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その人たちの思いの記録

 聞こえているのに何の音か分からない。何を言っているのか理解できない。このようなとき、わたしはこれまで、みんな一緒くたに「聴覚失認」としてきました(例えば no+e の「わたしの「思い」を形あるものにとどめるために(2)」。査読を受けた論文がお好みならば「聴覚失認者にとっての緊急災害放送のチャイムの意義」や「放送局が発信する聴覚失認者に理解しやすい緊急災害情報のあり方――ワークショップ「聴覚失認者に理解しやすい放送方法とはどのようなものなのか」の考察から――」。しかしこれは医学的な言葉づかいとしては間違っていました。そのせいで言葉づかいの混乱を招いてしまいました。

 なぜ間違いかと言うと、「聴覚失認」とは医学的にはっきり定義づけて当然なのに、わたしは失語症者の「聴覚理解の困難」を表すときにもそれも拡大解釈して「広義の聴覚失認」としていたのです。ただし、わたしの情報保障の研究では「(聴覚失認者を含む)聴覚情報処理障害者、つまり失語症者だけでなく発達障害者や認知症者にもわかりやすい緊急災害放送を探したい」という目的がありましたから、それなりに意味があったと思います。しかし、この言葉づかいは医療関係者には評判が悪かったのです。

 わたしとしては「普通の聴力はあるのに何を話しているのか分からない」とか「救急車のサイレンや犬の鳴き声が分からない」といった音にまつわるトラブルは、全部、緊急災害放送を聞き取る妨げになるのだから、それが医学的な「聴覚失認」であっても、そうでなくても、「聞こえない」という点では同じだという主張です。なぜ聞こえないのかのメカニズムが脳の中で異なっていたとしても(医学的には別のことでしょう。ただし脳の中味のことですから、医学的にもはっきり分かっているとは言えないようです)、聴力はあるけど聞こえないというのなら、医療社会学や医療人類学では、ぜひとも同じ扱いにしなければなりません。わたしが一律に「聴覚失認」としたのにはこんな理由があったのです。

 なぜこんな小難しいことを考えたのかというと、ことの発端は鈴木大介さんのお書きになった『されど愛しきお妻様』でした。発達障害がある人に、一度に二つも三つものことを伝えようとしても忘れてしまう。一度に伝えることは一つにしましょうという「教訓」、というか「教え」が『されど愛しきお妻様』には載っています。この言葉づかいは発達障害がある人に接するときの常識と言っても良いと思います。

 聞いたときに理解はできる。でも、二つも三つも伝言が重なると端から忘れてしまう。これは「聞こえない」のと同じことです。今さらながら、このことを教えられてみると、今まで無視してきたさまざまな障害が「聴覚失認」と重なっていることに思い当たったのです。

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 はじめに高次脳機能障害者です。高次脳機能障害というのは、脳卒中や事故などで脳に損傷を負ったときになる脳の症状のことです。鈴木匡子さんが学術雑誌「神経心理学」にお書きになった「やさしい高次脳機能の診かた」や山﨑勝也さんたちが、同じく学術雑誌「高次脳機能研究」にお書きになった「文の聴理解に影響を及ぼす因子について─ SLTA「口頭命令に従う」の分析を通して─」を読んでみて、わたしがこれはと思った例を挙げてみます。

 まず注意障害と呼ばれる症状です。鈴木匡子さんは、聞き返しが多かったり、内容に一貫性が欠ける場合などでは「全般性注意障害」を疑うと書かれています。聞き返しが多いとか、内容に一貫性が欠けるというのは、緊急災害放送を聞かないといけない時には困った状況になります。特にひとりで緊急災害放送を聞いている時にはなおさらです。地震が起こったが、津波が来るから「早く高台に逃げろ」と言っているのか、慌てなくて良いから「今いる建物の中で次の指示を待て」と言っているのかで、取るべき行動は全く違います。その判断ができないのは(聴覚失認者を含む)聴覚情報処理障害者と何も変わりません。

 聴覚理解が低下するのは、高齢になった人を含めて、失語症者や発達障害者、認知症者などの聴覚情報処理障害者の特徴です。該当するみなが経験することです。山﨑さんたちによれば、聴覚理解には「文を最初から最後まで聴く集中力の持続」、「聴いた文の把持(短期記憶)」、「単語の理解」、「文法的な理解」が関係しているそうです。集中力の保持は注意障害に含まれるでしょう。ここでは、短期記憶について書いておきます。

