ネットがあるから本を読まなくていいではない
今となっては懐かしい思い出なのだが、三度の飯より本が好きな子どもだった私は、文字を見ることがそもそも好きだった。一番古い記憶として残っているのは5歳くらいだったと思うのだが、母と銀行に行った際のことである。
窓口の壁に貼られた「お知らせ」の「知」の字をどのように読むのか聞いたことが思い出される。すでにひらがなをマスターしていた私にとって「知」というのが、ひらがなに該当しないことに気づいたのだった。
さらに、問題は食事中も「文字を読むことをやめることができなかった。」ということである。
食卓にあるふりかけのパッケージや海苔の入った円柱容器の食品表示を読み、知らない言葉があれば、その都度聞く始末だった。そんな私を見て兄弟は口をそろえて
「食事中だからやめてくれ。」と言ったものだ。
私は直接的な迷惑をかけていないのに、なぜやめなければならないのか腑に落ちなかった。でも人前ではそれ以来、やめることにした。
しかし、私のような人は他にもいるようなのである。先日、ネット記事で似た経験をした人々がいることを初めて知った。
そして自分だけじゃないということに今さらながら安堵したのである。
そんな私は、まとまった休み(バカンス)となると一日中読書をしている時がある。朝起きてから、すべての用事を済ませてあとは読書なのである。しかも、カフェにいって優雅に読書だとか、セントラルパークのような場所で青空読書といったおしゃれ度満載なことは、
一切しない。
カウチに座って、時には寝転がってひたすら「読書」である。
Youtubeでほんタメさんの「読書好きの1日」という動画を観た際には、自分のことのように感じた。
さて、そんな本の虫である私にとってなぜ読書が必要かについては、以下の記事ですでに書いているのだが
今日は少し違う視点で改めて書きたい。
やはり今回のタイトル通り、ネットがあるから本を読まなくていい、ということではないと思う。今の時代、ネットや生成AIなどを主体とした知識の引き出し場所は、多岐に当たる。しかし、それはあくまでインプットとしての役目を担っているにすぎない。
一方で読書は、インプットでありながらアウトプットを兼ねている行為ではないだろうか。過去には「読書は自分の中に味方を増やすことでもある」というタイトルで記事を書いているが、自分の味方を増やすということは物の見方を広げて、今という視点から新たなものを創造していく原動力にもなると思うのだ。
創造していくということはアウトプットそのものではないだろうか。その動きはたとえ後ろ向きであろうとも前向きであろうとも、はては横向き(ここでは並行的なイメージ)であろうとも、動きは動きに変わりはない。
読書を通して得た知見同士のつながりは、まるで編み物のように組み合わさって大きな絨毯のように少しずつ広がっていく。どこまでも、手を伸ばして波打つ岸辺を求めるかのように。
その絨毯に乗って読書という旅をし続けることで、さらなるアウトプットにつながっていくのだろうと強く信じている。
最近読んだ『なるほどの対話』(吉本ばなな・河合隼雄)からは、
創造する作業の中で、何が大切なのか改めて教えてくれたことを例に挙げたい。
「創造には孤独が必要である。」
「新たな創造と枠からはみ出ることは対である。」
言葉にできなかったその理由をこの本を読むことで自分自身で、形どることができた瞬間であった。
英語には「Define」という言葉があるが、読書で起こるアウトプットというのは、この「Define」に他ならないと感じている。
言葉にできなかったものを定義づけるという点では、余談がある。それは、吉本さんの作品が好きなのかということも明確に理解することができた、ということである。
特に私が好きな『キッチン』
この本は、身近な人の死と向き合う中での主人公みかげと雄一の孤独と青春を描いている。みかげが、一人残された家のキッチンの、しかも冷蔵庫の近くで眠りにつくシーンから始まるのだが、何度読んでもここは暗いと思う。
その暗さがあるからこそ、自分が向き合うべき困難さをも投影することができる。しかし一方でそれはまるで、生や死をコップの中に入れて、ないまぜにしてくような辛さでもある。
もしくは自分が水性ペンで描いた世界が、外圧によってじわじわとにじんでいく中でも、何とか生きている自分を認めることでもある。
中学生の時にこの作品を読んだ時には、なぜこの作品が好きなのか言葉にはできなかった。でも、そこから20年近く経ってようやくその理由の根源を見つけることができた。
それは自分自身の存在そのものが、言葉を通してこの作品の中に描かれているからである。
残念ながら、ネットでサーフィンした知識では、ここまでの広がりを得ることはできない。ネット記事を読めば前述のように、「共感」したり、「安堵」したり、「知」ったりすることはできるが、それはその点の集合体に過ぎない。
本を読むことは、絨毯の例で言及したようにもっと面的なことなのである。読書を通して書き手やそこに出てくる登場人物と対話を繰り返すことで、得られるたった一つの自己を深めるカギでもある。
文字ひとつひとつであれば、点である。しかし、文章になった時、それは私を捕らえて離さない相棒になるのである。
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