見出し画像

面会謝絶!【大学病院血液内科54日目】

ようやく体調が戻ってきていた。
入院中の父の方ではない、看病中の娘の風邪の具合である。

これからまた毎日、いやほどほどに自分の体も労わりつつ面会に行けると思っていた。面会に行って何かできるわけではない。洗濯物や差し入れ(といっても大したものはいらないと言われてしまう)入浴頻度が少ないためにガサガサになってしまう顔や手足をタオルで拭いたり軟膏を塗ったり…そんなもんなのだ。でも、毎日顔を合わせることが大事なんじゃないかと勝手に思っていた。仕事の事情、家の事情ともに幸いにも私はそれができる環境なのだから、と。

ところがその「できる環境」が、自分の力の及ばないところで大きく崩れていくことになる。

リハビリを増やし、薬を減らしていく

治療は順調のように思えた。
一時はアクテムラの減薬(投与間隔を空ける)により炎症反応がガーっと上がってしまったこともあったけれど、免疫抑制剤ネオーラルを追加したり、ステロイドを調整したりしている。数値も少しずつ落ち着いてきているようだ。

ほかにも、尿として体液の排出ができるように使っていた利尿剤を減らしてみましょう、などTAFRO症候群の症状を抑えるために必要な薬のベストバランスはどこなのか?を探るための治療が続けられている。

またこの週からリハビリが1日2回、それぞれ50分ずつ実施というわりとハードなものに移行していた。立ち上がり、歩行、関節のトレーニングなどをひと通りやった最後の最後に『じゃあ自転車漕ぎましょうか』と10分間のバイク漕ぎのプログラムを組まれたときは、父もさすがにPTのっぽ先生に『ドS!!』と叫びたかったようだ。

ただ、のっぽ先生には戦略がおありになる。
父の廃用症候群の度合いはかなり重い。TAFRO症候群の治療がある程度落ち着いたとしても、日常生活が送れるまでに体の機能が回復するのはもっと先になってしまうだろうという予測のもと、リハビリ転院が必要と判断されていた。

リハビリ転院とはその名の通り、リハビリのために病院を移ること。このご時世、長い期間の入院はどこの病院もさせてくれない。「リハビリのため」という目的のもとに想像を超えるハードなリハビリメニューが実施されるはず。そのために大学病院にいる今から、少しずつリハビリを増やしておかなければいけない、というのが戦略だと聞いている。

今は『ドS!』と嘆きたいところ。
それはこの時の父が、こののっぽ先生の戦略に本当に助けられることになるのをまだ知らないからなのだ。もちろん娘もまた同じであったのだけれど。

前代未聞の世界的大流行

中国の一つの都市から始まったと言われる新型コロナウイルスの感染拡大。病院内にも大きく張り紙が出されているのは知っていた。「早く収まればいいけれど…」とどこか他人事のように考えていたからなのだろうか、まさか自分の身に降りかかってくるなんて思っていなかったのが正直なところだ。

面会禁止。
入院中の父に会えない。
それがどういうことなのか?は、前回の自分の風邪で少しは体験していた。

でもこの時点ではまだどこか他人事だったように思う。「とはいえ、必要なものを病室に届けるくらいは」とか「とはいえ、気温が上がってくれば(インフルエンザと同じような感覚)」など、楽観的に捉えている自分がいた。

実際、院内放送の翌日はいつも通り面会することができた。
病棟内も情報が錯綜しているようで『面会できると看護師さんに言われたから』と父。
まあそれでも「いつも通り」とはちょっと違うか。病室に入るのではなく、看護師さんに車椅子に乗せてもらい、食堂に父が出てくる形での面会だった。

今後どうなっていくか?について父と話してみるも、まったく予想がつかない。とりあえず必要そうなものは余分に持ってきて、足りなくなって困ることがないようにだけしようと決めた。父も「なんとかなるよ」と言ってくれ、患者や家族も病院に協力しながらやっていくしかないよね、と話していた。

そして。週が明けた3月初日。
いよいよ家族でさえ病室に入ることはおろか、面会することができないというお達しが出ることになる。

この日は父が機転を効かせて自主リハビリの名目で食堂に出てきてくれ、タイミングを合わせて私が食堂に行くことでかろうじて面会成功。でもこの日以降、特に平日は会うのは難しいだろうというのが父と娘の見解だった。

この日は父が救急搬送されてからちょうど100日目だった。
これから先どうなっていくんだろう…治療も、感染拡大も。まったく予測はつかなかったけれど、父のおかげでさほど悲観的にはならずに済んだ。『未来についてグダグダ言っても仕方ない、今できることを探してやるだけ』これが父のいつもの口癖であり私たちへの教えだった。

経験したことのない感染症の大流行に、経験したことのない希少難病。ダブルで降りかかってきたわけだけれど、おそらく父は「今できることは何か」しか考えていない。

娘も、それに倣うまで、なのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?