよい雨がふっているから、すごく流れがはげしそう。でも、いまは橋のしたにいるから、雨にあたらずにすんでるんだ。

「ああ」

 眠りからさめたお兄さんが背のびした。服はどろまみれで、カオとかカミにも飛びちってる。それを見てるこの黒いてつのカゴみたいなものの中まで、その土のにおいがただよってくるくらい、どろんこ。雨のなか、草木のなか、いっしょうけんめい逃げてくれたもんね。

「おはよう。もう真夜中か。ちょっと休憩するつもりが随分寝ちゃったな」

 お兄さんの目は、おかあさんやどうぶつ園のひとたちよりも、ずっとやさしい。

「目を閉じて開けたらもう夜だったよ。こんなに寝たのは何年振りだろう。動物園からリヤカーで全力疾走だもんな。そりゃ疲れてこれぐらい寝ちゃうか」

 どうもこっちに語りかけてるみたい。ことばを返せなくてごめんなさい。なにを言っているかは伝わってるよ。

「いや」と、お兄さんがほほえむ。
「君のおかげ。バクは本当に夢を食べてくれるんだね。ありがとう」

 お兄さんはみた夢なんておぼえてないよ。食べちゃったんだもの。でも、そのことばが出るってことは、きっといままでもずっと悪夢にうなされて、たっぷり眠れなかったんだろうな。
 お兄さんはおもいだしたように、黒いてつのカゴのはしっこにころがるバナナのふさを取ったよ。

「ごめんね、僕が寝てる間、何も食べてないもんな。お腹空かせちゃったね。バナナならバクも食べられるはず」

 ふさから一本もいで、いそいで皮をむくお兄さん。ふいにピタッてその手がとまった。バナナの皮を、穴があくほどジッと見てる。なにか見つけたのかな。虫かなにかかな。

「なんだ、これかあ」

 お兄さんはとつぜん、おでこをおさえて笑い出したんだ。いいものでも見つけたのかなってよーく見てみたら、皮にしかくのシールが貼ってあった。もじまではわからないけど、しゃしんは見えたよ。なんだろう、Tシャツのしゃしんかな……。

「貫田さんから何度もバナナ貰ってたのに全然気付けなかった。やっぱ疲れててたんだな」

 皮をぜんぶむいたバナナをお兄さんがくれた。幸せそうなカオ。そのシャツをよっぽど見たかったんだね。
 バナナがすごくおいしい。どうぶつ園で食べるよりもずっとおいしく感じるのはなんでだろう。
 ほかのバナナをぜんぶむいて、黒いてつのカゴの中においたら、今度はお兄さんがあたまをなでてくれる。
 なん回もなん回も、なでてくれる。お兄さんの手のねつがぴったりわかるくらい、ずっとなでてくれる。どろのにおいの中からお兄さんのにおいが伝わって、あんしんする。

「価値、か」

 そう言ったお兄さんの目はうるうるしてた。
 それをごまかしたかったのかな、お兄さんは早くちでべつの話をし出したよ。

「名前を付けよう。バク助なんて名前は捨てて、僕と君だけの新しい名前をさ。そうだなあ、君は男の子で僕の坊やだからーー」

 話をお兄さんの大きなあくびがじゃまする。とろんとした目がまだねむそう。

「まあ、もう一回寝てから考えよう」

 お兄さんはどろだらけのクツをぬいで、黒いてつのカゴの中まであがってきた。そこで、うでをまくらにして横になったんだ。

「おやすみ」

 お兄さんがほっぺをなでた。
 お兄さんがはいったらせまくてギュウギュウなのに、フシギとくるしくない。
 すぐに寝いきが聞こえてきた。お兄さんの言うとおり、つかれていたんだよ。今日も、昨日も、いままでもずーっと。あんな夢見るくらいだもん、ニンゲンは生きるのがすごくたいへんなんだろうな。
 せめて、今日だけでも、悪夢を食べさせて。できたら、これからも。なでてくれたお礼に。

 おやすみなさい、どろぼうさん。




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【罪状】不当表示防止法違反

肉屋の豚のおっちゃんが、海外産の牛肉を純国産として販売していたため。

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