【掌編小説】人魚の子供
スカイスタイルの地上げを強行しよう。
海の一角を、10 メートル四方の玉虫色のネットで囲い、虹色に着色した無数のイグアナを放流させている様を前に、そう決意した。
ハワイの海は、地球に胎動する巨大なガラス細工のようだ。そこに空の涙が落ちて、淡い碧を纏っている。何十回と見てきた光景。その度に、社長業というしがらみの多い日常のストレスを浄化され
てきたが、まさか、この光景に苛立ちを覚える日が来るなんて思ってもみなかった。
浜辺で怒りに震える私に気付いていないのか、ツアーコンダクターの峯村は高揚気味に、この粗末なイグアナ掴み取り体験ブースの紹介を始める。
「ようやくレインボードラゴンと触れ合えますよ。真木野様の姿を見て、ドラゴンたちもはしゃいでいるのがわかります。真木野様の麗しい水着姿に色めいている子も何匹かいらっしゃるんじゃないかしら、ふふっ」
どうして 46 歳にもなって、赤褐色のビキニなど選んできてしまったのだろう。きっと、2 年ぶりに会う 20 歳の娘に、まだまだ母は若く元気だと見栄を張りたかったのだ。今思うと、恥ずかしさが頭をもたげる。
大体、どうしてイグアナがハワイの沖にいるんだ。その上、虹色に着色されて。縁日でカラーひよこの屋台を前にしているような気分になった。ビキニ姿であることが、さらに惨めさを際立たせる。
「だってよママ。新しいの買ってきてよかったね。もう入っていいんですか」
隣で娘が峯村にはしゃぐ。何が新しいの買ってきてよかった、だ。イグアナを興奮させるために着たわけじゃない。
「ええ、どうぞ。あ、ただ、お耳のピアスなどは外された方が良いかと。レインボードラゴンは見ての通り、大きいものは尻尾を含めて 1 メートル近くありますから。抱えた時に暴れられて、ピアスが壊れたり外れたりするといけませんから」
娘は峯村の喚起を素直に受け入れ、ほとんどナットにしか見えない両耳のピアスを 8 つ外した。
2 年ぶりにホノルル空港で再会した娘は、体中がピアスだらけになっていた。耳、鼻、口、舌、へそ……話によると、ラビアピアスも開けているらしい。バックパッカー中に出会ったボーイフレンドの影響だそうだ。彼は肌の色よりもタトゥーの方が多いと言っていた。だったらピアスじゃなくてタトゥーを彫るべきなんじゃないの、と問うと「娘に入れ墨彫れなんてよく言えるね」と冷ややかに返
された。ピアスが良くて、タトゥーがだめな理由がよくわからない。
穴だらけになった娘の見た目のインパクトは確かに大きかったが、それをする娘の感情には特段驚きはなかった。昔から退屈が嫌いで、刺激のある方向へ親の私の心配など構うことなく足を踏み入れる性格だった。それに、次第にその性格に逞しさが伴っているとわかってきた。だから、渡米してバックパッカーを始めると聞いた時も、心配はなく、快く送り出したのだ。
そんな娘だから、峯村の話す『レインボードラゴン伝説』などという三流ファンタジーにも興味津々だった。ホテルからこの浜辺までの 2 時間の車中、この地の言い伝え、という名目の演出を聞き入ってくれる娘を前に、峯村はさぞ気持ち良かっただろう。
半分は聞き流していたしもう半分は寝ていたので、細かくは覚えていないが、『レインボードラゴン伝説』とは要するに『人魚伝説』の派生形だ。
レインボードラゴンとは人魚とドラゴンの間に産まれた子供で、食べると不老不死になれるという人魚の肉の特性を、レインボードラゴンも持っているらしい。そして、この港町に住む人間はレインボードラゴンの肉を食べているので、平均寿命が 100 歳を超えているんだとか。平均寿命がある時点で、不死ではないじゃないか。
そういえば、娘が「何年も食べていて無くならないのか」と峯村に質問していた。峯村の、待ってましたとばかりに答えたしたり顔を思い出す。
「レインボードラゴンの肉を食べた人間はみな、人魚になるのです。ですから正確には、不老不死の命が手に入る、というよりかは、人魚になるので不老不死になる、というわけですね。つまり、ここの住民はみな人魚……レインボードラゴンが枯渇しないためには、どうすると思いますか?」
