見出し画像

8)尾形は100 ヴァシリは140 杉元は55と答える【金カムロシア語】

Мерить всех на свой аршин.
[ミェーリチ・フシェーフ・ナ・スヴォーイ・アルシン]

ロシアのことわざで「何事も自分の物差しで測る」。аршин[アルシン] は長さの単位でおよそ71センチ。

今回は163話のヴァシリvs尾形…の前にちょっと寄り道。
ゴールデンカムイ(作中現在軸は1907~08年) の後の1915年、ロシア帝国は日本から有坂銃(三十年式/三八式) を輸入する。まずはそんな第一次世界大戦に従軍した有坂銃のお話から。

【読了まで 13分】


照準が合わない?

有坂銃の第一次世界大戦での活躍について、ケルスノフスキー著「История Русской армии [イストーリヤ・ルースカイ・アルミイ](ロシア陸軍史)」が言及している。

それによると輸入した日本小銃(有坂銃) は『慌てて発行した取説が杜撰ずさんで照準が合わず、ひと冬の間、弾は敵の頭上を飛んでくことになった』って…何それ阿鼻叫喚の地獄絵図じゃないですか…

そしてそうなった根本的な原因を『照尺が日本の単位と漢数字で刻まれていたから』と語る。

…日本の単位と漢数字?
にほんのたんいとかんすうじ??

"Наспех изданное наставление для стрельбы из японских винтовок допустило грубейшие погрешности, с исправлением которых Ставка ничуть не торопилась. Прицелы этих винтовок были нарезаны в японских мерах и японскими цифрами. Поправки к небрежному наставлению, своевременно составленные, были в Ставке положены «под сукно». Всю зиму 1915/16 годов наш Северный фронт стрелял в воздух, поверх голов неприятеля…"
──А. А. Керсновский ≪История Русской армии≫ Часть (том) IV

【拙訳】
「慌てて発行された日本小銃の取扱説明書は極めて杜撰ずさんな出来だったのに、最高司令官総司令部は修正を急がなかった。小銃の照尺は日本の単位と漢数字で刻まれていたのだ。修正案が速やかに提案されたにもかかわらず、最高司令官総司令部で無視されてしまった。1915~16年のひと冬の間、北方戦線では弾丸が敵の頭上を飛んで行った…」

左:95話から三十年式の照尺。右:114話から三八式の照尺──ゴールデンカムイより

ケルスノフスキーが言っているのはこの引用画に描かれた部分のことなんだけど、実際は尾形の説明通り、メートル法とアラビア数字が使われている。
何処から尺貫法を漢数字で刻んでたみたいな話が出てきたんだ???

(※「表尺」と「照尺」の違いについては後半に図解有り。但し、この回を読むにあたって両者の厳密な定義の差が問題になることはない。同じ部位に言及していると思ってもらっていい)

オチを言うと、著者ケルスノフスキーは生まれも住んでたのもロシアではなく、出版もロシアではない(現セルビアの首都ベオグラードにて1933年~1938年にかけて出版。1994年にロシアで再販)。
amazon見れば分かるように「現在ではフィクションのカテゴリに移された、かつての歴史書」。
現物を見れば一目瞭然なのだから、いくらでも画像検索できる現代において漢数字うんぬんの言説が信じられてるわけではないので安心されたし。
そもそも1904年時点でロシア軍の推薦図書だった武器専門誌においてイラスト付きで照尺が「メートル法とアラビア数字」だと解説されてるからね。

1904年発行の武器専門誌「Оружейный сборник(武器コレクション)」の三十年式歩兵銃の分析記事より 中央右に照尺[*6]

しかし一体なぜそんなフェイクが……
これは是非、当時のロシア語版取説、探して確認してみようぜ。

日本語の取説 と 翻訳後のロシア語の取説

🟦ロシア語の取扱説明書

探せる限り最古のロシア語の取説は、輸出が始まった1915年の物で、確かに同じ年に二つ発行されている。

1915年発行の有坂銃のロシア語版取扱説明書──左:フョードロフ大佐版[*4]  右:カバコフ大佐版[*5]
  • 三十年式取扱説明書(フョードロフ大佐版)1915年発行[*4]

  • 三十年式+三八式の取扱説明書(カバコフ大佐版)1915年発行[*5]

発行日までは分からなかった。この二つがケルスノフスキーの言う初版と修正版か定かではないが、次の理由から「フョードロフ大佐版」は初版と見なして良いだろうと思われる。

