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(連載13)いつの間にか自分が西洋化?実家での生活習慣のギャップ:ロサンゼルス在住アーティストの回顧録:1989年

まだ、日本で〜す。笑 ながーーっ!

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(前回からの続きです、お読みになってなければ、是非!)

要約いたしますと。

少し、巻き戻しますと、上の写真のトッシュ(アメリカ人)と知り合って、即決で結婚。ロサンゼルスで始まるはずだったバラ色の新婚生活が、逆に日本にUターンで、どん底へ。。。。。。

それから半年、私は実家で、ガンになった母と祖父の看病に明け暮れる毎日となり、5ヶ月後、ふたりは10日違いで亡くなったのです。。。。

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これが1980年代の最後の年。 そして、昭和も終わった。。。


。。。。実家の家の中に仏壇が二つになりました。

というのも父方は曹洞宗で、母の方は浄土真宗だったので、お寺さんも違い、仏壇も二つ必要になったのでした。

最初は母の仏壇は、母が寝ていた洋間に置いていたのですが、知らない人が、いきなり家に来て、「あなたのお家は、御仏壇を洋間に置いているとききましたが、本来は、御仏壇は座敷に置くものですよ。」と注意されました。

誰?この人??? 全然、し、知らんし。。。。

父の友人の知り合い??母の友達?だったのか? そういう噂話を小耳にはさんだ知り合いの知り合いの人? 私は、なぜこの人が突然、家に来て、しかも仏壇の位置まで知っているんだろう?と思いました。でもそれを直接その疑問を聞くわけにもいかず、「そうですか、それは教えていただいて、有難うございました」と言って、その後、父と相談して、仏壇を座敷に移動しました。

奥の座敷はふたつあり、襖をはさんで隣り合っていて、一つは、祖父の仏壇があました。なので、母の仏壇は隣の座敷に置く事になりましたが、どうしても、その配置上、襖はあるものの、二つの仏壇が向かい合う事になってしまいました。実は、それも、よくなかったらしいのですが、そのような事は、ずっと後で知りました。汗

このような宗教上のルールというのは、今だとネットですぐ調べて、わかるような事でも、当時は、菓子折り持参で、知ってる年配の方にお尋ねしたり、本屋に行って調べたりと、情報を得るのが大変な時代でした。。。という言い訳、、、ですけども。

お葬式後の法事の日程は、親戚が集まりやすいようにと、同じ日に時間差でアレンジして、お坊さんに来ていただきました。

しかし、私はもとより、父でさえ、そういう儀式には疎く、どちらがどちらのお坊さんなのか全くわからずに、お坊さんがいらして、座敷にご案内申し上げても、「あ、この仏壇は違いますよ」と言われた事もありました。ひぇ

でも法事が続き、何回か来ていただいるうちに、だんだん違いがわかるようになりました。

>>> 以下、私のチェックリストであります。

まず、曹洞宗の方のお坊さんは着てるものが派手です。オレンジとか。

浄土真宗の方は、(ウチにいらっしゃるお坊さんは)いつも黒でした。

曹洞宗は、お経はソロ・オンリーです。

浄土真宗はソロが終わったら、お経本を配り、みんなで、いっしょに声を出して、お経をあげるんです。

お経が終わった後、お坊さんが語られる事も、曹洞宗のお坊さんは、仏の道とか、念仏の唱え方など、かなり、かしこまったかんじ。

浄土真宗のお坊さんは、もっと、カジュアルで、みんなの世間話を聞いたり、個別アドバイズのような、コーチングのような事をやったり。ビジネスの話などもしていました。

まあ、これは、その時に私が感じた印象なので、誤解があるかもしれません。(おそらく、あるでしょう)


そして、なんやかんやで、ひととおりの事が落ち着いて、これから父が一人になるので、寂しいだろうなあ。と思っていたら、北海道の弟が牧場の仕事をやめて、春に、九州に戻ってくる事との事。おそらく弟も父の事を思いやっていたのでしょう。ホッとしました。

