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我が子を捨てないために考えてほしいこと

子育て、子どもとの関わり方、子どもに関する悩み…
そういったことの相談や支援の仕事をしていると、
なかなか強烈な言葉を聞くことがあります。

「我が子が可愛くない」
「自分の子だけど、好きだと思えない」
「スキンシップを求められるのも正直いや」
「こんな子いらない」
「死ねって思ってしまう」
「あの子がいるせいで私は今つらい目に遭わされている」

職業柄、高頻度でこういった言葉を話の中で聴きます。
言っている親本人も、いろんなしんどさを
抱えるがゆえの言葉とは分かっていますが、
聴く側としてもつらい言葉…

そう言わざるを得ない親の今までの苦労や、
子育ての理想と現実のギャップの大きさに
耐えられない気持ち、
子どもが何かしら問題行動を起こしており
お手上げ状態になっている…

親のつらさと悲しさは承知の上ですが、
一方で、親だからこそ我が子を憎まないでほしいという思い…
おなかを痛めて生んだ我が子になぜ無償の愛を捧げられないのかという怒り…
それらがふつふつと湧き上がってしまう自分を感じる瞬間です。

このふつふつと感じる憤りや悲しさは、
親にそう言われてしまった子ども本人の気持ちを
そのまま受け取っているのだろうとも感じる瞬間です。

我が子を憎むような言葉を言わざるを得ないほど、追い詰められた親。
親も頑張った末にどうにもならず、
自暴自棄になって言う人もいれば、
根本的に育児能力が乏しい人、
実は子どもが苦手な人、
情緒不安定やうつなど、精神的つらさを抱えた人、
望まぬ妊娠・出産だった人、
家庭に課題や問題を抱える人、
親が追い詰められる理由は様々あり、いずれも複雑な問題を抱えています。

子ども側の事情も複雑で
発達障がいを抱え、こだわりの強さや衝動性、物事や他者との間で理解できないことが多いなど、特性からくる困り感が目立つ子。
親との愛着形成が不十分なまま育った子。
自分の気持ちを素直に言えない子。
親への関わり方が分からない子。

子どもも大人が把握できないほど、多岐にわたる苦悩をひっそりと抱えています。
その中で、子どもなりに毎日必死に生きています。
親と同じく、子どももつらさを背負っているのです。

そのつらさを背負った子が、親に「いらない」「死ね」など言われてしまう。
つらいながらも親に認められようと、
好かれようと、見捨てられまいと、
子どもなりに頑張っている中で
追い打ちをかけられる言葉…
こんなに不幸なことがあって良いのか…

言う側も、言われた側も、両者ともに不幸な現実です。

このような不幸な現実の真っ只中にいる家族と、私は頻繁に出会います。

かなり特殊なケースだろうと、一般的には思うかもしませんが、
私達の世界では特殊などではなく、日常茶飯事。

虐待やネグレクト、家庭崩壊…
実は当たり前のようにそこかしこに起きている事象です。

我が子を「いらない」「死ね」と言う親の中には、
悲しみとどうにもならない虚しさから言う人もいれば、
自分は被害者だと言わんばかりに開き直って発言してしまう人、
怒り任せに言ってしまう人、
様々なパターンがあります。

苦しみの末に、自分をも傷つけるように
自暴自棄の言葉を言う人は
本当は自分が子どもに対して
”十分な親になってあげられない”
”私が親じゃない方が良い”
という罪悪感があります。
それが形を変え「いらない」という言葉で
表現してしまうのです。

自分は被害者だ!
子どもが自分を苦しめようとする!
とにかく憎い!
そんなふうになってくると、子どもとの関係修復は望めません。

あっけらかんと、自分の意見は正当だという態度で言ってしまう人はなおさらです。
ここまでくるともう、子どもが不幸になる未来しか見えません。

子どもに歩み寄る気持ちに欠けており、
子どもが自分に尽くすべきだ、
親の気持ちを理解して従順に動くべきだ、
という考えに発展しています。

子どもが子どもとして尊重されることはありません。

思い通りになるか、そうでないか。
そこが基準となり、思い通りにならない我が子は可愛くない。
どこへでも行ってしまえ、目の前から去れ、
となってしまうのです。

残念ながら世の中にはこのような不幸な親子がいるのです。

残念ながら無償の愛というものが存在しない親子がいるのです。

無償の愛ではなく、見返りがあってこその愛…
そういう親が実は増えているのです。
「私がこれだけしてあげてるんだから、あの子はそれなりの成果を出すべき」
「私がこれだけしてあげてるんだから、良い子であるべき」
~してあげた、という言葉が無自覚に多く出てくるのです。

親がそもそも精神年齢が低く、幼いために、
「~してあげたのに!」
「もっとこうしてくれたら良いのに!」
「私が困らないように気を遣って行動してよ!」
こんなことを無意識の奥底で思っているのです。

我が子に対して、自分をケアしてくれることや、
楽にしてくれるサポートやフォローを求めているのです。
だから子どもはしんどい。
未熟な親の感情と都合に振り回され、苦悩している子は多くいます。

心理的虐待はこういったところから始まってくるのです。

そして、それをしている側は自覚がない。

「いらない」とまで思っていなくても、
「私のために良い子であってほしい」
「私の都合に合わせて察して動いてほしい」
「私の望む反応や行動をしてほしい」
「私の望むように賢くあってほしい」
我が子への要求がやたらと多い親も結構います。
それこそ無意識で、多くを求め過ぎます。

今の自分の気分や、してほしかったこと
それらに合っていないことを子どもがすると感情的に怒ります。
そして自分の要求をぶつけます。
ちょっとのさじ加減で子どもはえらい目に遭うのです。

それに子どもが苦しみ、生きづらいと感じさせてしまうと
心理的虐待とも言える状況になっていくのです。

こういったものは目に見えず、
証拠も残らない出来事なので、
何を虐待として、虐待としないのか、
とても分かりづらく、闇が深いです。

そんな中で明らかに言葉の暴力や
子どもに圧力をかけ苦しめている状態であり、
心理的虐待とも言えるケース。
これに対して児相や、子どもの福祉を守る機関の
対応の遅さが目に余ります。

衣食住は安定しており、生活には問題が無いから…
金銭的な問題はないから…
証拠がないから…
決定的なことはまだ起きていないから…
このようなことを言って、
結局事態が大事になるまで行動を起こそうとしない。
全ての機関がそう言っているわけではないですが、
扱いにくい内容として後手に回りやすい。

世の中には通告義務があるにも関わらず、
通告するべきケースほど、なかなか通告されない。
通告されても対応が遅れたり、進まなかったりすることも多々。
一方で、過度に通告するパターンもあります。
些細なことでも通告、通報。
他者のことに過剰に反応して首を突っ込みたがる、噂したがる人も問題。

結局皆、虐待や通告すれば良いかどうかの基準がぼんやりしていて、
いざという時判断ができない。

一体どうすれば、親と子を救うことができるのか。
不幸な子どもを増やさずに済むのか。

人としての道、生き方、在り方を常に考え、
自他を思いやり、慈しむ心
見返りを求めず、無償の愛と気持ち
それらを高めて生きていきたい…
そう思う人達ばかりなら、このような世の中にはなっていないでしょうに…


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