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『紙に触れ、民主主義の脆さを読む』ー「議会への深い失望で「憲政の常道」は終わった」小山俊樹(著)

 今回は、中央公論1月号に掲載されている論文についての文章を紹介したい。

理由は単純で、私が中央公論を購入し、小山先生の論稿を読むにあたって、いくつもの感動があったのを、言いたくて仕方ないから(笑)

私のように「コンサルタント」という職業をしていると、洗練された無駄のない文章や発現を求められるわけだが、私自身無駄な文章が好きなのだ。

仕事と関係ない場だからこそ、書ける文章がある(笑)

ざっと、3つであろうか。
1.「中央公論の紙質」
2.「日本の戦前民主主義研究」
3.「民主主義を構成する国民の在り方」

様々、論稿を越えて感じることが多い、良い経験だった。

1.中央公論の紙質

 紙。紙に感動するなど、どうしてと感じるかもわからないが、私は感動してしまった。

紙で本を読むというのは、方々で経験ができる。私自身、中央公論を購入して読むというのは初めての経験だ。しかし、大学図書館で何度も触れてきた、独特の感触がある。

私にとって大学にいた思い出を引き出すトリガーとしての雑誌。卒業、修了したからこその経験をした。別にリッチな紙ではないのだろうが(偏見)、指が覚えている紙質。安心感がそこにはあった。

たったそれだけだが、それがいいのだよ。わかって欲しいな~(笑)

2.日本の戦前民主主義研究-小山先生の論稿について

 中央公論の歴史を見ると私にはなじみ深い人々が中央公論発刊初期において、ちらほらみられる(高楠順次郎や吉野作蔵ら)。

私は大学の卒業論文のテーマとして「戦前日本民主主義の崩壊の過程」を選んだために、小山先生の論稿には多大な関心があった。

当時の私を振りかえるとえらく、傲慢な研究アプローチをとっていた。本当に私の書いた駄文に何度も赤字を入れてくれた指導教官には、頭が下がる。

私の研究アプローチはフランスの哲学者、ルイ・アルチュセールの「イデオロギー装置論」を持ち出すというアクロバティックな内容で、正直今では読めたものではない仕上がりだと自負している。

いやいや、あまりにも酷い(笑)