だったら、私とトッシュは、もう少し父のそばにいて、そして、弟と入れ違いに、あと、半年待ってから、アメリカへ戻る予定にしました。

。。。私の実家は北九州市の門司港というところにありました。

これは父の描いた絵です。門司港駅(父は引退後、絵を描いてました)

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門司港は昔は九州の玄関口、鉄道の始発駅で、港町だったというのもあり、戦争前はかなり栄えていたので、その頃の建物などが残ったままとなり、今では、すっかり観光スポットになっているみたいです。

これは1990年のトッシュと関門海峡。

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この写真で見ると、今でも綺麗ですが、その頃は、典型的な斜陽都市で、昔の活気はまったくありませんでした。若者は都会へ行き、めっきり人口も減っていました。

私も高校を卒業したら、すぐ祖母のいる東京へ引っ越したので、それ以来、こんなにどっぷりと実家にいる事は、ほとんどありませんでした。

なので、この時は自分が私が生まれ育ったこの地方都市の習慣や、日本とアメリカの文化の違いなどを、今一度、冷静に観察し、学習する機会に恵まれた。。。。っていうか。無理やりですが。。。(苦笑)

本当にアメリカと日本は違う事を実体験!!

アメリカにいると、なんでも、まず、「自分から」はじまります。

「英語」という言語自体がそれを表しています。全部、アイ= I ではじまりますから。。。自分が何なのか、自分がどういう人間なのか、自分は誰なのか、自分は、何をするのか、それが好きなのか、嫌いなのか、。。いつもいつも明確に言葉にして、それで他者=社会との関係が成り立ちます。

そして、自分のアイデンティティは自分で決める。

しかし、日本の場合。(今現在は、日本に住んでないのでわかりませんけど、少なくとも当時。)

そんなに、自分というものをはっきりさせなくても、生きてゆける。ぼんやりで、ぜんぜんオッケーです。

おおかたのアイデンティティは社会とかコミュニティーが「自然に」作ってくれます。

つまり、私はその時、「長女」というだけで十分でした。

アーティストとして、作品を作ってるとか、アメリカ人と結婚してるとか、ロンドンの美術館に作品が収められるとか、そういうのは、必要ないんです。 そんな事を人前で言うと、「自慢している」と思われます。

自分の意見をはっきり言うと、周りの人から威圧的なキャラだと思われ、「夫がアメリカ人で、自分は英語ができる」と思って、エラそうにしてるとか態度がデカいとか言われます。

実際にそういう事が何度かあったので、さすがの私も学びましたよ。苦笑

そのおかげで、門司港にいる間に、少しずつ「周りから嫌われないようにするテクニック」を習得しました。

さて! その方法とは?

この情報を今、皆様と共有したいと思います。

それは、ですね。

いつもヘコヘコして、喋る前に、まず、頭をさげて、

「あのー、すみませんが」と、言ってから、用件を言う。

です。

買い物に行っても、「あのー、すみませんが、これください。」

タクシーに乗っても、「あのー、すみませんが、駅までお願いします。」

病院でも、「あのー、すみませんが、お薬はどちらで?」

レストランでも「あのー、すみませんが、コーヒーお願いします。」

〜などなど。

ともかく、この言葉で言い出せば、すべての事がスムーズに運びました。

以下、オリジナル・バージョン付きで!!

銀行で書類待ちの時「あのー、すみませんが、あと待ち時間はどのくらい?」

あのねー、さっきからズーーートまってんだけどぉ〜???

うどん屋でも、「あのー、すみませんが、さっきの注文、まだですか?」

いつまで、待たせやがるんかの〜?? さっさと、持ってきやがれ!

あのー、すみませんが、もう少し静かにしてもらっていいですか?」

てめぇら!!っるっせーんだよ!!オノレ〜!ドツきまわしたろか〜〜?!!オ〜?

