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国境は燃えている

 「国境は燃えている(原題:Le soldatesse)」:ヴァレリオ・ズルリーニ監督 1965年 イタリア映画

 私の大好きな「高校教師」の監督、ヴァレリオ・ズルリーニの作品。

 私は右といわれてどちらに向けばいいかわからなくなったり、整体で「あおむけ」とかいわれると咄嗟に漢字変換ができないのか意味がわからなくて、上を向くのか下を向くのかできなくなることがある。いつまでたってもできないのだが、なんでだろう、自分がその記号を理解できないわけではないが、瞬時に反応できない。この映画を見ていると、その時の感覚と似たようなものを覚える。

>>過去の記事で「高校教師」も紹介しています!

 この映画は、日本でもよく取り上げられる、いわゆる従軍慰安婦に関する映画である。イタリアには実は「慰安婦」に値する言葉は無い。作中では、puttanaなど「娼婦」の意の単語が使われていて、字幕で「慰安婦」と書かれていたりする。しかし彼女らは、(厳密に言わなくとも)、そもそも娼婦ではない。

 私は最初、映画の原題のLe soldatesseを「慰安婦」と訳させているのかと勘違いしていた。Soldatoというのは英語のSoldierから連想できるかもしれないが、兵士という意味で、その女性形の単語である。なので「女兵士」という意味である。今は女兵士もいるかもしれないが、当時は本当に珍しい、ほぼ造語に近い言葉である。監督の意図を感じる、しかも一言でこの映画を言い表した素晴らしいタイトルだと私は思う。確かにあの戦地で腰の座った彼女らを見ていたら、「女兵士」と呼びたい。

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 1940年頃、イタリアの占領下になっていたギリシャが舞台。主人公のマルチーノ中尉は、各部隊に慰安婦を送り届ける主査として任命される。食料が十分に供給されるため、慰安婦たちは生きるためにと割り切って、積極的に兵士に気に入られようとする。故郷や家族のもとに戻りたいとは思っているが、慰安婦になることへの葛藤はあまりなく、そこの倫理感は皆少しもう麻痺してしまっている。しかし、ただ一人だけ頑なに慰安婦となることを拒みながらもトラックに乗せられるエフティキアという女性がいた。マルチーノは彼女に恋をする。

 マルチーノ自身はこの任務には若干違和感を感じているように見受けられる。彼は黒シャツ軍(ファシスト)でもないし、途中で慰安婦に性交渉を強要する中尉(自分より身分の高い兵士)を力強く叱る。慰安婦=性奴隷としての視点はなく、女性としての誇りを重きにおいてくれているように見える。そして慰安婦へ何度か同情の目を向ける。おそらくこの時代の流れに身をまかせきれず、少々の疑問を抱いており、葛藤を繰り返している青年のようである。しかしそんな彼でも慰安婦を結局戦地へ送り込むのである。彼はもういろいろなものに抗えなかった。上司にも国にも戦争にも自分にも。

 ここにでてくる慰安婦はなんとも華々しい。まずアンナ・カリーナ。(ここにアンナ・カリーナが出てきて不意打ちでびっくり)美しくて華やかで男性の性的視線を存分に受けるが、度胸があって男性を嗜めるよう説得する力がある肝っ玉強い女性という役柄だった。エフティキア役のマリー・ラフォレは「太陽がいっぱい」で有名。この女性陣の中では珍しい貞操な女性、そしてヒロインというべき役柄であったが、そこまで映えがない。これは監督が狙ったところなのだろうか。レア・マッサリは「高校教師」のアラン・ドロンの妻役でも出演していた。彼女のアパズレ的なセクシーさはこの役にぴったりであった。そして2枚目俳優トーマス・ミリアン(先日紹介した「ルナ」にも出ていたし、アントニオーニの「ある女の存在証明」にも出演)の演じる中尉を、美女たちみんなで囲み、それは一見するとまるで戦地の花園ともいえる光景である。しかし私個人としては、彼女らの暗い面を描いてそれを差し引いたとしても、あそこまで魅力的な慰安婦たち勢揃いであることには少々の抵抗感が募る。私が女性だからだろうか。しかし綺麗な彼女たちが、はかなさに美しさを添えていることは間違いないだろう。

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 ズルリーニは、娼婦的な位置づけにいる弱い立場の女性を描くことが多いかもしれない。





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