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自己紹介という名の遺書

 あの時幕を閉じていたら、私は私の人生を『儚く美しい物語』として終えることができていたのに、と思うことがある。一番ドン底に居た時、あのまま、闇に吸い込まれるように消えていたら。

 でも幸か不幸か、私は生き残っている。しかも割と元気になってしまった。今となっては、そこそこ普通に働けて、週末は適当に遊び歩いて、何か充実した風のどこにでもいるただの独身お姉さんなのだ。

 今、私の人生はそんなに悪くない。でもじゃあ、辛かった過去が無かったことになるかといえば、当然そんな訳はない。

 私は自分の人生を見つけるためにnoteに来た。死にたいほど辛くても、今日まで生き抜いてきた意義を見つけ、ここに記したい。

跡取りが欲しかった家庭に長女として産まれた、私は要らない子どもだった


 愛されなかった幼少期だったと思う。いや、愛されなかったなんて生易しいものではない。私はあの家で、大人になるまで存在を否定され続けた。

 自営業の家庭に嫁ぎ跡取りを切望されていた母は、長女である私を産み落とした瞬間、姑である祖母に舌打ちをされたと、それは恨めしそうに何度も教えてくれた。私は産まれた瞬間から望まれない子だったらしい。

 わざわざそんな事実を当の本人にぶちまける母も、どうかしていたと今なら思える。母と祖母の関係は非常に悪く、父は基本的に祖母の肩を持った。自宅で仕事をする祖母と父によって籠の鳥のように家庭に縛り付けられた母は、自由に外出することも帰省することも許されず、まるで奴隷のように家事の一切を完璧にこなした。外で発散することができない母は、憤りを子どもにぶつけるようになった。

 「金があったらとっくに離婚している」「あのババア殺してやりたい」「あのマザコン野郎大っ嫌いだ」2人きりの時、母は鬼のような形相でそういう言葉を私に投げつけた。父はと言うと、よく理由なく私を殴った。不意に目が合っただけで「親を馬鹿にするな」と怒鳴りながらぶん殴られた。そんな私のことを祖母は「気が効かない」「器量が悪い」「太っていて醜い」と、いつも好き放題に罵った。

 私は家の中にいて、全ての大人の暴言や暴力に怯えていた。我が家に温かな会話などなく、常に一触即発の張り詰めた空気を感じていた。

醜い汚いと罵られクラスに居場所はなかったけど、家に居るよりはマシだった


 今はそんな面影もないが、小さい頃は重度のアトピー性皮膚炎だった。体中掻きむしって、血が出ても掻きむしり続けてよく叱られた。スイミングスクールに通うようになってからは、塩素の影響でか顔面の皮膚がボロボロで真っ赤になった。

 子どもというのは無邪気であるが故に、人の心を傷付けることを平気で言ったりしたりする。運動会の練習で上級生とフォークダンスの練習をした時間、面識のない男子上級生たちが私を取り囲んで、赤く腫れ上がった顔を覗き込んだ。手を繋いでもらえず、耳元でボソボソと言われた心無い言葉たちを私は今も忘れられない。

 家庭で人間関係構築のいろはを学べなかった私は、同級生とまともな友人関係を作ることはできず、いつも疎外感を感じていた。それに追い討ちを掛けるように、平均的な他の同級生より太っていて、近視用の眼鏡をかけていて、何だか子どもがイジメの標的にするのに十分な素質を持っていた。「デブ」で「ブス」な私に友だちと呼べる人はいなかった。

 唯一、勉強ができて可愛くて優しい、クラスの人気者の幼馴染がいた。彼女と彼女の家族だけはいつも私に優しかった。どうしたら彼女のようになれるのかと研究したものだけれど、持っているものが余りにも違いすぎた。

 学校で「デブ」「ブス」と言われて辛いと母親に打ち明けた時、「お母さんなんか小さい頃もっと酷いこと言われてたから大丈夫、あんたはまだマシ」と言われた。味方してもらえると思った自分が恥ずかしくて、この世から消えてしまいたいと思った。


どうせみんな居なくなるんなら、最初から私のテリトリーには誰も入ってくるな


 心理学やコミュニケーション技術の本を読み漁るようになって、表面的には人と上手くやれているように見せることができるようになった私は、ダイエットに成功しファッションに興味を持つようになってから、同級生の中で少し目立つ存在になった。

 友人が多く部活に打ち込み、投票で学級委員なんかに選ばれてしまうような、そこそこ安定した地位をクラスで築けるところまで学習した。しかし本心では、こんな自分は演技で成り立っている虚像だと理解していたので、ほんの些細なことで傷付き絶望し、全てを拒絶することで均衡を保ちながら思春期を過ごしていた。

