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『不登校は子どもからの「メッセージ」 不登校から抜け出し家族に笑顔を取り戻す習慣』第一章・無料全文公開

書籍『不登校は子どもからの「メッセージ」 不登校から抜け出し家族に笑顔を取り戻す習慣』より、第一章「表面に見えている問題は問題の本質ではない」を発売前に特別で無料全文公開!
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子どもが心に抱えているもの

2015年の7月のある朝のことです。当時中学3年生だった三女は、何度も何度も揺り起こす私に、夢うつつのまま半分だけ目を開けてこう言うのです。
「ママ、起きられない……身体がすごく重くて……起きられないの……身体がすごく重いの……まるで鉛みたいに重いの……」

それは今まで見たこともない娘のつらそうな姿です。私は慌てて、
「鉛って……鉛が身体についているみたいなの? 起き上がれないの?」
と聞くと、
「ううん、違う……私自身が鉛になっちゃったみたいで……海に沈んでいくみたい……」
そう言ったきり娘は目を開けることができなくなり、こんこんと1日中眠り続けました。今まで見たこともない娘の様子に何があったのか、と心配する気持ちにふたをするように、私は自分に向かって大丈夫、大丈夫、少し休んだらきっとまた学校には行けるわ、と必死に思い込ませます。

夏休み中は元気だったのに、新学期が始まるとやはり学校には行かれません。支度はするのに玄関で何分も立ち尽くし、やっと出かけること3日。その後は朝起きることもできなくなりました。
昼夜逆転し、昼間はずっとベッドで寝ていて、夕方に起きても明け方までベッドの中でずっとスマホで動画を見ている日々が、何か月も続きます。そんな娘の姿を見て、私は絶望感にかられていました。毎日なぜこんなことになってしまったのか、育て方の何が悪かったのかと、自分を責めてばかりいました。苦しくて、つらくて、涙が溢れて、いつも家の中には暗く重い空気が流れていました。

その頃の私は何とか娘を治して、学校に戻すことばかり考えていたのです。でも、そうすればするほど、心を閉ざしていくように見えます。何が何だかわからず、いつも誰かに答えを教えてほしいと思っていました。なぜ学校に行かれないのか。「学校は行きたい」「将来やりたいことがある」そう言うのに、なぜ起き上がれないのか、まったく理解できずに頭の中は堂々巡りをしていました。

子どもが不登校になると、ほとんどの親は「なぜ?」と理由を探します。でもその理由がわからない場合が多いのです。もちろん陰湿なイジメに遭ったとか、先生によるパワハラなどが原因だった場合は、転校することで解決できることもあるので、一概にすべてのケースで理由がまったくわからない、ということではありません。

不登校という表面に表れていることは、問題の本質ではないのです。だから、表面に出ている不登校という部分に焦点を当てて学校に戻そうとしても、子どもは元気にはなりません。これはひきこもりや摂食障がいといった、他の問題でもまったく同じことが言えます。
たとえて言うなら、熱が出ている子に解熱剤を一生懸命飲ませて、熱だけ下げようとしているようなものです。熱の原因がただの風邪なのか、胃腸からきているのか、怪我の炎症なのか、あるいは伝染病なのか。その根本の原因を見つけてアプローチしなければ、たとえいったん熱は下がっても根本は治っていないということなのです。

不登校が表面に表れている熱だとするならば、その原因は何があるのでしょうか。

それは、子どもの心の底にある、たくさんの自己否定感です。自分には価値がない、自分はダメな人間だ、誰からも受け容れられていない、愛されていない、存在してはいけないなど、何かのきっかけで生まれてしまった思い込みによって、心の中にたくさんの×印がつき、重くて苦しくて、動けなくなってしまうのです。
心の不調は身体に、身体の不調は心に出ます。身体が鉛のように重いというのはつまり、それだけ心が重いということです。不登校やひきこもりなどの子どもたちは、心の中に数えきれないほどのたくさんのおもりを抱えてしまっているのです。

2020年9月、ユニセフが先進国の子どもの幸せ度ランキングを発表しました。日本は総合順位38か国中20位でした。これは以下の3つの項目を総合的に判断した結果です。精神的幸福度(生活満足度が高い子どもの割合・自殺率)37位、身体的健康(子どもの死亡率、過体重、肥満の子どもの割合)1位、スキル(読解力、数学分野の学力、社会的スキル)27位。