「人魚を食べる……」
「そう、そうなんです! 怖いですねえ。住民が自らの命の欲しさゆえに、血みどろの共食いを始めるわけですから」
「怖い! 私たちそんなところにこれから足を踏み入れるんですか!? どうしよ、ママどうしよ」
目を輝かせながら身振り手振りする娘は、お化け屋敷に入る前の中学生そのものだ。こんな雑な創作話になぜ娘は興奮できるのだろうか。共食いしていたら平均寿命が 100 歳を超えるわけがないし、そもそも人魚自体の寿命は有限だ。峯村は幼少期に、『人魚姫』などを読んだことがないのか。いや、人魚姫も創作なのだけれど。
ふふふっと口を手で隠して笑い、峯村は続けた。
「ご安心ください。共食いなんてしませんよ。そんなことしたら住民がいなくなってしまいますから。
僅かなレインボードラゴンを、ハレの日に少しづつ突くのです。今回はそんな希少なレインボードラゴンを、真木野様のために、本日限り、特別に、ご用意させていただきました。旅行者の方が食べられる機会は滅多にございませんから、たっぷり召し上がっていただいて、不老不死になってくださいませ」
峯村の顔が私に向き、急に接待口調になる。
スカイスタイルはこんなゲテモノプランで、私の機嫌を取ろうとしていたのか。一瞬でも信用した自分に腹が立った。
数カ月前から、会社の支所の増設が滞っていた。零細旅行代理店のスカイスタイルが立ち退き、と言ったら聞こえが悪いが、土地の売却を承諾しなかったからだ。スカイスタイルの社長の息子である専務と取引をして、順調に話が進んでいたはずだった。
しかし、寸前になり、社長が売却に難色を示したのだ。こちらは、一等地の移転先も、地方の相場では考えられないくらい莫大な買取料も用意したにも関わらず、頑固一徹な社長は専務を叱責し「地域振興の結実が我が社だ! この町に恩も返さず捨てる気か」と喚いた。海外旅行のツアープランニングが自慢だという看板を掲げておきながら、何が地域振興だ。それに、寂れた商店街の外れで従業員 10 名にも満たない旅行代理店を、我が『社』などと言うな。私からすれば、それは商店の面構えをしたただの老人の集会所だ。
どこぞのヤクザのように、ブルドーザーで無理やり店を潰してやりたい気持ちになったが、無論犯罪である。だから、ちょっとだけ、スカイスタイルをいじめてやった。
大したことはしていない。ただスカイスタイルへ架空のクレームを寄せ、少しだけ悪評を流しただけだ。田舎の狭いコミュニティ
の店であるおかげで、噂は立ちどころに広まり、すぐにスカイスタイルの経営を傾かせることができた。この程度で廃業寸前まで追い込まれるくらいなのだから、元々、崖っぷちの経営だったのだ。だからこそ、救済として声をかけたのに。
しばらくしてから、スカイスタイルの専務が真黒なクマとこけた頬で私の会社を訪ねてきた。思いもよらぬ詫びの品を持って。
「真木野社長は南国への海外旅行がご趣味とお聞きしました。伺ったところ、今年はご息女とお 2 人でハワイへの旅行を計画しているそうですが、いかがでしょう。この度の我々の不義理のお詫びとして、無料で我が社にツアープランニングをさせてはいただけませんでしょうか。ご旅行の内の半日だけで結構です。他のお客様には決して紹介してこなかった、蔵出しの企画がございます。幾度もハワ
イへ足を運んでいる真木野様にも、ご息女にも、必ずや初めての体験、感動となるかと存じます」
深々と頭を下げたまま、専務は涙声で言った。ご息女、などという言い回しをわざとらしく感じた。
峯村はスカイスタイルの専属のツアーコンダクター兼通訳だそうだ。
事情をどこまで知っているのかわからないが、接待である、とは伝わっているらしい。能天気に案内をしている様子を見る限り、詫びだという認識はなさそうだ。