 その頃には、友情にも恋愛にも、全か無かの思考が適用されるようになっていた。グレイが許せなかった私は、絶対的な友情関係を望んでは叶わずに打ちのめされた。誰でもいいから、自分だけの特別な誰かが欲しかった。どんな時でも一番の味方として傍にいてくれる、例えそうじゃないとしても、そう自信を持って言える。そんな存在が欲しかった。

 親に貰えなかったものを欲しがって、探して彷徨っているようだった。そして、肉親以外にそんな関係性を作れる人は存在しないことを知った。私の仮面は益々分厚くなり、どうせいつか居なくなる人のことなんかに絶対に信用してなるものかと、頑なに心を閉ざすようになった。


心身の不調、うつ病、全般性不安障がい、何もかも失って私の人生は始まった


 社会人になって2年目の春、私は遂に壊れてしまった。体が動かない、頭が働かない、涙ばっかり出て息ができない。心療内科でうつ病、全般性不安障がいと診断された。そんな訳ない。私は昔よりずっとまともになったし、素知らぬ顔をして普通の人の中に溶け込めるようになっている。うつ病なんかになるはずがない。

 そう思っても症状は改善されなかった。やっと手に入れた快適な一人暮らしの部屋で、たくさんの薬を飲みながら眠り続ける日々を送った。3ヶ月休職していよいよ退職となり、実家に帰る他に生活する手立てはなくなった。電話をして状況を説明し、拒絶されたら死ぬ覚悟をしたが、父はすんなりと全てを受け入れた。

 実家での治療はもちろん捗らなかった。何しろまともな人格者がひとりも居ないわけだから、責められたり罵られたり蔑まれたりする日常はあまり変わらなかった。

 それでもこの出来事は、私が前に進むためのひとつの大きなキッカケになった。役立たずのボロ雑巾のような私を受け入れ、無賃で何年も家に置いて世話をされたことで、自分は家族にとって不要な存在ではなかったのだと強烈に自覚できた。そして私は、彼らを許す努力を始めた。

 私がうつ病になったことで去った友人も少なからず居た。他方、私がどんな状態にあっても、変わらず支え続けてくれる友人もたくさん居た。まるでおとぎ話のような現実を目の当たりにして、どうせみんな居なくなるという極端な概念は私の辞書から消えていった。

 仮にいつか居なくなってしまうとしても構わない。この時期に寄り添い続けてくれた人たちの存在は、私を強く産まれ変わらせてくれた。


死にたくならないし不安発作も起きない、新たについた私の診断名は複雑性PTSD


 10年近くかけてうつ病の内服治療を終了し、正社員で医療従事者として働けるまでに回復した。内服治療を終了した後も、季節の変わり目に希死念慮が顔を出したり、睡眠障がいで寝られなかったり寝過ぎたりするようなことは時々あったが、それも徐々に消えていった。

 抑うつ症状も不安発作も起こらなくなり、何の問題もないように生きていたが、時々心身の不調が起こり生活に支障をきたした。発熱、ぎっくり腰、扁桃炎、手荒れ、寝坊等々、仕事を休まざるを得ないこともあり、遂に上司から問題にされた。自分と向き合うように言われ、精神科の受診を勧められ、私自身も長年連れ添ってきた生きづらさと向き合ってみようと一念発起して精神科の門を叩いた。

 思えば心身の不調は小さい頃からずっとあった。自覚した最初の症状は、チビの頃、何かにつけてお腹が痛くなることだった。中学生頃からは自称行為が始まり、高校生ではピアスを大量に開け、うつ病になってからはタトゥーをたくさん入れた。ずっと傷付けられて生きてきたから、傷付いている状態を心地良く感じていたのかもしれない。或いはそうあることで、見えない傷から目を逸らしていたのだろう。

 精神科では、私に新たな診断名がついた。

 『幼少期の虐待が発達性トラウマとなり複雑性PTSDとなってしまった。侵襲体験を受けたと感じるとトラウマが刺激され、器にストレスが溜まっていく。そのストレスが器から溢れ出す時に、身体化して種々の身体症状に転換される』

 私の人生を脅かしたうつ病やら全般性不安障がいやらその他諸々の症状が、それ自体が、複雑性PTSDの症状のうちだったのだと、精神科医との対話を通してうっすらと確信した。


 私はこれから、改善するかどうかも分からない症状と向き合うためにカウンセリング療法を受けようとしている。蓋をしていたから生きられてきたような過去の記憶を、赤の他人に掘り返されて傷口に塩を塗られるような真似を自ら進んで行われにいく。きっととても苦しい時間を過ごすことになるのだろう。


 このnoteに書くことは、普段表に出さない私の生きづらさの部分だ。わざわざ人に言いたくはない私の話をここに吐き出していこうと思う。

 私はまだ、私を探す旅の途中に居る。良かったら寄り添ってください。あわよくば応援してください。そして願わくば、誰かの力になれますように。

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