注目すべきは、日本は身体的健康が第1位なのに、精神的幸福度は最下位から2番目と、かなり低くなっていることです。これは、日本の若年層の自殺率が世界的に見ても高いのが、理由の1つです。日本の子どもの自己肯定感の低さも目立っており、不登校やひきこもりにも大きく関連していると言えます。

はっきりと統計の数字として表れているのを見ると、日本人の抱える心の問題を、このまま放っておくわけにはいかないとつくづく思います。

学校に行く、行かないを親としては大問題だと思ってしまいますが、それよりもっと大切なことがあると、気づくときです。

世代間連鎖を断ち切る

子どもの中にできてしまった自己否定感の素になる、たくさんの心の中の×印。これはどうしてできてしまったのでしょう。私が相談に乗っているお母さまのほとんどが、お子さんの自己肯定感の低さを口にされます。
「小さい頃はもっと明るくて元気で、何でも積極的にする子だったのに……」
「おとなしかったけど、言いつけをきちんと守る良い子だったのに……」
など、およそ自己否定に繋がるようなことは思い当たらない、という親も大勢います。

そもそも生まれたての赤ちゃんは、自己否定感など持っているはずはないですよね。
0歳から6、7歳までの間は刷り込み期と言われ、親や周囲の大人からかけられた言葉を良い悪いの判断なく、すべて取り込みます。その後は見たこと、聞いたこと、経験したことなどがその人の中に取り込まれ、潜在意識、または無意識の領域、普段は自覚しない領域に記録されていくのです。潜在意識に記録されたことによって、その人独特の習慣や思考パターン、ルールを生み出していきます。

親自身の習慣や思考パターンの多くは、その親から受け継がれたもので、子どもにも受け継がれているのです。よく、子どもが母親そっくりな口調で話していたりするのを、聞いたことがありませんか。また、話している言語そのものも、日本に生まれ育ち、日本語を話す養育者に育てられれば日本語を話しますが、日本人の両親から生まれても、別の国の言語しか話さない養育者に育てられたら、日本語は話せません。それはつまり、赤ちゃんの頃から常にさまざまな情報を親からダウンロードしているということです。
乳幼児期の子どもは周囲の大人から、あらゆることを潜在意識に取り込んでいきます。その中には伝統的な文化や、生活に必要な基本的な振る舞いなど、受け継ぐことでたいへん役に立つこともたくさんあり、それが生きていく知恵にもなります。

ところが中には、その子の価値観や令和の時代にはそぐわないものも多々あります。たとえば、我慢は美徳とか謙遜の美学とか自己犠牲の精神とか恥の文化とか、あるいは子どもの価値観を無視した学歴偏重主義だとか。「べき」「ねば」に代表される規範型の思考も、その傾向が強すぎると窮屈です。社会通念上は絶対必要だと思うこともありますが、大家族の中で家族同士がうまくやっていくために必要だった躾や習慣などは、核家族化が進んだ今では昔と同じ感覚で刷り込まれると、違和感を持つ場合が多いはずです。
刷り込まれた子どもが、親から教えられたルールや思考パターンどおりにならなかったとき、できない自分に否定感を持ってしまいます。

誤解のないようにお伝えしたいのは、不登校や子どもが自己否定感を持つ原因が親のせいだ、と言いたいのではありません。私たちも親の世代から受け継いだ古い習慣や思考パターンを、正しいと信じて子育てをしてきたわけです。私たちが子どもだった頃には、まだ今ほど世の中の激しい変化はなかったので、あまり違和感を持たずにそのまま受け継いだのだと思います。

しかし昔と同じような思考パターンのまま、
「私の子どもの時代には、これくらいのことは何でも我慢してやったもんだ」
などと精神論を語っても、子どもにとっては苦しいだけなのです。

私たちの世代は子どもの頃、昭和の高度成長期からバブルの時代を生きている人がほとんどです。さらに親の世代は第二次世界大戦を経験しているか、終戦直後に生まれた人、団塊世代ですね。その頃の日本はとにかく上へ上へと国全体が少しでも豊かに、発達や発展するようにと必死だったはずです。その親に育てられた私たちは、「24時間働けますか?」のキャッチコピーに代表されるような、自分を犠牲にして頑張ることが良いとされてきました。