プラン内容が気に入れば、スカイスタイルへ提示した当初の土地の売買価格に考え直してやろうと思っていたが、残念だ。相場どころか、その半値で買い叩いてやろう。それでも、破産寸前のスカイスタイルは藁をもすがる思いで助けを乞うてくるだろう。よくもこんな人工着色のイグアナ掴み取り体験で、信用を取り返せると思ったものだ。
溜飲を下げるのに苦労し立ち尽くす私をしり目に、既に娘は数メートル先の海面できゃっきゃっとイグアナと格闘していた。
「お気に召しませんでしたか?」
峯村が申し訳なさそうに私の顔を覗き込む。
こんな粗末な企画に付き合うのは恥だ。しかし、楽しむ娘の前で駄々をこね、ひとり帰るわけにはいかない。惨めになる腹をくくった。
「いや。初めての光景だったから」
峯村の目を見ずに呟いて、海に歩き出す。
「存分に楽しまれてくださいね」と峯村の白々しく晴れやかな声が背後から聞こえる。
半ば八つ当たりのような気持ちで、水中を蹴りながらずんずんと進む。ハワイの海の水温は年中温かいが、この海水はより温く感じる。イグアナが大量に放流されていることと関係あるのだろうか。
目の端で娘がイグアナを抱えて、黄色い声で騒いでいる。もう捕らえたのか。掴み取りをさせるイグアナにしては案外激しく暴れている。娘はそれすらもジタバタと楽しんでいるようだが、私はあんなに必死な形相でイグアナと抱き合う姿を娘に見られたくない。娘に背を向け、逆の端へ行くことにする。
清々しいはずのハワイの太陽の光が、初めて鬱陶しく感じる。肌を焼かれる感覚がハワイに嘲笑されているようだ。
気持ちが悪い。日光の熱から逃げたくて、肩まで海水に浸かった。その瞬間だった。
どすっ。
左の脇腹の衝撃に転ぶ。
イグアナだ。あの虹色のイグアナに突進をかまされたのだ。
尻尾をゆらゆらと踊らせて、すぐに遥か先の海の光へと吸い込まれていった。
どこまで馬鹿にするんだ。怒りでめまいがする。
どすっ。
別のイグアナが背中を突いてきた。ザラついた鱗で肌を撫でて去っていく。
一目でわかるほどに俊敏な水生のイグアナが、なぜ掴み取れるのか疑問だった。その答えが、今痛みを伴って理解できた。好戦的なのだ。だから、イグアナから攻撃してくるところを押さえつけられるのだ。イグアナが腹にめり込んだ瞬間がチャンスなのだ。
ふざけるな。何が詫びだ。なにが接待だ。「ああ!」と海面を殴るが虚しいだけだ。私の手の動きを勘違いして、遠くの峯村が私に笑顔で手を振る。
憤りはイグアナに向けるほかないようだった。
どすっ。
すぐにまた、イグアナが脇腹に突進してきた。私は痛みに耐えながら、イグアナを腕で締め付けて即座に抱え上げた。
1 メートル超あるだけあって、バタつく力は凄まじい。体がイグアナが動く方向に持っていかれる。
鱗のおかげで腕から滑り落ちずにすんでいるが、暴れるたびに体に引っかかり痛い。
「ちくしょう!」
空いた方の手で、イグアナの額を何度も殴る。何度も、何度も。ここまでの恥辱を全て当てつけて、拳の皮が擦り剥けても殴り続けた。
気が付くと、イグアナは腕の中でだらんとしていた。口から粘ついた液体が漏れ、糸を引いて海面に落ちた。爬虫類の急所は頭だと聞く。いや、頭は全生物の急所だと思うが。
これを峯村に持っていけば、悪夢が終わるーー解放感の中、上がった息を整える。46 歳に体力に、連続の殴打はなかなか応える。
行きよりも重くなった海面をふらつきながら歩いて、峯村の元へ帰った。
「まあ、こんな大きいレインボードラゴン見たの初めて! この辺の主じゃないかしら」
峯村の世辞を聞き流し、イグアナの死体を押し付ける。一刻も早くホテルに帰りたい。しかし、峯村の口から出たのは、次なる下劣企画だった。
「市場がすぐそこですから、活きのいい内に早速お刺身にしてもらいましょう」
「え、本当に食べるの」
砂浜にそのまま藁ぶき屋根の露店が並んでいる市場のまがいのものに向かって歩く峯村の背に、言葉を投げた。
「ええ。ぜひ召し上がってみてください。皆さん戸惑いますが、食べていただいた方からはレインボードラゴンでしか味わえない香りがクセになると、おっしゃっていただいてます。美味ですよ」