  1. フョードロフ大佐(最終階級中将) は有坂銃輸入時に武器弾薬の専門家として来日した軍人であること
    ⇒ フョードロフ大佐より先に取扱説明書を作成できる者がいるとは考えにくい

  2. 日本は三十年式から売買契約を結び、後から三八式を輸出したこと
    ⇒ 三十年式単独の取説なのは三八式の輸出以前に作成されたからと考えるのが自然

🟥日本語の取扱説明書

日本語取説は、国立国会図書館デジタルコレクションから年代の近い物を検索(※資料のリンク先は文末参照)。ロシア側が実際に「これ」を元に訳したという意味ではないので注意。

有坂銃の取扱説明書──左:三十年式[*2]  右:三八式[*3]
  • 「三十年式歩兵銃及騎銃保存法」明治36年/1903年 [*2]

  • 「三八式歩兵銃及騎銃説明書」明治41年/1908年 [*3]

⬛検証と結果

ロシアでは型式を西暦で振り直している。三十年式が「1897年式」三八式が「1905年式」。同じ部分の説明を同色のハイライトで塗り分けた(見づらい人ごめん)。
結論は「翻訳は正確である。翻訳は一切間違っていない」。
さすがに軍の公式取扱説明書で翻訳間違いなどなかった。

日露取扱説明書翻訳検証図 [*2][*3][*4][*5][*6][*7]

きちんと翻訳できていたのなら「取扱説明書が間違っていたせい」でも「漢数字だったせい」でもない。尺貫法じゃないんだから「日本の単位だったせい」でもない。

…と考えていたところで思い至った。この「○○の」って言い回しがややこしいんだ。「日本の」って具体的にどういう意味か。
「日本の単位(Японские меры [イポーンスキー・ミェールィ])」を

  • 「日本(独自)の単位」と訳すなら ⇒ 尺貫法

  • 「日本(で採用)の単位」と訳すなら ⇒ メートル法

そう、ロシアがメートル法じゃなかった

当時、ロシアではアルシン法を使っていたため、尾形が交換したベルダンM1870も、ヴァシリの相棒トリョフリニーカ(モシン・ナガンM1891) も「шаг[シャーク](歩)」という単位が使われている。そして刻まれている数字は有坂銃と同じくアラビア数字である。

シャークは「一歩いっぽ」を表し、冒頭の аршин[アルシン] とほぼ同じ。両者約71センチ。1メートル=1.4アルシン(シャーク/歩)。

⬛フョードロフ大佐版 と カバコフ大佐版 の違い

実際のところ、同じ年に取説が二つも出た理由は、遅れて売買契約された三八式の分が追加されただけなんだけど、それとは別に単位についての記述が顕著に改善されている。
「フョードロフ大佐版」は単位について説明不足が否めなく、何のことわりもなくメートルで説明が始まり、最後の最後に一度だけ「100メートル=140歩」と書かれていた。

この頃の小銃というのは一斉射撃戦術を想定して設計されたものだった。
一人一人の小銃にスコープは搭載されておらず、照準を指示するのは指揮官で、指揮官の号令で一斉に発砲する。
また前回触れた通り、当時の識字率は現代ほど高くなかった。

取説を読んだり換算したり、という知識を、持っているのも求められるのも指揮官のみ…ということであれば、最後の最後に一度だけの説明でも充分だとフョードロフ大佐は判断したのかもしれない。
だけど、どうだろう? 極限状態の前線で、単位が同じならせずに済む手間をやらされるわけで…

例えば、対象との距離を700歩と見積もって照準を合わせる場合、トリョフリニーカの感覚のまま「7」の目盛りを使ってしまうと、実際には700メートルの目盛りなため、遥か遠く980歩に照準されてしまう。700歩はおよそ500メートルだから使う目盛りは「5」。
『弾丸が敵の頭上を飛んで行った』は、構造的にはあり得る話だ。

高さを極端に表しているものの「弾が敵の頭上を飛んで行く」はこんな感じ。弾道は弧を描く

しかもフョードロフ大佐の説明文は『我が国の小銃は50歩毎に目盛り作るが、日本の小銃は100メートル毎=140歩毎の目盛りしかない』という書き方なため、これでは「換算よろしく」ではなく「50毎ではないのでよろしく」としか伝わらないだろう。