時代は昭和から平成へと移り変わり、令和という新しい時代に入っています。2000年に入ってからの20年は、IT革命に代表されるさまざまな変化が激しく起こりました。特にここ10年はインターネットが当たり前の時代になり、スマホ、Wi-Fi、オンライン決済、オンライン授業にオンライン会議、会社の営業もオンラインで行なう時代になりました。

この激しい時代の変化に、子どもたちは順応しているようにも見えますが、私たちが想像する以上に疲れているのです。常に繋がっていなければ不安でしかたないような状況です。昔は友達とけんかしても、一度お互いの家に帰って冷静になる時間がありました。落ち着いて一人で考えて、翌日には仲直りができたかもしれません。でも、今は家に帰ってもSNSで陰口を言われているのを見たり、仲間外れにされていたり、そうされないようにしたりと必死で繋がっているのです。あふれている情報は人の心を疲れさせます。子どもたちは、想像以上に多くのストレスを抱えているのが現状です。

相談にみえるお母さまで、ご自身の親御さんとの関係で悩んでいる方も、少なくありません。子どもの頃に十分に受容、承認されなかったり、厳しい躾を受けてきたりした人は、我が子を抱きしめよう、受け容れようと思ってもできないのです。されたことがないからどうして良いかわからなかったり、潜在意識が「私も親に受け容れられなかったのに、なぜ子どもにしなきゃならないの」と拒否したりしてしまうからです。いわゆるインナー・チャイルドの問題です。

これも親の代から受け継いだものです。気づいた今、負の連鎖を止めなければ、子どもの代が受け継ぐことになります。私のセッションでは必ずお母さまの子ども時代の話しを聞き、必要ならインナー・チャイルドを癒すワークやセラピーをします。

世代間で連鎖している子どもへの関わり方を見直す必要があります。子どもの不登校により、私たち親に見直すときだよ、と教えてくれているのです。

時代に合った見方や価値観を書き換える

先進国でも日本人の自己肯定感の低さは、目立っています。内閣府の若者(13歳から29歳)を対象にした調査(平成30年度実施)によると、「自分に満足しているか」という問いに対し、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどが8割を超えて、韓国でも7割が「イエス」と答えています。

ところが日本で「イエス」と答えたのは、たったの45%と半分以下だったのです。「自分には長所があるか」という問いに対する回答は、「イエス」が62%、「自分の親に愛されているか」に対する「イエス」は「そう思う」の34・9%と「どちらかというとそう思う」の44・1%を合わせても8割に届かず、どの項目も最下位となっています。これは、15歳~34歳の死因1位が自殺なのは先進国で日本だけだということと、深い関連があります。

なぜ日本の若者が他国の若者と比べて自己肯定感が低く、自殺率が高いのでしょうか。これこそ今までの日本の文化である謙遜や恥の文化、親の厳しい躾、学歴偏重主義などを連綿と受け継いできたことも1つの要因だと私は考えています。これらの古い文化は、ある場面では必要であり、すべてが悪いものだ、と言いたいわけではありません。

でも、知人から子どもを誉められたとき、
「ありがとうございます。本当によく育ってくれました」
という親が日本にどれだけいるでしょうか。ほとんどの親は、
「いいえ、そんなことないんですよ。うちではだらしなくて、本当に困っているんです」
などと謙遜します。この謙遜の言葉を聞いた子どもは、果たしてどんな気持ちがするでしょうか。せっかくよそのおじさん、おばさんから誉められたのに、親がそれを否定するのを聞いたらがっかりして、
「お父さん、お母さんは私のことをそんな風に思ってるんだ。私を認めてくれないんだ」
と思うでしょう。英語圏の人は、このようなときには「I am proud of her (him).」つまり、「娘(息子)を誇りに思います!」とよく言います。

日本では、謙遜することは他者とのコミュニケーションにおいて重要だと考えている人は多いです。でも、子どもの気持ちを無視してまで卑下する必要はないですよね。自慢ではなく、褒められたら素直にありがとうと受け取る習慣をつけたいものです。

「ラベリング」という社会学の理論があります。ラベルを貼る、レッテルを貼る、とも言いますね。何か逸脱した行動というのは、その人の中にあるものが要因になっているのではなく、周囲がラベルを貼ることにより生み出される、という理論です。親が「この子は子どもっぽい」「自分の人生を切り拓く力がない」「他者とのコミュニケーションが下手」など、子どもにラベリングすると、そのラベルどおりの行動をするのです。

