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課題を抱える子どもの現実...大人は何を伝えられるのか

日頃から仕事はハードワークでしたが、
ここ数週間は特にハードに過ごしていました。

福祉や教育の現場はなかなか複雑なケースが多いものですが、私が関わっている現場ではよりコアで厳しい課題を抱えるケースが多数あります。

以前の記事『我が子を捨てないために考えてほしいこと』でも触れたように、虐待の問題を抱える親子のケースもあれば、
子どもが学校でトラブルを起こし、それによって学校側と家庭側もトラブルとなるなど…

問題行動が目立つ子ども達の様子を知るために、
実際に学校現場へ行き、行動観察し、
子ども達の心情を捉え、その点をふまえた対応策を先生方と検討することが度々あります。

その目立つ子達は、自分の感情と上手にお付き合いができず、暴れている子達がとても多いです。
物に当たる子もいれば、人に攻撃してしまう子
しんどいことから逃げたくて教室から出ようとしてしまう子
勉強や集団活動についていけず、現実逃避でその場にそぐわないことをしてしまう子
さまざまです。

そしてこれらの行動がどうしても他者に迷惑をかけてしまう結果となります。

彼らは最初から悪意を持って迷惑になることをしよう
と思っているわけではありません。

苦手なことと直面した時
勉強が思うようにできなかった時
友達関係で嫌なことがあった時
頑張ったのに成果を出せなかった時
彼らは悔しくて、つらくて仕方ありません。
そしてそのつらさを堪えるだけの力がまだ身に付いていません。
我慢するまえに衝動性の方が勝ってしまい、
カッとなって何かしらの困った行動や攻撃性が表に出てきてしまいます。

後になって本人も自分のしたことに気付き、
反省や気まずさを感じるのですが、
ネガティブな感情が高まったその瞬間は自分で自分を止められません。

私も何度もそういった衝動的に暴れてしまっている子達を止めに入りました。

その時の彼らは物凄いパワーですので、
こちらもかなりのパワーが必要です。

とにかく悔しさを解消するために彼らは必死です。
そして大人はそれを止めるのに必死になります。
大人側がケガすることもしばしばです。

現場は、体当たりで対処しないとどうにもならないことが結構多いのです。

専門家はそういった現場に助言や支援をする役割がありますが、言葉で、理屈で「○○すると良い」「こうした方が良い」と言っても、問題が発生している大変な時にその理屈が通じることもあれば、通じないこともあります。

理屈やら理論などは頭の片隅に、
知識や情報として備えておくことはもちろん大事です。
ですが、もっと大事なのは、いかに子ども達に
「あなたも周りの子も守りたい」「大事にしたい」
という熱い思いと真心が伝えられるかどうか。
それが本当に大事なことではないだろうか、と思うのです。

先日も、愛着不全の子が大暴れし、他害行為を繰り返していました。
支援が必要な子として数年前から関わっている子で、
もう長い付き合いになってきましたが、
年齢が上がるにつれて、感情と行動の抑制ができず、
力が強くなってきたこともあり、攻撃的な行動が頻発していました。

隙あらば近くにいる人に攻撃し、
注意されると余計にキレて攻撃が増す。
確実に相手を仕留める術を理解し、攻撃している様子でした。

その一方で、自分を必要としてほしい
甘えたい
大事にしてほしい
認めてほしい
嫌いにならないでほしい
そう思っている様子もはっきりと見られるのです。

気持ちが落ち着いている時は、誰よりも甘えてきますし、優しい一面もみせてくれます。
甘えたい・大事にされたい欲求が満たされず
少しでも人から否定のような言葉を言われると
途端に怒りに変わってしまうのです。
なぜ認めてくれないんだ!と。

そういった子には
クールダウンした状態で、物事の善し悪しや
いくら認めてもらいたくても、やって良いことと悪いことがあるということ
何でもは叶えてあげられないこと
などを諭しますが、
その時は頭では分かっていても、
いざとなると教わった言葉が頭に浮かんできません。

衝動的な行動が表に出てしまった時、
起きてしまったことは仕方ない面もあります。


未然に問題行動を防ぐことができなくても
せめて、その時とその後に、
彼らとどう向き合うか。
どれだけ心と体で、ぶつかり合うかのように向き合うことができるかが大事になってきます。

話は戻りますが、先日暴れた子。
その子は私に怒られるのは怖いと思っているので
目の前でやんちゃはしても、
私に攻撃を加えることまではしない子でした。
叱られると、一旦は行動を止めることも
できていましたが
最近はそれもできず、
友達にケガをさせてしまいました。
どうせ最後はゆるしてくれるだろう
親にも言わないだろう
と、思って行動はエスカレートし、
ニヤニヤして、悪さを楽しんでしまっていました。

