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【講師エッセイ】vol.28 ユキ先生/コミュニケーション文化の違い

はじめまして。GLOBAL CROWNで講師をさせていただいております、ユキ先生です。初めてnoteを執筆します。今回のテーマは「日・米豪コミュニケーション文化の違い」です。

その前に、軽くゆるく自己紹介しますね。

私は米国ペンシルベニア州の大学で国際政治と心理学を勉強し、馬車馬のように課題を捌く日々を送っております(笑)両親の趣味で0歳の頃から日本語と英語の両方を使う環境で育ちましたが、幼稚園での日本人、アメリカ人やオーストラリア人との日常的な交流も、その「環境」の1つです。

特にオーストラリア出身の方のコミュニケーション文化や価値観には、子どもながら大きく影響されたと同時に、今の私のアイデンティティ形成にとても強く関係しています。後者についてはまた機会があればお話ししたいです。

言う文化と聴く文化

文化について、漠然と英語圏は「言う」文化、日本は「聴く」文化というのはご存知の方も多いのではないでしょうか。この「言う」文化と「聴く」文化の違いを私が強く意識し始めたのは小学校1年生の時です。

幼稚園では喧嘩が起こるたびオーストラリアの方が「泣いても何も解決しないよ。何か言いたいことがあるなら泣く代わりに意見を言いなよ。」と他の子に言っていました。彼はまた、相手に対する敬意を示した上で、反論をするのは正しいコミュニケーションだとよく言っていたため、私はよく一丁前に反論していましたし他の子も反論していました。自分の発言に対して反論が返ってくるのが私にとって「普通」のことであり、仲間意識に基づく分類を子どもはしない分、「言う」文化は普遍的なものと信じて疑いませんでした。

小学校での気づき

悲劇が起きたのは、ほぼ日本人の小学校に入ってからです。ある時、私はクラスメートと口論になり、それまで通り反論が返ってくるだろうと思いつつ自分の意見を言いました。するとその子は反論する代わりに泣いてしまい、私は一瞬何が起きているかわかりませんでした。

それまでも喧嘩で泣く子はいましたが私はどこか対岸の火事として捉えていたのかもしれません。焦っていたところに他のクラスの先生がいらっしゃり、私を叱ってくださったのですが(本気で叱ってくださる人の存在はとても貴重です。今ならわかります。)当の私は相手がなぜ泣いているかがわからないから焦燥感はあれど罪の意識がない、それゆえなぜ叱られているかがわからない、反省に至らない、繰り返す、の無限ループに陥りました。

その後じっくり小学校の授業を受けてみるとどの先生方も「話しましょう」とは言わず「人の話をよく聴きましょう」とおっしゃるではないですか。そこで初めて気づきました。

「この教室という少々不可解なプラネットでは、話すではなく聴くことが大事なのだ。」と。

相手の話を最後まで聴くという他者への敬意を表す日本文化、今では大好きです。「聴く」ことに長けている方はコミュニケーション能力に長けていると言っても過言ではないと思います。ただ幼い私は異文化なんて言葉は知らなかったのでかなり戸惑いました。でもこの経験があったからこそ、相手にとって最善のコミュニケーション方法を探し相手に配慮できるようになったと思います。

たまに「性格上の問題だろうから気にしなくて良い」と言われることもありますが(笑)性格が原因であればここまで敏感になっていないですし、文化の違いに戸惑った経験をないことにされ、「性格」のせいにされると、言語化は難しいですが、私のアイデンティティを否定されたような気がするのです。

相手を思うコミュニケーション

とにかく、日・米豪コミュニケーション文化は敬意の表現方法が違うだけで少なからず相手を思っているのです。日本語では「聴く」ことにより、英語では「話す」ことによってです。

このような異文化比較は比べることによって優劣をつけるものではないです。文化は善悪や正誤のものではないからです。むしろ、文化が自分に合うか合わないかの問題です。そのため、私自身の生活圏の文化を大事にしつつ、自分に合った文化や価値観を取り入れて、人として成長していきたいと思っております。そしてこの記事が帰国子女や留学生、これから海外での生活を考えている方など、文化の違いに戸惑うという経験をされたことがある方の助けに少しでもなっていたら幸いです。

最後になりましたが、このような稚拙な文章をお読みいただきありがとうございました。またnoteでお会いできるのを楽しみにしております。

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