なぜなら、ラベルの言葉が潜在意識に住みつき、そうなんだと信じ込みます。人間は自分が信じていることを無意識に、それを証明するような行動に移すのです。
親が謙遜のつもり、または子どもを案じて言っている言葉が、子どもを苦しめる呪いの言葉にもなりかねない、ということです。心当たりのある方は、今すぐやめましょうね。

「学校に行きたくないなんてぜいたくだ。世界中には行きたくても行かれない子もいるのに」という親の意見は正論です。子どももよくわかっています。でも、学校に行きたくても行かれない世界の子どもと同じくらい、もしかしたらそれ以上に精神的にまいっているのかもしれません。

数年前に読んだ新聞への投稿記事を思い出します。それは東南アジアのどこかの国から、日本に実習生としてやってきた若者の投稿でした。

「自分の国は貧しいから、日本に来てたくさんのことを学んで、国の家族をもっと幸せにしたいと思って、日本に夢と希望を持ってやってきた。それなのに、日本人はちっとも幸せそうじゃない。これだけ経済的に豊かで、皆賢くて、安全で、食べ物も水も美味しくて安心して食べられて、欲しいものはすぐに手に入る。それなのに日本人はいつも皆暗い顔をして、つらそうにしていて自殺する人がとても多いと聞いた。なぜなのか。皆幸せになるために働いて幸せになるために生きているのではないのか。私の国の人々は貧しいけれど皆幸せそうだ。経済的な豊かさより心の豊かさを大切にしたい」

––––その投稿を読んでハッとしました。その頃はまだ私の中に良い(=偏差値の高い)学校を出ることが子どもの幸せ、という考えがあり、幸せとは何か、特に子どもの幸せとはどんなことか、と考えるようになりました。

私の中にあった古い学歴偏重主義が娘を苦しめ、さらには自分自身を狭い箱の中に閉じ込めて息苦しくなっていたことに気づきました。学歴にこだわる裏側には、子どもが良い学校に入れば親としてのメンツが立つ、という気持ちがあったと思います。周囲から「良い母」と思われたかったのですね。不登校という行動で娘が私の視野の狭さ、息苦しさに気づかせてくれたのです。

日本では学校に行かないことは悪いことだ、という認識を持っている人が多くいます。テレビの報道などでも何かの事件の犯人が不登校やひきこもりだった場合、必要以上に強調する風潮があります。まるで子どもが人間として堕落していく始まりのような話しを聞いていると、キャスターやレポーターが、逆に生きづらさを感じている子どもたちやその親を追い込んでいるように聞こえてなりません。
かつて当たり前だった年功序列、終身雇用の時代は終わっているのです。大手都市銀行が週4日勤務を推奨し、副業を認める時代です。私たち親も、時代に合ったものの見方や価値観を新しく書き換えていく必要がありそうです。

子どもをコントロールしていると気づく

ここまで私たち親世代の古い習慣や思考パターンで関わっていることが、子どもの心に影響があると書きました。でも、不登校になるのは、もちろんそれだけが原因ではありません。親の子どもへの過干渉も原因の1つです。

よく質問されるのですが、過干渉と過保護の違いは何でしょう。一昔前は、過保護はダメな子育ての代名詞のように言われていました。過保護も過干渉も「過」ですから、行き過ぎていることはわかりますよね。

過保護は子どもの要求、要望に対し親がし過ぎることです。過ぎたるは及ばざるが如しですが、子どもを受け容れている、という点では、実はあまり問題はありません。むしろ子どもの心には受け容れてもらえた、という満足感があります。特に不登校の子どもたちは、親から十分に受け容れてもらったという実感が不足しています。多少過保護かな、と思うくらい思いきり満たしてあげることを優先してください。

過干渉は、子どもが望んでいないことも先回りして行なったり、行動を制限したり、むりやり進む方向を決めたりすることで、子どもの自立の芽を摘みます。

過干渉をしている親のほとんどは無自覚です。子どもの将来のためにとの想いからしています。ある程度の心配は親であればつきものですが、何かにコンプレックスを持っていたり、自分や子どもの将来に過度な心配をしていたりすると、親の強い想いを子どもに押しつけ、理想どおりにしようと無意識にコントロールしているのです。