 さて、小山先生の論稿の話をしたい(主題)わけだが、正直な感想として時代共に日本の戦前史に関する研究の視座は広がってきていると思う。

私自身、歴史学の研究学徒ではなかったわけだから、何様だと思われるかもしれないが、図々しく「研究文献の内容が広がりつつある」と言いたい。

それこそ、2年前に行われた「坂本多加雄氏 没後20年シンポジウム」で北岡伸一東大名誉教授が坂本多加雄氏に向けた発言が思い出される。

「戦後民主主義というイデオロギーから自由だった最初の政治学者の一人」

北岡先生の「戦後民主主義」という発言について、その定義を問うものもありそうだが、それなら山本先生の本でも参考にすればよいと思うので、詳細に述べる気はない。

今日の日本の戦前の歴史は「単純な、戦前という歴史の否定」というイデオロギー闘争を離れ、様々な研究にイデオロギーを越えてアクセスできる良い時代になったと思う。

 だから、逆に研究者や評論家を志す人たちにも、歴史に対する謙虚な姿勢(客観的に事実を見つめ、受け入れる姿勢)が求められるわけだが、、、

3.民主主義を構成する国民の在り方

 小山先生の論稿を読めば、今日話題の「裏金」など話にならないほどのことであるとつくづく感じるのではないだろうか。

政治献金や「政治と金」を巡って、制度の在り方を国会で議論しているが、私が思うに規制を強めてもさほど意味はないだろう。

なぜなら、規制をしたうえでの、今回の事件だからだ。

 私が思うに、「どこから金をもらうか」という問題ではなくて、「嘘をつく」「隠す」といった行為について責任を問うべきではないかと思う。

日本のような間接民主制における代議員の役割は「利益代表」である。誰かしらから利益を得るのはあたりまではないだろうか。

こういう民主主義の制度面における基本的なことを見落として、精神論に起因した批判に走ると民主主義に対して悲観的になるのではないだろうか。

 小山先生の代表的な本として「五・一五事件(中公新書)」があるが、この時代においても民衆が政党政治を見放し、青年将校の行動を支持していた節が散見される。

戦前の選挙における買収行為は、今日の「裏金-政治資金パーティー」よりはるかに酷い。

じつは戦前の選挙では、票の「買収」が非常に多かった。(中略) 各政党の県会議員・町村会議が実働部隊となり、投票日の間際になると有権者を個別に訪ねて金をまく。

『議会への深い失望で「憲政の常道」は終わった』小山俊樹,「中央公論」2025年1月号,p31.

ルール違反なのだから悪いのは悪いのだが、それを是正するために規制を強めるのが果たして的確なのかは疑問である。

単純にルール違反の議員は、次回の選挙で落とせばいいだし、違反時点での法律に則って取り締まればいい。

違反行為があったにもかかわらず、議会第一党が変わらないとしたらその他の政党が国民から期待されてないわけだ。

 2024年の衆議院選で落選した自民党議員の声として、「2000万円問題」によって風当たりが変わったという声がある。

これは民主主義的に当たり前のことではないだろうか。国民の声や意思が議会に反映されなければ民主主義が機能しているとはいえない。

 世の中では「社会に分断がー」と言う者があるが、日本の政治がさほど分断しているとは思わない。むしろ政治不信を募らせようとも、民主主義制度の外の人間に期待をしないだけ、戦前よりましではないだろうか。

まぁ、外にも受け皿がないだけなのかもしれないが、、、(笑)

 戦前には受け皿があった。結果的にいえば、受け皿としての軍部が期待されてしまったというのがある。

軍部が受け皿として認められた時、戦前日本の民主主義は傾いてしまった。

昭和戦前の政党政治は、多年積み重ねられた議会への期待とともに失われた。これらの歴史は、私たちに何を伝えるか。

『議会への深い失望で「憲政の常道」は終わった』小山俊樹,「中央公論」2025年1月号,p37.

引用した小山先生の言葉が重く響いてくる。

「歴史が何を伝えるか」

きっとそれは、「ルールにこだわる」ことだと私は思う。

罪と悲哀のこの世界では、多くの政治形態が試みられてきたし、これからも試みられるだろう。だが、民主主義が完璧で、万能であると主張する人はいない。実際に、これまで試みられてきた他の政治形態を除けば、民主主義は最悪の政治形態であるだろう。

ウィンストン・S・チャーチル,1947年11月11日議会演説より

 民主主義がいい制度であるかは、古代ギリシアからの大きい難題である。より良い制度を探すのも良い。ただ歴史の文脈から民主主義のルールにこだわってみることからはじめた方がいい。

何事もこだわってみて、本質が見えてくる。私も晩年の西部邁の言葉を聞いて、反民主主義的な考えを持ってた時期もあるのだが、結局は民主主義にこだわるという意見に到達したわけだ。

 自分の意見と違う結果に現実が傾いた時、一部の人は「大衆は愚か」と喝破してみる。だが、それは盲目。彼らは、社会における多様性や元来人間が持つ愚かさというものを見落としている。

自分の支持する政党が、議会で少数政党だった時、それは社会の中で自分の意見が少数であることの証左だ。「大衆が愚か」ではなく、「自分がずれている」と捉え直すべき。

捉え方を変えるだけで、自分の意見は変わらずとも、振る舞いや考え方は変わってくると思う。

 議会は国民を映す鏡だ。昭和100年を迎える日本。戦後日本は大日本帝国と帝国軍を失ったが、民主主義にはこだわっている。

この現状をどう捉えるかは、人それぞれだが、少なくとも民主主義を放棄することを容認した昭和初期の人々とは考え方が違うわけだ。

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