 ここで短期記憶を取り上げるのには理由があります。実はわたしの高次脳機能障害でも短期記憶がおぼつかないのです。例えば、失語症の検査でよく用いられる手法に三つほどのキーワードを暗記させて、何か別のことをやった後(10分ほどでしょうか?)、先ほどのキーワードが何だったかを答えさせる課題があります。普通の人は「さくら」「机」「うどん」といったキーワードでも、まあ、問題なく答えられると思います。しかし、わたしは答えられないのです。「さくら」「さくら」「さくら」……というふうに、ひとつの単語だけを繰り返し憶えていると(こっそりと頭に中でです)、そのひとつは答えられますが、後は深い霧の中に隠れてしまいます。ただ、わたしはヒントがあればキーワードが復元できるので、日常生活で大切なことは書いておくようにしています。これは『されど愛しきお妻様』をお書きになった鈴木大介さんも同じだとお書きでした。これも聴覚情報処理障害と同じことです。

 聴覚というより視覚の問題ですが、高次脳機能障害に反側空間無視と呼ばれる現象があります。これはよくある障害だそうです。鈴木大介さんも発病直後は反側空間無視になったそうです。これは自分の左側や右側にあるものが「(現にあるのに)ないもの」として認識できなくなるという症状です。例えば緊急災害放送でもテレビの字幕スーパーで大切なことを伝える時には、無視する片側に書かれた情報を見落とす可能性があります。聴覚の問題ではないのですが、視覚で起こる聴覚情報処理障害に似た現象だと思います。

 発達障害ではふたつ、みっつ重なると「忘れてしまう」。認知症でも、今聞いたはずのことを「忘れてしまう」。これはよく聞きます。繰り返しますが、このような聴覚情報処理障害は「聴覚失認」と同じことなのです。

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 情報保障の理想型は、相手がどんな人であったとしても情報が届くということです。緊急災害情報は聴き手の生命に係わることですから、すべての人に情報が届いてほしい。ところがもうひとつ、これと似た機能に図書館の情報保障というのがあります。いつも感心するのですが、私設であれ公設であれ、図書館という公共施設の職員はいつも親身になって来館者に寄り添おうとします。たとえお金がなくても、障害者でも同じことです。その「図書館文化」と言ってもいい優れた伝統は、どこから導かれたものなのでしょうか。きっとそれなりの理由があるのでしょう。

「読みやすい図書」の対象となる人びとを表す図です。

円がだいたいの対象グループを表し、四角形は読みやすい図書のニーズを示しています。円に重なりがあるのは障害が重複していることを示します。この図では障害のある人と「移住してまもない者」や「非識字者」がいっしょに描かれています。ADHDは注意欠陥多動障害のことで、日本では発達障害として扱われています。IFLAは国際図書館連盟(International Federation of Library Associations and Institutions)のことで、図書館の国際組織です。最近の図書館や情報サービス機関の変化について、情報へのアクセス、教育、プライバシー、デジタル時代での関係の構築、デジタル技術変革などさまざまな視点から毎年分析を行って報告書を出しています。この図は「読みやすい図書のためのIFLA指針」[トロンバッケ(編)]の図「読みやすい図書の対象グループ」を日本語に直した上で、わたしの論文「生涯学習施設は言葉やコミュニケーションに障がいを持つ人とどう向き合うべきか: 総説」(三谷, 2013)に引用したものです。

 この図では、知的障害者や自閉症者、失語症者といった先天的/後天的な障害者と共に、認知症の高齢者や児童/小学生といった人のライフ・サイクルで必ず通過する人生の一場面や、移住してまもない者や非識字者といった、言葉が分からなかったり字を習えなかったりする人たちを同列に扱っています。これは、わたしにとっては当然のことで、たとえどんな事情があったとしても「読めない」という一点では同じなのです。

 その「読めない」という点を補うために、図書館職員はさまざまな試みをしてきました。例えば「読み聞かせ」です。児童/小学生を対象にした絵本の「読み聞かせ」だけではなく、知的障害者や自閉症者が興味を示しそうな恋愛をテーマにした「読み聞かせ」や、認知症の高齢者が興味を示しそうな、かつての風景を描いた本の「読み聞かせ」を試みています。もちろん「試みている」のですから、こうすれば満足してくれると分かっているわけではありません。しかし、その来館者に寄り添う態度が「図書館文化」だと言っているのです。

 わたしは医療人類学、つまり医師や看護師、言語聴覚士といった医療者側の人類学ではなく、患者や障害者、難病者の側に立った人類学で、「その人たちの思いの記録」を書き留めていきたいのです。そのためにわたしは、これからは「(広義の)聴覚失認者」という表現を止め、「(聴覚失認者を含む)聴覚情報処理障害者」という表現を使って、書いていきたいと思っています。もちろん、医学的な意味での「聴覚失認者」には、今のまま「聴覚失認」という言葉を使いますよ。



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