子どもには自分のようになってほしくない、こんなつらい思いをさせたくないと思い、受験校のことや塾のこと、選択科目にまで口出しをします。逆に自分と同じ道を辿ってほしいと思う場合も同じことが言えます。そうすると子どもは、自分で考えたり選択したりする力が養われません。

よく、どんなアドバイスをしたら良いかという質問を受けます。子どもを「正しい道に導くのが親の務めだ」と言うのです。親がアドバイスをしなければ、と思っているときは理想の子ども像に近づけたいという気持ちが裏にあります。子どもを狭い箱の中に閉じ込めようとするコントロールなのです。どの子にも自分で選択する力も、未来を切り拓いていく力もあります。それを奪っているということです。

子育て以外に生きがいがなく、子どもにしか目が向いていないと、世話を焼くことで自分の存在意義を見出している場合があります。一見子どものためにしている行動のように見えますが、実は自分の欲求を満足させるための行動であることが多いです。子どももいつも親の指示やアドバイスを待つようになり、共依存の関係になってしまいます。共依存になると、いつまでたっても親から自立できませんし、親も子ども以外に人生の価値を見出せません。健全な親子関係とは言えないのです。

と、ここまでいろいろ書きましたが、実は私もかつては過干渉な親でした。娘が転ばないように、失敗しないようにと先回りして手を出し口を出し。娘が中学入試で第一志望校に合格できず、それでも第二志望の学校に受かって喜んだのもつかの間。お祝いや労いの言葉もそこそこに、大学受験では失敗しないようにしてやりたい、なるべく早く大学入試に向けてスタートしなければ、などと考えていました。失敗と、娘の頑張りをそんな風に思っていたのです。今考えると、とても申し訳なかったですし、恐ろしい考えだったとも思います。

その気持ちに娘は気づいて、親の期待に応えられない自分を否定し、せっかく合格した学校をも否定していました。子どもは、親の非言語を読む能力は驚くほど高いです。お腹の中にいるときから母親の声や足音を聞き、生まれてからも生きるために、母親の機嫌や非言語を読み取ってきたからです。言葉に出さなくても、表情、ため息、間の取り方や足音などからも親の気持ちを読み取ります。

たんぽぽに桜になりなさい、と言ってもなれるものではありませんよね。子どもへの過度な期待は、別のものになりなさい、と言っているようなものです。たんぽぽにはたんぽぽの良さがあるし、桜には桜の良さがあります。それぞれの花の良さを認めること。ただ認めるだけで良いのです。

家族という社会のコミュニケーション

ここまで母親の子どもへの影響について主に書いてきました。十月十日お腹の中で赤ちゃんを育て、生まれてからの授乳も母乳であれば母親しかできません。どうしても母親が家族の中で子どもに関わる時間が一番長いので、影響が一番大きいということになります。とはいえ、父親の影響ももちろん大いにあります。
子どもの不登校やひきこもり、摂食障がいなどの表面に表れている問題は、子どもだけの課題でも母親だけの課題でもなく、結局は家族全体の課題なのです。

父親の家庭での関わり方は父親の性格、タイプにもよるのですが、一般的に母性と父性の本能的な違いがあります。大まかに言うと、母親は子どもを受け容れ包み込む役割です。父親は社会で生きていけるようにする役割を担っているので、ときには突き放すように厳しくする、という違いがあります。母性と父性、両方バランス良くそろっていることが理想的でしょう。

ところが、子どもが不登校やひきこもりなど、心に何か大きなおもりを抱えているようなときには、父親の「社会で生きていけるように育てる」という本能が、逆に障害になってしまう場合があります。このままでは社会に出て行かれない、自分が何とか外に出て働けるようにさせなければいけない、と必死になり、必要以上に厳しくしてしまうのです。母親が「今は無理させてはいけない」「ゆっくり休ませたほうが良い」と考えている場合は、夫婦間で方針が違ってしまい、関係が悪化してしまうことも少なくありません。