一方、カバコフ大佐版では文中の全てのメートルに括弧付きで「шаг[シャーク](歩)」を併記。両単位の換算表が付き、その表の直前にはハッキリと『照尺の目盛りはメートル単位の距離で刻まれ、100メートル=140歩毎になっている』の文言が入った。

フョードロフ大佐(左) とカバコフ大佐(右) の単位の違いについての説明

ちなみに、トリョフリニーカがアルシン法からメートル法に変更されたのは1930年設計分(M1891/30) から。下図は1941年発行の教本[*8]。旧タイプの照尺との違いを図で丁寧に説明している。

1941年発行の「小銃M1891/30」の教本[*8]から。この頃のトリョフリニーカ(モシン・ナガン) は名無しの小銃になっていた。青線より左のイラスト二つがメートル法になった照尺。右のイラストがヴァシリの使っていたアルシン法のM1891の照尺。どちらもアラビア数字

⬛「火器を探し求めて」

フョードロフ大佐は後年、この第一次世界大戦時の武器不足に奔走した話を、回想録「В поисках оружия [フ・ポーイスカフ・アルージヤ](火器を探し求めて)」にまとめている(第4回の補足で触れた「История Винтовки [イストーリヤ・ヴィントーフキ](小銃の歴史)」もフョードロフ大佐の著書)。

それによると確かに「有坂銃を巡るトラブルはあった」そうだ。ただし、それはケルスノフスキーの話とは全く違うものだった。

有坂銃はウラジオストクから上陸した後、遥かユーラシア大陸を横断してヨーロッパの戦線に送られる。この長距離移動で錆びないようグリースを分厚く塗って対処した。ヨーロッパに着いたら実戦投入の前にグリースを落として整備してやる必要があったのだが、供与された側はそんなことお構いなしに使おうとし、グリースのせいで上手く動かなかったという。そのまま使い物にならないと勘違いして、小銃を放棄してしまう向きもあったようだ。フョードロフ大佐が「徹底的にクリーニングするよう」アドバイスした後、有坂銃は「ちゃんと」真価を発揮した。

また、照準についても書かれており、環境が過酷な冬になると、一斉射撃の際、指揮官から照準変更の指令があっても変えようとせず、一番楽な姿勢で撃つ兵士が多くなるとか。これはロシア兵に限った話ではなく、日本兵でも同じだったそうだ。
日露戦争での奉天会戦(2月下旬~3月上旬)にて、200m~300mの第一照門/固定照門を使う距離(直接射撃(прямой выстрел [プリモーイ・ヴイストリョール])) だったのに、いざ死傷した日本兵から三十年式を鹵獲ろかくしてみると、多くが表尺を立てたままだったと記されている。構造上、表尺を立てると第一照門/固定照門は使えなくなる。

三八式の照尺。直接射撃の状態(左:256話) から表尺を引き起こす(右:300話) と第一照門/固定照門は手前に倒れ使えなくなる仕組み。三十年式も同じ──ゴールデンカムイより

このパターンでも『弾丸が敵の頭上を飛んで行った』だろう。冬に起こりがちな現象だったのなら『ひと冬の間』というのも、全く根拠ない話ではないのかもしれない。

(※直接射撃:飛翔する弾頭は、徐々に発射直後の勢いを失い、重力に引っ張られて落下する。従って弾道は最終的に弧を描くことになる。しかし勢いのある発射直後は、ほぼ真っすぐに進むと見なせる。この真っすぐと見なせる距離が直接射撃であり、第一照門/固定照門として設定されている。有坂銃は300メートル、トリョフリニーカは400歩(284メートル)。この距離を超える場合の照準は、想定される重力落下分、銃口を上げて撃つ。「照準変更」「表尺を立てる」は何しているのかというと、銃口を上げる角度の調節)

考察:頭ん中の物差し

さてゴールデンカムイの世界に戻ろう。

つまり尾形の『距離はおよそ800メートル…』(300話)に対し、返す刀のヴァシリの頭ん中は「距離はおよそ1,200歩…」、樺太出港での狙撃200メートル(214話)は、ヴァシリの頭ん中では280歩だったんだな。そういう風に空間認識してるんだ。そこで興味深いのは、尾形初めましての一発を聞いた杉元の咄嗟の空間認識。

『飛翔音と命中音のすぐあとに届いた衝撃波の間隔で発射地点との距離がおよそ200間(360メートル)と判断した』4話

杉元の頭ん中の物差しは尺貫法なんだ。音を使った距離測定は軍隊で教えられているから、杉元も音速は333m/s [*9] と教えられてるはず。それでもなお『200間』って出てくるんだね。

