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彼が徹夜をしてまで取った休日に伝えたかった心の中

シングルマザーの私は、塾講師をしながら一人息子を育てている。子育てに励む私だが、息子が高校生になると生活が変わり始めた。子離れを余儀なくされたからだ。寂しさを感じながらも、私は自分自身の人生を見つめ直してみようと思うようになった。

もう一度、パートナーと出会いたい。
ずっと心の底にあった思いを素直に認め、行動してみることにした。40代後半の私には、自然に相手を見つけることは難しい。さらに塾講師は、夜遅い仕事だから一般的な会社員とは時間がずれてしまう。そこで出会いを求めて、恐る恐るマッチングアプリを使い始めた。その中で出会った人と会話を重ねながら、2歳年上の新聞記者をしている彼と出会うことができた。
書くことを仕事にしている彼は、長文でLINEにメッセージをくれる。行間からは誠実さが伝わってくる。付き合いが始まった頃、彼は外勤記者をしていた。
そして数ヶ月が過ぎ、彼は異動になる。デスクという司令塔の立場で、記者たちに取材を促し記事を書かせていく。彼の担当は社会面だ。新聞の顔ともなる大切な紙面だからこそ、責任も負担も大きい。
彼の仕事が内勤になると、私たちの関係にも変化が訪れた。すれ違いが起きるようになったのだ。お互いの時間が空いた時に、何度となく送り合ってきたLINEはもうほとんど送れなくなった。私が送ったLINEには、何時間も既読がつかないことが増える。会える日も少なくなり、変化に心がついていけない。穏やかな日々のはずが、苦しく思えてくる。

「今度の日曜日も、急に仕事が入ってしまいました。あんなに休むと約束したのに、ごめんなさい。だから、明日休みを取ります。まだ予定は入っていませんか?」
いつものごとく、急な予定変更に激しく動揺する。私は急な予定変更がいちばん苦手なのだ。
「マツエクの予約を入れていましたが、キャンセルします。でも、明日は休めないって言っていましたよね? 日曜日は絶対に仕事を入れないとも約束していたのに、またですか?」
イライラしながら彼にLINEをした。何度同じことが起きただろう……何度か付き合いをやめようかとも話したこともある。

「いつもごめんなさい。こんなに頻繁にドタキャンが起きては、奈穂さんを怒らせ続けてしまいます。その度に、嫌な気持ちにさせたくありません。僕がデスクで働く間は、お付き合いを中断していただけませんか? いつも怒らせてしまうので、もう自信がありません」
いつもポジティブな彼が弱気になり、私を突き放すLINEがやってきた。

大人ならありがちな、仕事の忙しさからのすれ違いだ。
話をするなら、どこがいいだろう? 心が疲れると、私は海が見たくなる。きっと深い青い色が心を落ち着かせてくれるからだろう。
その日は、海が見えるレストランで彼と食事をすることにした。休むために徹夜をして仕事をした彼は、少し気だるそうだ。
シーフードレストランの窓一面に海が見える。開放的な店内が気持ちをリラックスさせてくれた。熱帯魚が泳ぐ水槽のそばのテーブルに座り、二人でぼんやりと熱帯魚を眺めていた。しばらくするとスープが運ばれてくる。
「あぁ、美味しい……」
口にスープを運びながら、ふと彼がつぶやいた。
その言葉の奥に、深い疲れが見えた気がした。長すぎる勤務時間、外に出て取材をしたくてもできないジレンマ、部下の拙い記事を手直しする疲労感、上司と意見が合わない無念さ、そして徹夜までしないと私に会えない今……
スープを口に入れることで、自分自身が戻ってきたような姿に、胸が締め付けられた。彼は精一杯、目の前のことをしている。誠実に生きているが、現実はうまく回らない。そして、その現実の中で、私を苦しめることもある。きっと、誰よりも自分の無力さをいちばん感じているのだろう。

人を愛するということは、与えるということだと思っていた。
何かをしてもらおうと相手に望むのではなく、心を与える。それが人を大切にするという意味だと私は疑わなかった。でももしかしたら、それはまだ浅い思いなのかもしれない。もっと深い愛情は、人のありのままを受け入れるということなのではないだろうか。うまくいかない現実を生きている彼をそのまま受け入れる。私にとって都合の良い彼では決してないけれど、ただ無条件に受け入れるのだ。受け入れるということは、エネルギーを使わない、受動的な行為だと思っていたが、思っているより簡単ではないことに気づく。自分に好都合ではないことも受け入れねばならないからだ。丸ごとを受け入れることが、人を愛するということなのではないだろうか。

スープを口に運んだ彼を黙って見つめていると、彼は私に気づき目が合った。慌てて私は笑顔を取り繕ったが、彼自身思うことがあったのだろう。ふと心が緩み、目に涙をためている。慌てて目を押さえ、徹夜明けの疲れた眼差しで彼は私に微笑みかけた。その微笑みが、私には痛々しく思える。
何も言葉は交わさなかったが、都合の良くない彼も受け入れてみたい。現実は甘くはないが、まずは一歩を踏み出さなければ現実は変わらないままだ。

「70代になっても、80代になっても、手を繋いでスーパーに買い物に行くような二人でいよう」
二人でそんな話をする。私たちはとてもシンプルな生き方を目指している。ただ、相手を必要とし、同じ時を過ごす。何気ない日常の中に人の幸せがあるような気がしてならない。
「人は、長く一緒に暮らすうちに、『愛情』の『愛』が抜け落ちてしまうこともある。すると情だけで生きるだけになってしまう。僕たちは『愛』の抜けない二人でいよう」
彼の言葉は、簡単なことではないのかもしれない。それでも互いにパートナーとの別れを経験し心に傷を持つ私たちは、愛とはどんなものかを学ぼうとしている。彼ならば、その答えを私に教えてくれるのかもしれない。
まずは、今の好ましくない状況を彼と一緒に乗り越えてみよう。
カニグラタンのとろんとしたクリームソースを口に含みながら、心を新たにした瞬間だった。

#創作大賞2023 #エッセイ部門