「いや、でも、刺身っていま言ったよね。フライなんかはテレビで見たことあるけど、イグアナって生で食べられるの? 硬そうだし、第一衛生的に……」
「イグアナではなくレインボードラゴンです」
峯村が突然顔だけを向ける。一瞬、彼女の黒目に光沢がなくなった気がした。
しかしすぐに元の柔和な表情に戻り「レインボードラゴンは生食が主ですから問題ございません」と続けた。
張り詰めた空気だけが漂う。それ以上追及するのをやめた。
市場は近くで見るとより貧相で、薄気味悪いものだった。
風が吹いているわけでもないのに、露店のテントは揺れていて、今にも倒れそうだ。黒ずんだ木箱を台代わりにして、その上に直に魚介が並んでいる。そこにイグアナは見当たらない。
規模だけは立派で、浜一帯にテントが直線に並んでいる。商人もその分だけいるが皆、呆然と海を眺めているだけで活気はなく、蝿の羽音ばかりがうるさい。藁ぶき屋根が日差しを遮り、市場だけが夜で、商人たちが影のように見える。ハワイでは見たことがない、闇、だった。
それも、生臭く、すえた闇だ。
峯村が現地の言葉でひとりの初老の商人に何かを伝えて、私の捕ったイグアナを手渡した。商人がしゃがれ声でそれに応対するときに、口から数本だけ残っている黄色い歯が覗く。
英語でもなければ、ハワイ語でもない。現地語特有の方言だろうか。
バックパッカー中の娘ならわかるだろうか、と思った時に気が付いた。娘の姿がない。元々、言うことを聞かず自由奔放に動き回る娘だし、何より逞しいから心配はしていなかったが、この気味の悪い市場で一人きりで未知の味を口にするのは心細い。
「あの、娘はどこいったの」
峯村に聞くと、市場に不相応な満面の笑みで答えた。
「娘さんならレインボードラゴンを捕まえて、先ほど試食されましたよ。筆舌に尽くしがたい味だと、喜んでくださいました。お土産を買いたいとおっしゃってたので、今は街の方に出かけてるんじゃないかしら」
「……そうなの」
峯村の言葉に妙な違和感を覚えている間に、商人は膝上のまな板でイグアナの首元に三角形の包丁の刃を立てていた。
横たわったイグアナが跳ねるようにバタついたが、すぐにまた脱力する。スッと包丁を抜くと、足元にあるバケツの水に、イグアナの首元を浸けて振るった。慣れ切った素早さで血抜きをしているんだろうが、その工程の迅速さよりも、驚くことが起きた。
尻尾から首元にかけてスーッと、イグアナの皮膚の色が虹色から灰色に変色したのだ。思わず目を見開く。
虹色は着色ではなかったのか。血の色? 本当に虹色をしたイグアナだったのだろうか。
呆然とする私の前で、イグアナの下処理は続いた。
バケツから上げられたイグアナは、全身が灰色になっていて、その暗さの中でも目立つほど眼球は黒々としていた。光がないからだとすぐにわかって、先ほどの峯村の目を思い出してゾッとする。
まな板に叩きつけられて置かれたイグアナの腹に、商人は刃を真一文字に入れる。
ぷつぷつ、と筋を切る僅かな音が鳴り、腹の白い肉が顔を出す。脂が乗っているのか、肉はテラテラと光っている。商人はその奥から、ピンポン玉よりもひと回りほど小さい卵をむき出すと、私に差し出した。峯村が解説を挟む。
「レインボードラゴンの卵は殻までも柔らかく、そのまま食べられるのです。鶏卵の何十倍も濃厚な黄身がーー」
「いらない」
この臭いの中、この商人の黒い手に直に差し出されたものを、食べる気になるわけがない。
商人の指の間から滴るイグアナの体液を見て、吐き気がした。
「そうですか、もったいない。せめて、身の方は召し上がってみてください。価値観がひっくり返りますから」
峯村は握った手を上下して、興奮気味に私に勧めた。それを見た商人が、腹の切れ込みにスプーンを突っ込み、カッカッと白い身を掻き出した。
そして再び、スプーンを私に差し出すと、下卑た笑みを浮かべて何か言う。
「『一番美味しい部分を、一番美味しいときに』と言っています」