そして、尾形の頭ん中の物差しはメートル法なんだ(なるほど…頭ん中の物差し尺貫法の祖父が『銃を教えてくる』のは有難迷惑だったと)。
だから163話、ベルダンカしかない尾形は自身を囮にしてでも直接射撃の200歩(142メートル)以内にヴァシリをおびき寄せたわけだ。
地の利なし、換算必須、旧式の銃、単発銃、で勝利を引き寄せるために。
相手は、地の利あり、いつもの単位、現役の主力小銃、5連発銃だから。

集弾率はВ. G.フョードロフ著「История Винтовки(小銃の歴史)」より。同じように撃ってもそれだけ着弾箇所にバラつきが出てしまうということ。数字が小さい方が精度が良い。尾形はヴァシリの顎を撃ち抜いてしまったがベルダンの集弾率からすれば体調が万全でもその位の誤差は出る

ヴァシリは尾形の一発で『間違いなく百戦錬磨の一発だった』と認識する。読者も尾形の射撃の腕はよく分かっているから、その見立てに何ら疑問を抱かない。
けれども実際には頭ん中の物差しと道具の物差しが違うため、尾形は三八式装備時と比べ、銃の性能差を超えて尚、本人比で劣る状態にある。

トナカイを撃った時もイリヤを撃った時も、照準の位置からすると142メートル以内だった。
この時のヴァシリの照準位置は直接射撃の400歩(284メートル) 。300話では1,200歩(852メートル) を撃ったのだからその距離までは狙撃可能だ。
もし銃性能の優位さを活かして142メートルより離れて撃てば…具体的には142~284メートルを堅持しさえすれば、尾形が自滅するのは時間の問題だった。
たった一発で尾形はその事実からヴァシリの気を逸らせ、行動を縛り、ゲームの主導権を握った。

尾形が100メートルと認識している時、ヴァシリは140歩、杉元は55間、と認識する。

資料:

※ロシア側の資料に直リンクはしていません。読みたい方は、取り消し線部分コピペ&自己責任でお願いします。

*1 ケルスノフスキー著「История Русской армии(ロシア陸軍史)」
🟥amazon(※リンク切れ)
https://www.amazon.co.jp/dp/B076HT17SL
🟦Милитера
http://militera.lib.ru/h/kersnovsky1/index.html

国立国会図書館デジタルコレクション
*2 🟥三十年式歩兵銃及騎銃保存法 - 明治36年/1903年 - コマ番号6
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/844324
*3 🟥三八式歩兵銃及騎銃説明書 - 明治41年/1908年 - コマ番号4~5
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/844328
*9 🟥歩兵射撃教範 - 明治36年/1903年 - コマ番号40が音響測量
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1266163

*4 🟦三十年式取扱説明書(フョードロフ大佐版)1915年発行
「Описаніе Японской винтовки Системы Арисака」https://djvu.online/file/OBep4UWFyLeQr
*5 🟦三十年式+三八式の取説(カバコフ大佐版)1915年発行
「Краткое описаніе и обращеніе Японския винтовки системы Арисака образцов 1897 и 1905 гг」
https://djvu.online/file/yhhzx9uZ7qPuR
*6 🟦Оружейный сборник 三十年式分析記事 1904年発行
https://djvu.online/file/a5e9n7lPRBhuj
*7 🟦三八式取扱説明書 1932年発行
「Наставление винтовка Арисака」
https://www.scribd.com/document/441368560/Vintovka-ARISAKA-M1905-1932-pdf
*8 ⬛1891/30年式小銃教本 1941年発行
「Наставление по стрелковому делу (НСД-38) : винтовка обр. 1891/30 г.」
https://www.digar.ee/arhiiv/nlib-digar:133463(※リンク先エストニア語 リンク切れ)



  1. ロシア語台詞は単行本を基本とします

  2. 明らかな誤植は直しています

  3. ロシア語講座ではありません

    • 文法/用法の解説は台詞の説明に必要な範囲に留め、簡素にしています

    • ポイントとなる言葉にはカナ読みを振りましたが、実際の発音を表しきれるものではありません。また冗長になるため全てには振りません

  4. 現実世界の資料でロシア側のものはロシア語で書かれたものにあたっています。そのため日本側の見解と齟齬そごがある可能性があります

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?