ここに表示のオリジナル・バージョンは、きっぱり忘れて、上の翻訳バージョンのみにしましたら、それ以来、私は、誰からも怪しい人だと疑われる事もなくなり、むしろ、「感じにいい人」だと言われるようになりした。

この方法が役に立たなかったのは、試してみましたが、子供と犬くらいでしたね。。。

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門司港は、いわゆる田舎では、ありませんでしたが、それでも、当時はトッシュのような白人は、歩いていると、かなり目立っていたようです。

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高校の時の同級生と久しぶりにあった時、トッシュの事を話すと、「あー、あの人!!!よくひとりで、歩いとる外人やろ! あの人が旦那さんやったん??」などと、言われたり。笑

友人の子供は、トッシュに「サインをくれ」と言い、毛深い腕を見て触らせてほしい、とも、いいました。笑


また、この毛深い、ヘアリー状況は、理髪店でも、問題となりました。

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ある日、トッシュがが太宰治のような髪形にしたいと言いだし、彼は、日本語ができないので、私は、写真を持って一緒に床屋に行き、「こういう髪形にしてください。」とお願いしました。

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だいたい終わった頃、待ってる私のところに「あのー」と理容士さんが、来て、「後ろ、どうされますか?」と言いました。

つまり首の後ろのちょうど刈り上げみたいになってるところ、を剃るらしいのですが、毛が多くて、どこが首と背中の境界線かわからないというのです。

私は「あ〜、そこは剃り始めたら、多分お尻までいくと思うんで、適当なところで、お任せします。」と答えました。笑


トッシュは昼間は散歩に出かけ、それ以外は家にいて、何やら執筆活動をしておりました。詩も書いていたのを父が知って、トッシュの詩集を作ろうと言い出して、昔ながらの印刷工場で、これを作りました。

もちろん、限定版!!(欲しい方はご連絡をお待ちしてます!)

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これはその後、アメリカの出版社から、新しくなって再度、出版されました。わーい!

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この本には、もうひとつ面白いエピソードがあって、ずっと秘密だったのですが、この際もう時効なので、お話しますと、、、、

その昔、門司港が栄えていた頃、あの!!あの!!ど天才!!

アインシュタイン氏が門司港にいらっしゃった事があるらしい。

皆様も当然ご存知のこの方です。

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それを誇りに、(まあ、観光のネタにしてて)門司港駅の前に、彼が宿泊したという部屋を再現してる展示があったのです。

で、その時、お茶目な友人が、こっそりそこに忍び込んで、その展示のテーブルの上に、先ほどのトッシュの本を置いてきたんですよ!!

これ、スゴくないですか〜〜〜?爆笑

まるでアインシュタインがその本を読んでたかのように。。。

それは、しばらく、そこにそのまま、置いてありました。笑

そして今、それから30年後、、、、ネットで検索してみると、まだ展示はありますが、、、、、、、

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この写真で見る限り、なくなってるみたいですね〜〜〜?!!爆笑

今でもあったら、スゴいって思ったんですが、。。。


そんなこんなで。。。。。。

あっという間に春になり、私とトッシュは父に見送られて、アメリカに戻ったのでありまーす!!

ふううう〜〜〜〜〜〜〜

久しぶりのロサンゼルスは、相変わらずの青い空でした。

あの、慌てて日本に戻った日と全く変わらない、、、、。


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そして、アパートに戻りました。家具もそのまま、すべてが同じ位置に、そこにありました。

まるでタイムマシンに乗って、門司港へ行き、すぐにもどってきたかのように。

あの実家でのいろいろな出来事が、まるで、夢だったかのように、何もかもが、同じでした。。。。

ただ唯一、「日本での1年間が現実だった」と、証明していたものは、部屋の中に広がっていた、注意深く見ないと見逃すくらいの。。。

霧のベールのようなホコリ。。。。

それは、まるで私の脳に焼きついた、記憶の皮膜のようでした。。。。。


つづく。


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