これまでの対応ではもはや改善しない。
何かトラブルを起こしても大人が謝るなり
後始末をするだけだから自分は関係ない
そう誤学習しているのだと、私はその時感じ取りました。

ニヤニヤしながら隠れていたその子を引っ張り出し、
「将来警察に捕まりたいのか⁉」と私は怒鳴りました。

このままでは、この子は大きくなってもっとトラブルを起こし、人を傷つけ、捕まるような出来事を起こしてしまう。
以前からその心配をされていた子でもあったので、
今止めておかないと
悪意を断ち切らないと
この子の将来は少年院送りだと、そう思ったのです。

そこまでの状態にしてしまったのは家庭だけでなく、その子に関わる自分達大人の対応も甘かったのだと痛感した瞬間でした。

彼がトラブルを起こした時、
大人がすべて対応してしまい、
その子は自らの口で謝るということすらできていなかったのです。
友達をケガさせた時、
親や先生など、大人が代わりに相手方に謝り
その場をおさめていたのです。
私もその大人の一人でした。

本人に直接叱ることはしても、
本人にきちんと謝らせるということはできていなかったのです。

これが一番の問題だったのだとその瞬間気付きました。

なので、私は「今日は絶対に、相手のお父さんお母さんに謝りに行くからな!」と宣言しました。
私の言葉の勢いに初めてその子は固まり、行動が止まりました。
そして本当に私はその子を連れて、
ケガをさせてしまった子の保護者に事情を説明しに行きました。

本人は、本気で相手の保護者の前に連れて行かれたことと、相手から叱られるかもしれないという恐怖で、私から逃げようと暴れ出しました。
それでも私は、その子が逃げないよう抱きかかえ
顔やら腕やら、体をあちこち引っ掻かれ、
殴られても離さず連れて行きました。
「何も言わなくても良い!謝るのは全部先生が言うから、顔だけは見せなさい!相手の人の顔を見なさい!」
その言葉に観念したのか、
その子は私の胸元に顔を埋め、じっとしがみつきました。

結果、私の方が傷だらけの状態になっていたので
相手方は驚かれていましたが、
その子のことを快く許してくださりました。

許してもらえたことに本人もホッとしたのか
私に抱き着いたまま大人しくしていました。

「今回は許してもらえたけど
 この次はそうはいかないかもしれない。
 怒る人だってもちろんいる。
 世の中優しい人ばかりではない。
 許してくれた人達のことをもっと大事にしなさい。
 人の優しさを大事にしなさい」
最後にそう話し合って、その子と私の体当たりの戦いは終わりました。

その後はお互いに普段と同じように話をし、
その日別れる際には、私に抱き着いていました。

今回のことで、何か少しでもこの子に響くものがあれば良いのだが…

そう思いながらその日はさよならし、
後日会った時には他害行動や攻撃的な面は減少しました。
ふとした時にイラっとしていることはありますが
誰かを攻撃するという選択はしなくなりました。
学校でも行動が落ち着いてきているようで、
もちろん先生方が熱心に関わってくださっていることもありますが、
初めて自ら謝りにいく、責任をとる、
ということをして、
大人達の思いが、何かしらその子に届いたのかなと感じています。

今回のような体当たりの関わりというのは
なかなかしづらい社会になりましたが、それでも必要な時はあります。

世間からどう言われるか、
人からどう思われるかなどと、
気にしている場合ではない時だってざらにあります。

世間体やら周りの目など
そんなことばかり気にして、
その結果、子どもの将来が後々
後ろ指さされる状態になることの方が問題です。
それは大人達の罪です。

恥をさらしても、
周りから何か言われても、
目の前の子どもや、
自分が救いたいと思う人、
そういった人達のために
体当たりで向き合えるか
心から向き合えるか
どれだけの思いを相手に注げるか

それらの大きさで人や物事を変えることもできれば、
それに至らないこともあります。
至らないのであれば、
思いの大きさはまだまだなのかもしれません。

こちらは深い思いをもって向き合っても、
相手からすれば足りないという場合もあります。

お互いの思いの大きさ・強さ、懐の深さなどは違います。
違うからこそ伝えるのが大変です。

その違いと難しさを飛び越えて、
自分にとっての最大のパワーでぶつかっていくこと。

これは言葉だけではできません。

言葉だけでなく、行動も伴って、感覚を磨いて
熱い思いを伝えていく。
そういった人が多い社会になれば、
世の中の問題はぐっと減るのではないでしょうか。
不幸な子ども、不幸な人が減るのではないでしょうか。

福祉や教育の現場だけでなく、
どの現場においても
政治においても
言葉と行動に誠意と真心を持ち
良い意味で遠慮なく
ぶつかっていく人が増えれば
何かと問題の多い社会になることはないのに…
と、そう思う今日この頃です。

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