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死についての思索(7)---新しい死の実践・誰が新しい死を成すか・新しい人間の誕生
今日も私は正直に語らねばならぬ。
正直に語ることは、本当にむつかしいことだ。
「私は、どうやって、いつ、どこで、だれと、死ぬのだろうか?」
ということは、私にとって一番重要な問題である。
そして、もちろん、死の問題は、あなたにとっても重要な問題であるはずだ。なぜなら『あなたも、いつの日か、どこかで、だれかと、どうにかして、その、死、を跨ぎこさなければならない』からである。
私は、死についての問題を過去の文章を引用しながら、加筆的に思索する。
そうして、いわば意図的に、過去の自分を否定的に批評しながら、更なる思索の深みへと向かって、その、在っている、を更新させてゆく。
『加筆とは、人生の方法である。加筆的人生とは、われわれの大半が所有するであろう。われわれは更新をやめられぬ存在者である。われわれは我々自身に対して常に批判を行う主体である。われわれは我々自身を非難はできぬが批判を行うであろう。非難は自己に対する占領であるという点において不可能である。批判は自らにおいて道を切り開く意欲を発見するという点において合理的な視線である』死は自由と密接である。死がなければ自由はないといえる。何故ならば有限性がなければ我々の行為は無限であるからである。我々は有限性の檻の中の生物種であり、ゆえに選択的である。人間は選び取り、決心しなければならぬ。その決心の連続が個人的歴史を創るのであって、選択がなければ創造はない。また、身体がなければ自由もなく、死もない。あらゆる行為は身体的である。現実の世界で力動的なものは身体的生命のみである。死とは身体の消滅であり、運動の消滅である。身体の消滅が死の到来である。身体の消滅に思惟はない。故に我々の死には苦しみはない。苦しみを感じるのは現実世界の身体的存在者である。我々はもうすでに消滅し、規定された運動を己の経験のように反芻して感動するのである。感動もまた身体的行為である。身体のないところに感動はない。故に精神と身体は分つことができぬ。それは単に吝嗇なる空想的ロゴスの、単なる仮の認識に過ぎぬ。身体的ロゴスはしたたかに常に覚めている。身体の目覚めのなかで、新しい死は実践される、に違いないのである。
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