私のクライアントさんの多くが、お子さんのことから始まり、次にご主人のことも相談されます。ご主人がお子さんのことを理解できず、家庭で口を一切きかなくなってしまったとか、奥さんが何度言ってもお子さんに対して高圧的で取っ組み合いの喧嘩をするとか、お子さんが不登校、摂食障がいと悪化していくのに耐えられず、ご主人がノイローゼになってしまったとか、そもそも夫婦関係がとても悪いなど、さまざまなケースがあります。
そうなってくると、母親はただでさえ子どものことでたいへんなのに、追い打ちをかけられるように夫のことも悩みの種となるので、気が休まりません。家族もどんどんバラバラになってしまいます。

子どもが学校に行かれない、身体が動かない、何もできない、という状態のときには、父親は父親らしさ、つまり「子どもを社会で生きていかれるように育てなければ!」というような厳しさは、一旦脇に置いたほうが良いでしょう。まずはそのままの子どもを受け容れるのが先です。そのままでいい、そのままのあなたで価値ある存在だと、両親から受け容れられた、と実感できるような関わり方が必要です。ただし、それを夫に伝えるときに「あなたの考え方は間違っている」というような態度が見えると、夫婦の関係を悪化させるだけです。夫の意見も受け容れて提案することが大切です。

しっかりと受容してもらった、と子どもが感じられるようになったら、父親の出番です。父親は外の世界に出ていくときに、サポートをしっかりしてください。そのためにも、親子3人で話し合いの場を持ち、親としてどんなときも我が子を大切に思っていること、これからどんな風に生きていくことが大切なのか、などをしっかり話し、子どもの今現在の気持ちも可能な限り遮ることなく聞けると良いでしょう。

もちろんシングルマザーやシングルファザーのご家庭もあるでしょう。その場合は二役しなければ、と気負う必要はありません。しっかり受容することに努め、子どもが自分の気持ちを話せるようになることが一番大切です。

家族は私たち人間社会の最も小さく、最も身近で、最も大切な社会です。私たちはともすると、この一番大切な家族という社会においてのコミュニケーションをおろそかにしがちです。

「家族だからこのくらい言わなくてもわかるだろう」
「家族なんだからこのくらい許されるだろう」
「家族なんだから……」
でも、自分の友人や仕事関係の人に、このようないい加減なコミュニケーションをとるでしょうか。家族だからこそもっと丁寧なコミュニケーションをとること、家族だからこそもっと相手を大切に尊重することが必要なのです。

子どもだからわからない、親のほうが正しい、不登校になっている子は将来のことなど何も考えてなどいない……。そんな風に思っていませんか。
心におもりを抱えて動けなくなっている子は、誰よりもいろいろ考えています。普通なら考えないようなことも考えて、おびえています。だからこそそのまま受け容れ、考えや価値観を尊重してほしいのです。

テレビを見ていても、毎日のように家族間のトラブルによる悲しいニュースが流れてきます。子どもが親に包丁を向けたり、親が子をあやめてしまったり。そんなニュースを見る度に、何とも言えない苦いものが胸の内に広がります。
事件になってしまったこうした家庭も、もしかしたら家族間でもっと丁寧にコミュニケーションをとり、もっと相手を尊重していたら、こんなことにはならなかったのではないかしら……。

そう思う度に、私ができることはわずかではあるけれど、この活動が一人でも多くの大切な命を救う役に立ちますように、一人でも多くの人が幸せに向かえるようになりますように、そんな祈るような気持ちになります。

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第一章はここまで!
続きを読みたい方は、各電子書籍ストアにて7月15日より随時発売しておりますので、是非お買い求めください。
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書籍『不登校は子どもからの「メッセージ」 不登校から抜け出し家族に笑顔を取り戻す習慣』

著者プロフィール

鈴木 理子

家族関係修復コーチ
慶應義塾大学文学部卒業。研修講師として約15年で延べ2万人以上をサポート。「家族に笑顔を取り戻すKET理子塾」主宰。

自身の三女が中学3年生で不登校になったが、学んできた心理学、カウンセリング、コーチングなどを活かして親子のコミュニケーションを徹底的に見直す。娘は元気になり、希望の大学に見事合格。その経験をブログに書くと、多くの母親の共感を得て、相談の希望を受けるようになる。現在では1か月に100時間ほどの個人セッションと、「家族に笑顔を取り戻すKET理子塾」と題した心理・コミュニケーション講座を主宰している。経験者目線、母親目線のセッションは定評があり、多くの母親の支持を得ている。

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