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『暴露と憎悪に満ちた社会』―「世界はなぜ地獄になるのか」橘玲(著)

・暴露全盛の時代


 SNSは様々な情報伝達の速度を加速させました。素敵な情報も、嫌な情報も、すぐに拡散されて話題になります。

WBCやアジアカップの模様は、SNSを通じて熱を帯び、トレンドにのれば、知らない人と感動を共有できます。

一方で、下世話な話題も共有されます。話題は様々ですが、最近は暴露などといったネガティブなものが多い気がします。

 毎週どこかしらで、炎上が起き、その度にSNS上で誹謗中傷が乱発されます。

最近だとラウンジ嬢と寿司屋がもめてましたね、、、

 自慢や暴露、憎悪といった負の感情が前面化してくるとSNS空間の居心地は悪くなり、その過激さが増すと、精神面にも悪影響を及ぼすかもしれません。


 昔に比べて、人々の抱える問題に焦点があたりやすくなったのが今です。

誰でも発信できるようになったからこそ、不正を暴露し正すことができるようになったはずです。


なのに、どうして誹謗中傷といった言葉が飛び交い、
地獄のような状況になってしまうのか?


本書は、その原因を最近の炎上事例を振り返りながら考えていく本です。

・私の耳に入る情報は、誰かが編集したもの


 誰かに情報を、正確に伝えるのは以外と難しいです。どうしても、自分なりの言い回しなどが出てきてしまいます。

人間関係でも、ちょっとした言葉が実は相手を傷つけていたり、けんかの原因になったりするものです。

この「どう伝わるか」は本書において結構重要な点だったりします。

 我々は見聞きした情報を理解するために、脳内で自分が理解できる言葉に変換するのです

それを誰かに伝える時、それは自分に教えてくれた人が意図した意味合いと必ずしも一致しないかもしれません。

A(情報X)→自分(情報X')→B(情報X'')

情報が伝言を通じて、変容していく図式


上の構図のように、同じ情報でも意味合いや理解が変わってきたりもするのです。


 我々は皆、情報編集者なのです。自分の主観や意見が入り込むと、情報を正確に伝えるのは難しくなります。

さらに感情的な状況下だと、情報の正確な伝達は難しくなります。

ゆえに情報を認識するうえでは、冷静になって、少し距離を置く必要があります

 「速報」や「流行り」のような情報は拡散しやすく、すぐ正確さを失ってしまいます。

10年ほど前から、スロー・ジャーナリズムというジャンルの報道方法が世界的に広がり始めています。


誰でも「発信者」「編集者」になれる時代だからこそ、こういう考え方は大事なのではないでしょうか。

・「編集の暴力」と正義感

 「編集の暴力」という名言(迷言?)は、出川哲郎氏の言葉です。


 初めてこの言葉に接した時は、爆笑していましたが、「編集」という言葉は今や「いい意味」「悪い意味」の双方で使われるようになりました。


本当に「編集」とは技術のいる作業なのだとつくづく感じます。


 本書では、小山田圭吾氏の炎上案件が事例として挙げられています。


このいじめの内容を見ると、誰もが小山田圭吾氏を批判したくなるのもわからなくはありません。

 しかし、問題となったインタビュー記事は意図的に編集されて作られていたものと著者は指摘します。

(前略) 障害のある生徒にいじめ行為をしていたのは主に(中学・高校からはいいてきた)「外部生」で、小山田のような「内部生」は、そうした行為に引いていたことだ。(中略) 中三の修学旅行で、クラスメイトの「村田」にバックドロップなどのプロレス技をかけて遊んでいたとき、留年した先輩が現われ、「洗濯紐でグルグル縛り」にして、「オマエ、誰が好きなんだ」と問い詰め、「オナニーしろ」と強要したという場面も同じだ。小山田はこのいじめ行為を面白がっているとされ、強く批判された箇所だが、それは匿名ブログで、このあとに続く「かなりキツかったんだけど、それは」の一文が削除されているからだ。これを加えると、たわいのないプロレスごっこが陰惨ないじめに変わった困惑を語っていることになり、印象は全く違う。 

橘玲『世界はなぜ地獄になるのか』,(小学館,2023),p33-34.


