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高校教師(Indian summer)

 私が無意識に口ずさむ哀愁漂うメロディーがある。

「それ冷蔵庫開けながら鼻歌する曲なの?」

と夫に少し笑われるが、この映画をふと思い出すことがあるのだ。あのトランペットを真似するフリして。Valerio Zurlini(ヴァレリオ・ズルリー二)監督の「高校教師」である。(テーマ曲はMario Nasimbeneというイタリア大御所作曲家によるもの)

 主役のアラン・ドロンはフランス人だが、ヴィスコンティをはじめとしてイタリア映画界に非常に愛された俳優だ。(吹替の時が多いが、自身でイタリア語で演技している時もたまにある)ちなみにイタリア語では「アラン・デロン」と発音する。日本人的にはちょっと「でろん?」ってちょっと間が抜けた感じになる。

 彼はいつでもちやほやされてキラキラ輝いていて、王子様みたいな(まさにヴィスコンティの「山猫」のタンクレディみたいな)役柄が多いけれど、この映画の彼はそんな路線から一歩外れた、人生に使い古されたような男である。中年男、無精髭、低所得者。当時はなかなか彼としては冒険に出た仕事だったと思うが、かえって彼がひどく気に入る映画となり、後にこの映画の版権を彼自身が買っている。本人も男として歳を重ねるごとに、あの王子キャラから一線をかくしたかったのかもしれない。

 この映画の舞台はイタリアのリミニという町。リミニという町はよく片田舎として取り上げられるイメージがあるのだが、きっとフェリーニの出身地だからかもしれない。フェリーニは田舎から出てきた異彩の漫画家、映画監督として名が知れている。田舎特有の閉鎖的な部分を忌み、またそういう世間が狭い地域性だからこそ生まれる色々な反発心、疑問、怒りが原動力となって類まれな才能につながるというのはよくある話だ。(ペドロ・アルモドバルとかもそういうイメージ。そして二人ともなんだかんだ故郷に執着がある。フェリーニは「青春群像」でリミニを舞台に撮っている)この映画でも田舎町のネガティブな部分が裏テーマとして描かれている。

 アラン・ドロンの役どころは、その町に流れ着いた部外者、謎多き男ダニエレ。高校教師の職につくが、不真面で、しかもすぐにギャンブルでお金を擦ってしまう不良教師。(いや不良ではなく、異端児と言いたい。授業中、タバコを吸うし、勝手に自習にしちゃうし、生徒にはタバコを与えちゃうし・・・しかし授業の内容は勉強したいやつだけ、ついてこれるやつだけついてこいというような難度の高い課題を出し、生徒への質問なども一人一人を見抜いている感じ、彼なりの教育方針はちゃんとある。あの観察眼、文学好きな生徒はついていくだろう。こういう教師が実際にいてほしい、と私なんかは思ってしまう。)彼は担任のクラスの美しき女生徒ヴァニナが気になり始めるが、彼女には成金男の恋人がいる。彼女は色気はあるがどこか単なるマネキンのような、いつも表情が無くまるで生きる屍のような異様な19歳である。お互いおそらく過去に何かあったであろう、哀しく謎めいたその二人はやがて惹かれ合い、この閉鎖的な田舎町で周囲の非難と好奇の目に晒されながら、禁断の愛を育んでいくという話。

 こう話していくと、単にドロドロのメロドラマのようだが、このそれぞれの影の描き方とかキャラクター設定、たびたび登場する物語のキーとなる詩、終始退廃的な人物と町を表すカメラワーク、また暗示的なセリフなども印象的で、そしてあのテーマ曲がその暗鬱とした感じをその形のまま包み込む。実はダニエレは結婚もしているのだが、その夫婦関係の歪さもなかなか描写が秀逸だと思っている。シーンが少なく不明確な点も多いのだが、おそらく最初から最後まで契約があったからこそ成り立っていられた夫婦。その脆い関係、それこそ夫婦そのものなんじゃないかとハッとさせられる。夫婦について既成概念に囚われず考える余白が持たらされている。

 私はあまりミーハーな方ではないと自負しているが、この映画は舞台巡礼したいぐらいファンである。以前、マルケ州のAnconaの近辺にあるVilla Favorita(17世紀末期の建築)には訪れたが今ではビジネススクールになってしまい、撮影当時から残っているものはわずかとなってしまった。(廃墟となっていた時期に訪れたかった)とても美しい八角系の建物で、元々伯爵の家、1階には台所と劇場などもあったという。出窓も素敵である。(スクールのスタッフが親切に説明してくれた話では泥棒防止のデザインになっているとのことだったがよくわからなかった)

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 次に私が訪れてみたいのはリミニの近くの寂れた水族館(ここのシーンはわかりやすいメタファー)と、トスカーナのMonterciniという町にあるルネッサンス時代のフレスコ画、Piero della Francesca作Madonna del partoである。あまり見られない、聖母マリアの妊婦像だ。マリアの妊婦像はイタリアの中でも特にトスカーナを中心に信仰されていたそう。このフレスコ画を急に思い立って二人で列車に乗って見に行くシーンもとてもいいので是非見てほしい。

 私はこの映画のタイトルがちょっと気になっていて、イタリア公開時のタイトルは”La prima notte di quiete" (安楽の前の晩)、これは作中に出てくる主人公の書いた詩のタイトルである。一方アメリカでは”Indian summer"(小春日和)、これもセリフでわかるのだが、その詩の中の一説である。(昔の日本語訳なので、本当に”小春日和”という訳がこの詩に適切なのかどうか少々疑問なのだが)アメリカ公開時はなぜこの部分をタイトルにしたのだろう、その意図が知りたい。また、冒頭の方に、この映画の版権をアラン・ドロンが買ったことに触れたが、彼はその後自分でシーン編集をし、フランスでは”Le Professeur”(先生)というタイトルで公開している。そして日本では「高校教師」という邦題で公開がされている。各国の公開順序が不明なのだが、ということは日本で私が見たものはアラン・ドロン カットVerなのだろうか、それともオリジナルなのか?日本はアラン・ドロンブームだったので、フランスから来たという方があり得そうな話だなと思うのだが、(題名も同じだし)ここは時系列を調べてはっきりさせたいところだ。






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