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2)狼に追いつけたか─日本語台詞とロシア語台詞は違う【金カムロシア語】

第二回は182話と183話。
ソフィアのウイルク評とそれを訳すキロランケについて。そしてこの作品のロシア語台詞を読むにあたっての大前提について。

【読了まで 5分】

ゴールデンカムイのロシア語台詞を楽しむシリーズです。
単行本読了済みであることを前提に執筆しています。
ロシア語には縁が無いよって方にも楽しんでいただけるよう書いています。


ロシア語解説:

今回、取り上げる台詞と、ロシア語台詞から日本語へ筆者が再訳を試みたものが以下の通り。

ソフィア『Он был чистым и красивым человеком.
(彼は純粋で美しかった)』182話

【再訳】
「彼は純粋で美しい人だった」(※彼=ウイルク)

ソフィア『Вилк любил волков. Говорил, что они достойные и красивые животные…
(ウイルクは狼が好きだったわ 「純粋で美しい」と…)』183話

【再訳】
「ウイルクは狼が好きだったわ 「気高くて美しい動物だ」と言って…」

ソフィアがロシア語で話すのを、キロランケが日本語に通訳する体裁で話は進む。
違いは「純粋」に当たる言葉。キロランケはどちらも「純粋」と訳してしまったけど、ソフィアが語るウイルクのそれと狼のそれは別。

彼女は両者を同一視していない

ウイルクを評する言葉は「чистый [チーストゥイ]」。「清廉」「純粋」「ピュア」。語源は「不要なものを削ぎ落とす」「濾過」。

狼を評する言葉は「достойный [ダストーイヌイ]」。「価値ある」「威厳ある」「気高い」。一般的な訳語として「純粋」を当てる言葉ではない。
この訳によって「ウイルク=狼」「ソフィアもそう言った」と刷り込むのは意訳の範囲を越えている。

ソフィアは、狼を「достойный [ダストーイヌイ]」と評するウイルクを、「чистый [チーストゥイ]」と評した。
この感覚こそが彼女のものであるのに、キロランケはそう通訳してくれていない。
ロシア語を話すソフィアとロシア語を話さない者たち(アシㇼパ、白石、ロシア語に縁のない読者)の橋渡しをしてくれているはず、という通訳の信頼を裏切ってしまっている。

鯉登『「すぐに返さんとそのパヤパヤ頭を三枚おろしにして犬の餌にする」とロシア語で伝えろ 月島軍曹』
月島『難しい表現の通訳は出来ません141話

月島の第一言語は日本語。だからついロシア出身のキロランケのロシア語に比べ「大したことないのだろう」と先入観を持ってしまうが、むしろ月島は軍事通訳として堅実な仕事をしていてそつがない。

展開:

すなわちロシア語の台詞が、あの世界で本当に発せられた言葉で、日本語はそのロシア語台詞を聞いた人のバイアスが掛かってしまっている。

🟦ロシア語台詞
⇒ ゴールデンカムイの世界で実際に発せられた言葉(客観的事実)
🟥日本語台詞
⇒ 上記を会話相手がどう受け止めたか(主観的事実)

これがロシア語台詞を読むに当たっての大前提になる。
そしてロシア語台詞と日本語台詞との差異は最後まで作中で解説されず、直にロシア語台詞を読まない限り知ることができない。

同じ吹き出しの中に日露両言語が併記されているんだから同じこと書いてあると思うじゃない? でも実は堂々と違うことが書いてある
違うってのは誤りではなく、作者と監修が意図を持ってやっているって意味ね。

この183話までにも「日露の台詞が一致してない」箇所はあったのだけど、それが「意訳として有りなのか」「意図的なのか」(あるいは単なる「誤訳なのか」)判断の決め手がなかった。
でもこのくだりで、通訳という形で初めて両言語が同時にあの世界に存在したことで「発話者はロシア語で語っていること」「日本語台詞はロシア語での趣旨が歪んでいること」が明確になった。
そしてそのことに気付き得る証人として尾形が居合わせた。前回やった月島のツッコミからのオチは、あの世界では誰にも伝わらなかったのと違って。

当シリーズは、作者と監修がつけた両言語の差異から物語を掘り下げていこうってのが趣旨だよ。

考察:

この作品自体、登場人物たちがそれぞれの立場と視点から主観で語る「信用できない語り手」であるけれども、特にキロランケはその傾向が強い。

キロランケはウイルタ族を『俺たち』と呼び、その生活を心配していたが、両者の間に政治対話があった形跡はない。対話があって同盟関係にあるのなら真意を隠して近づく必要など無いのだから(この作品における政治的野心を抱く者たちは誰一人として世間と対話しないことに留意されたし)。
『俺たち』の正体は「俺一人の意見じゃない。皆そう思ってる」と主語を大きくしているものだ。

『俺たち』と見なした相手は自分と同じ思考をしているはずであり、別の思考をするなら『俺たち』ではない。ゆえに彼にとって確定事項である「ウイルク=狼」を否定する者は『俺たち』ではない。
だからソフィアの言葉を捻じ曲げてでも『俺たち』の中に留めようとするし、『俺たち』の中から出て行くのであればウイルク本人であっても許さない。
どう見ても怪しい尾形を樺太に同行できるのも、依頼を断らずこなしてくれている限り『俺たち』と見なすからだ。

日露両方に精通し政治的な話を解説してくれているようでいて、実は非常に偏向した話をアシㇼパも読者も樺太編で聞かされ続けてきたことになる。しかも隔絶された状況下で。
そのバイアスを取り除いて客観的事実を知るためには、ロシア語台詞を読む必要がある。

そしてソフィアが下した「ウイルクと狼は別物である」という評価は、アシㇼパの母も同意見だったように思える。「狼に追いつく」では「未だ後塵を拝す」としか受け取れない。実の父親からは「狼」そのものの名前を与えられたのに「いつか追いつけるといいわね」と格下げになってしまった。
インカラマッからもアシㇼパからも、狼と同一視する発言はない。
ウイルクの評価は男女で真っ二つに割れている。

この「ウイルク=狼」というのは男性キャラたちの評価に過ぎない。
作中の視点が男性キャラに偏っているために、見事に我々読者は作者の術中にハマり刷り込まれてしまっているだけだ。後々の回で触れるが「鶴見=切れ者」も同様である。

一見描かれていないように見える女性キャラたちの内面や人物像は、ロシア語を読むことできちんと描かれていると分かる



  1. ロシア語台詞は単行本を基本とします

  2. 明らかな誤植は直しています

  3. ロシア語講座ではありません

    • 文法/用法の解説は台詞の説明に必要な範囲に留め、簡素にしています

    • ポイントとなる言葉にはカナ読みを振りましたが、実際の発音を表しきれるものではありません。また冗長になるため全てには振りません

  4. 現実世界の資料でロシア側のものはロシア語で書かれたものにあたっています。そのため日本側の見解と齟齬そごがある可能性があります

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