そんな小綺麗な言葉を口にしているようにはどうしても見えず、峯村の通訳が疑わしくなってくる。
娘も食べたという。本当に美味しいなどと言ったのだろうか。目の前の身から既に生臭さが漂ってくる。
そうか、ようやく気が付いた。これはスカイスタイルの仕返しなのだ。嫌がらせをしたうちの会社、ひいては私への仕返し。
ホテルから片道 2 時間も狭い車に拘束し、生温い海水でイグアナと格闘させ、汚い市場でゲテモノを食べさせる。そうだ、全て私への仕打ちなのだとすれば、この粗末なツアープランも腑に落ちる。
だとしたら、帰るか? いや、地方の零細旅行代理店のクセにいい度胸をしている。食べた上で、それも含め、名誉毀損で訴訟してやる。明らかな資金差があるスカイスタイルとうちの会社では、多少訴訟内容に粗があろうが勝てる。土地の売買どころではない。次は破産するまで見届けてやろう。
私は商人の手からスプーンを奪い取り、峯村を睨みつけた。
「優雅な旅をありがとう」
嫌味を吐いたその息を止めて、身を口に運ぶ。
途端、口内に充満する生臭み。息をしていないのに、鼻腔が廃棄所と化す。脂でコーティングされていた身は、その実、乾燥したスポンジのような食感で、舌がピリピリと痺れ、徐々に込み上がる胃液と混ざってくる。
「どうですか、滋味溢れるでしょう」
能面のような笑みで感想を求めてくる峯村に、口の中のものをぶちまけてやりたかった。
ただ、その怒りの熱はすぐに悪寒に変わった。
峯村の黒目に光沢がなかったから。
先ほどの峯村の言葉への違和感が、頭の中で明確化していく。
娘がこんなものを美味しいとは言っていない。「筆舌尽くしがたい味」なんて言葉、娘の口から出るわけがないのだから。
「娘は一体」
「あ、ご用意が整ったようですよ、真木野社長」
峯村が促した先には、舌が、商人の手の平の上に寝そべっている。
「娘はどこに」
「今回は真木野社長のために、本日限り、特別に、人魚の舌をご用意いたしました」
周りから粘ついた視線を感じた。先ほどまで海を眺めていた市場の商人たちが皆、私を見ている。
峯村と同じ目の色をして。
「答えて」
「スカイスタイルがご提供できる最高のプラン、存分に楽しまれてください。これが、地域振興の結実、です」
これが誰の舌かは、差し出された瞬間に確信していた。だから、絶対に口にしたくなかった。
ナットにしか見えないピアスが付いていたから。
「真木野社長がご躊躇されるのも、無理はありません。しかし、ご安心ください。これは、最近まで市場で働いていた 49 歳の女性職員のものでして。彼女は、レインボードラゴンを食べたことに人魚になったのですが、病に臥せって先日亡くなってしまいました。ここ地域では、亡くなった方、つまり人魚の肉を住人たちで弔いの意味を込めて、食べるのが文化なのです。
ですから、ご安心ください。亡くなった方ですから、人魚になった住人を食べても、人口に変化はありませんよ」
峯村の口調に抑揚はなくなっていた。
商人がすえた息を吐きながら、何かを言って舌を差し出した。彼は日本語で「どうぞ」と続けた。
市場の人間全員が私を灼くような視線を送る。
次はお前だと、全員が言っている。
破裂しそうな頭。萎縮する心臓。呼吸がつらい。
何も浮かばない。もう、何も。
私は、娘の舌を、食べた。
舌は甘かった。
僅かな弾力で肉が舞うと、すぐにほろほろと口の中でとろけて、崩れた。
人魚の肉は、弾力がありながら、柔らかく、非常に美味だと聞く。
本当だったのか。
足元に初めての力がみなぎってくる。
今にも、太平洋中を自由に泳ぎ回れそうな、そんなーーーー。
ピアスの冷たさだけが、邪魔だった。
終
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【罪状】外来生物法違反
海の一区画で放流・管理していたイグアナが、区画外へ逃げ出し生態系を害しているため。
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