井上陽水「傘がない」は「社会問題」のあり方を描出した珠玉の歌。
井上陽水の「傘がない」という曲を知っているだろうか。
こんな歌い出しから始まるこの曲を、私は以前、少し訝った目で見ていた。すでに議論し尽くされた問題を取り上げ、社会をただ暗い面から切り取っているだけで何も生み出さない歌。そんな印象を持っていた。
しかし、改めて最後まで注意深く聞いてみると、この印象は全くの的外れなものであるということが分かった。
私がこの度聞いたのは、中森明菜さんによるカバーバージョンだった。
本家とは違い、そのメロディーは弦楽器の音色などとともに静かに始まる。それに合わせて響く、彼女の悲しげなハスキーボイスが一つ一つの言葉を丁寧に伝える。
繊細な声に力がこもり、震えて消え入るその一瞬に立ち会うと、こちらも心を震わせずにはいられない。特に、「いかなくちゃ」や「それはいい事だろう?」と歌う彼女の声には、この歌詞の主人公の人生に思いを馳せさせる説得力があった。
以下にその後の歌詞全てを引用する。
この主人公は、一体どんな人生を送っているのだろうか。
「雨」というのは、生きていく上で人生に降り掛かってくる様々な困難のことを言っているのだろう。
しかし、「傘」すなわち、それらから身を守るすべを持ち合わせていないので、主人公はその困難に苛まれるしかない。
そんな状況にあって、唯一の救いが「君」という存在であり、それに会うために「行かなくちゃ」と必死に雨の中を走るのである。
「君」は、恋人や家族かもしれないし、果ては神や仏といった概念かもしれないが、とにかく、雨が目に入っても、それでも見つめ続けるくらいに大切な存在ということだろう。
つまり、この主人公は大きな困難に直面しており、それから身を守るすべも無い。唯一の希望は「君」の存在であり、その居場所へと向かうために困難の中を必死になって走っている。それ以外のことは考えることも、見ることすらもできない。
そんな、「君」という存在に大きく依存した非常に危険な状態。これが、主人公の置かれている境遇なのではないだろうか。
そして、この曲の刮目すべき深淵はここからさらにもう一歩踏み込んだ所に広がっている。
この曲の1番と2番の冒頭の歌詞を再度引用する。
上でも述べたように、この主人公は今、君のもとへと向かって必死に走っている。それ以外のことは考えられないし、見ることすらもできないとまで言っている。
しかしここでは、「君」ではない他人のこと、都会の若者の自殺数の増加や、国家の将来の社会的な問題のことなどが言及されている。
一体なぜだろうか?
これは完全に私の推論であるが、この主人公は、こういった問題の当事者、もしくは、その予備軍であるということが理由なのではないだろうか。
これらの問題が言及されているのは、この主人公が深刻に追い詰められた状況にあるにも関わらず、自殺の問題や、国家レベルの社会問題に思わず目が行って、なんとなくではあっても心に残っているということを表していると考えられる。
そして、その理由は、この主人公は、自分という存在も新聞に書かれている若者達のように自殺への道を着々と進んでいるということや、テレビで言及された社会問題の被害者であるということに無意識の内に感づいているからではないだろうか。
ここにこそ、私が思うこの曲の最も卓越したポイントがある。
それは、この曲は高い視点からこの世界を客観視し、人々に気づきを与えるような立場と、あくまでも当事者の一人称の視点から自分の物語を語る立場の両方を兼ね備えているということである。
都会では自殺者が増えているという客観的な世の中の動向、そしてそれが新聞の片隅にしか載らないほど社会の中で相対的には小さな出来事にすぎないというその有様の悲惨さを伝えると同時に、その当事者の目線で問題の本当の苦しさを描き出す。これがこの曲の凄さなのである。
これら2つの視点をここまで見事に両立させている曲を私はこれ以外に知らない。一方で、前者だけ、後者だけ、という曲ならいくらでもある。
例えば、「We are the world」。
世紀の名曲であり、私も大好きなこの曲は前者である。
遠くから見れば、世界にはこういう人々がいる。私達はこういう状態にある。だからこそ、こうしよう。
こういったメッセージを伝える曲は多い。
また、後者だけ、となれば、それこそ無限にあるだろう。
世の中に出回る曲の殆どはラブソングだが、これのほぼ全ては一人称視点。語られることは、私がどうしたこうした、もしくは、彼女/彼が私にどうしたこうした、のみである。
このように、世の中にある曲のほとんどは客観的視点だけ、もしくは主観的視点だけで構成されているのである。
しかし、「傘がない」は、この両方を持ち合わせているのだ。
そうすることにより、この曲は、言葉によって概念化されてしまった「社会問題」を受肉させることに成功している。「自殺者の数が○年で○から○に増えました。」という無味乾燥な「問題意識」に対して、質量をもたせ、血を通わせ、息遣いを与え、バイブレーションを生み出している。
(さらに凄いのは、この客観と主観の切り返しの自然さである。「だけれでも問題は今日の雨、傘がない」。この短く、簡単な単語だけで構成される一文のみで社会全体を俯瞰する視点から、主人公の頭の中にだけ存在する個人的な気持ちへと何の違和感もなくシフトしていくのである。「自殺する若者が増えている」から「君に逢いに行かなくちゃ」への切り替えを、いとも鮮やかにやってのけているのである。)
新聞やニュースで語られる言葉は概念でしかなく、当事者である主人公の心にすら深くは響かない。せいぜい心の片隅に雨に滲んだ筆文字のような薄い印象を残すだけである。
なぜなら、当事者の日々の生活というのは、そのような薄っぺらい言葉で包み込まれてしまうものではないからだ。それは本来、激しい雨の中、一筋の光を求めて、傘もないままに走り続けていくようなものなのだ。そして、その奔走のさなか、頭の中に思い浮かべることのできる言葉は「行かなくちゃ」の一言だけなのだ。
本当の社会問題とは、どこまでもどこまでも当事者個人の中にあるものであり、その人の今この瞬間を形作っているその精神の姿にこそ現れているものなのではないか?この曲は我々にそう問いかけているのではないだろうか。
曲中、メロディに乗って繰り返される「それはいい事だろう?」という言葉。そこには、裸の人間の姿が表されているように感じる。
本当は、自分が巻き込まれているものが、ただの雨などではなく、もっともっと大きなものなのだと、心のどこかでは分かっている。本来ならばそちらに目を向けて、根本的な解決に邁進すべきだということも。しかし、日々がとてつもなく苦しいのだ。降りしきる雨が冷たくて仕方がないのだ。今は目の前にいる「君」のことしか考えられないのだ。それは「君」を愛しているということだから、それで僕は、「君」と繋がっていられるのだから、「それはいい事だろう?」。
相手に尋ねているような、また、それと同時に自分を説得してもいるかのようなこの言葉が歌われるとき、そこには、人間の弱く愛おしい姿が音となって震えているように感じる。
この姿こそが、社会問題の本当の有り様なのではないだろうか。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!