 この他にも当時の編集者が、小山田圭吾氏が事実でないと指摘するような内容の記事を載せている件が書かれています。

実際、小山田圭吾氏はいじめをしていたのか?

いじめは、していたようです。しかし、話題になったような下劣極まりない行為はしていないようです。

では、あの時の彼に浴びせられた言葉は適切だったのでしょうか?


叩いていいなら、我々はどこまでの暴言が許されるのでしょうか?


社会的に抹殺することは適切なのでしょうか?



難しい話です、、、



 ただ、私が言えるのは「正義感」にみなぎった人たちは、タガが外れたように批判を行い、そのありさまは本当に恐ろしいものだということです。

なぜ、「正義感」は人を暴力的な言動に誘うのでしょうか?


 著者は、炎上における批判者は「対象を叩きたいのではない」「対象を叩いて、悪を正している自分が好きなだけ」と指摘します。

不道徳な者を探し出し、「正義」を振りかざして叩くことで、自分の道徳的地位を相対的に引き上げ、美徳を誇示する戦略だ。(中略) 正義の名の下に他者を糾弾することは、社会的・経済的な地位に関係なく誰でもできるし、SNSはそれを匿名かつローコスト(ただ)で行うことを可能にした。これで、「正義というエンタテイメント」を存分に楽しめる。

橘玲『世界はなぜ地獄になるのか』,p150-151.

これは重要な指摘です。この不毛なゲームのプレイヤーでいることは、何のメリットも生み出さないと思います。


・この地獄をどう生きる?


 SNS上の議論は、罵声の浴びせ合いやポジショントークになってしまい、不毛な時間に終わってしまいます。

では、どうすれば自分は被害に遭わないで生きていけるでしょうか?


著者の結論は「地雷原に近づくな」です。

ありきたりです(笑)
でも、それしかないですよね(笑)

冒頭触れたラウンジ嬢の件も、「店主ともめた客がいた」。

「で?」

これで済むと思うんですよ。

 客と店員がもめるケースもありますけど、犯罪であれば警察が出てくるし、状況を知らない一般人が積極的に関与しなくてもいいのです。

 本書の面白さは、忘れられた炎上事件を詳細に見つめ直し、そこにある問題や課題を指摘している点にあると思います。

・「傷ついた」「むかついた」では話はできない(私の所感)


 やっぱり現代人は「感情的」なのかな~って感じます。「スマホ脳」にも書かれてましたけど、刺激が多すぎて感情機能が敏感なのかもですね。

本書を読んでいて考えた点を書いて、終わろうと思います。

「過去の出来事」っていつまで問題になるのか?

最近だと松本人志問題が話題ですけど、これってどこまで遡って問題化するんでしょうね、、、、

 私は別に擁護も批判もしません。

でも、犯罪なら裁判で決着つければいいし、被害を訴えてる女性が訴訟を起こしてないなら、どう考えてるのかな~と。

 私は原則、「法の下で裁かれればいい」と思ってますけど、SNS上では、お気持ち(=主観的な感情による意見)で社会的抹殺まで持ってこうとするじゃないですか。

あれ、一種の「私刑じゃないの?」って感じてて、ヤバい風潮だと思うんですよね~。ある種、アナーキーというか、、、

 だって、「気持ちが悪いから」みたいな理由で叩きはじめたら、もうそれいじめじゃないですか。

悪いことしてるから、いくらいじめてもいいみたいな感覚だったら、話になんないし、胸糞な状況になるだけなんですよね。

 あと週刊誌に関しては、記事書いた記者の名前出しちゃダメなんですかね?

ちなみに、小山田圭吾氏の記事を書いた編集者は本書で実名で載ってましたけど、これ普通のことだと思うんですよね。

記事を書いた責任を果たすためには、実名必須だと思うんですけど、いかがですかね。

 社会的に「言ったもん勝ち」だったら、法律はいらないんで、静観して裁判終わるまで待ってたらいいのにと思うのです。

人間の悪事なんて掘り出せば、なんかしら出てくるもんですからね。

こんな感じで報道とか取材してたら、清廉潔白な人ばかりを求められて、仕事に就きたい人いなくなる気がするんですけど、、、

現代人ってそんなに清廉潔白な人が好きなのかな~。

とりあえず、もっと「落ち着こうよ」って感じですm(__)m


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