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【試し読み】『古都に、消える。』(前田潤)前編

「なさけない息子で申し訳ありません」
そう書き残して失踪した、京都大学5年生の息子。
息子の行方に思いを馳せながら、古墳に耽溺する“私”。
“私”を古墳に導いた映画監督の父親、前田憲二。
三者三様の人生を描いたノンフィクション、『古都に、消える。――流浪の家族と空洞の古代史』が刊行されました。
試し読みとして、失踪前の息子と黄泉比良坂に潜ったエピソードを二回に分けてお送りします。

プロローグ

 先客が三人いた。
 化学繊維の上着を着た初老の男が手帳に何やら書き込んでいる。
 男の脇には女が二人いて、男の手元を覗き込んでいる。
 坂を上ってきた私と息子の気配を察して、三人が同時に顔を上げた。
 風が強くなったのか、森が揺れ始めていた。
 「穴」の場所を知っているのではないかと思い、三人の方に近付いた。
 足元が沈み込むような柔らかい腐葉土の森の奥に、秋の日差しは届いてこない。
 男は、私と目が合うと、「一号墳」と言いながら穴の入り口を指差した。
 目の前の土壁には、闇への入り口と思しき小さな穴が、地面と垂直に口を開いている。
 地図を見ながらようやく辿り着いた目的地に違いなかった。
 小動物ならば、簡単に出入りできるサイズの穴。
 ただし、小動物ならば、の話だ。
 
「もう入りましたか」
 尋ねると、初老の男は眼鏡の奥に軽い笑みを浮かべながら、ええ、と頷く。
 男の脇にいる四十代くらいの女性たちも、笑みを浮かべつつ合槌を打った。
 見ると、三人は皆アウトドア用のヤッケを着て、バックパックを背負っている。
 手には懐中電灯を持ち、女性の一人はヘッドランプも装着している。
 要するに、準備万端、ということだ。
 「狭そうですね」と聞くと、「大丈夫ですよ」と男が軽く応じた。
 こちらの躊躇を見透かされている気がする。
 だがこちらはいつものように思い付きの行動なのだ。準備などほとんどしていない。闇を照らすために、小型の懐中電灯を一つ、古代の面影を残す全くコンビニエントではない街の中をあちこち探し回ってようやく先ほど購入したばかりなのだ。
時計を見ると午後三時を回っている。夕暮れも近い。

 その時、脇にいた息子が、左手でスマートフォンを高く掲げながら首を屈め、小さな穴の中へするりと滑り込んだ。
 こちらを振り返るでもなかった。
 声を掛ける間もなかった。
 ただ、背を折って動き出す息子のその残像に、闇の中に踏み込むことのできる勇気を、私に示そうとする意志が含まれていることだけはわかった。
 三人からもう少し情報を得たかったが、穴の中に消えた息子の後に続かないわけにはいかなかった。

 重い身体を屈めて、見たこともないくらい小さな羨口の前に立つ。
 足元にあるその羨道の入り口は山に向かって直角に穿たれており、穴は山の中心へと向かって横に直進している。
 横幅は大丈夫、余裕がある。
 問題は穴の入り口の高さ。数日前に雨が降ったと見えて、土砂が数十センチ堆積し、穴を塞いでいるのだ。
 仕方がない。
 覚悟を決め尻餅をつき、背をほとんど地面につけるようにして仰向けになり、ぬかるみの中に手を突き、足から狭い穴の中に身を入れる。
 体重が六〇キロもないスリムな息子はまだいい。だがこちらは八〇キロオーバーの巨体なのだ。穴のどこかで身動きが取れなくなる可能性も大いにある。

 頭を潜らせると、湿気と静寂に満たされた世界がすぐに訪れる。
 デニムの尻の部分が冷たい泥の上を這ってゆく嫌な感触がある。
 羨道の長さが九メートルほどしかないことは知っていた。修学旅行で訪れるあの石舞台古墳よりも二メートルも短い。前室も中室もなく、両袖型のはずだから、二、三度手足を動かしさえすれば、すぐに闇の奥の広がりに辿り着くに決まっている。
 穴は狭く、頭がどこかにぶつかりそうで、中腰の姿勢で進むことは到底できない。身体を仰向けにしていても、石の天井は眼前に迫ってくる気がする。やはり雨のせいなのだろう。土砂が大量に流れ込み堆積して、羨道が狭くなっているのかもしれない。
 闇で見えないが、礫を敷き詰めた床面にはガマやトカゲがいるとも聞いている。夏はマムシが出ることもあるらしい。

 息を殺し、歩を進めながら思った。
 間違いない。
 これが黄泉比良坂なのだ。
 玄室へと続く暗い羨道。
 冥界への入り口。
 
この閉ざされた闇の体感を、『古事記』編纂者が知らなかったはずはない。
 『古事記』にあるイザナギ、イザナミ神話。死んだイザナミに会うために黄泉の国へ行き、蛆と八種の雷神に囲繞されたイザナミの姿に驚いて逃げ帰ってくる夫の物語。イザナギが黄泉の国への往来に使う通路、黄泉の国と現世との境界となる道こそ、黄泉比良坂なのだが、七世紀を生きた『古事記』編纂者は、狭く暗い羨道を潜り抜けて死者の眠る古墳石室の内外を行き来する経験の実感を、疑いもなく共有していたはずだ。
 五世紀の百済古墳に学んだとされる、羨道を有する横穴式石室の古墳設計が先なのか、『古事記』を生む伝承の成立が先なのか。そんなことはわからない。
 ただ確信があった。
 闇の羨道をじりじりと進むこの身体的経験は、黄泉の国の伝承と完全に接続している。
 わずか九メートル。
 だが、視覚と身体の自由を奪われた九メートルだ。
 加えて私は閉所恐怖症ときている。
 大地震で突然穴が崩壊しないとも限らない。
 なにせ整備された遺構ではないのだ。

 波立つ感情を押し殺し、仰向けの身体を足元の方向へと進める。道はわずかに下っている。
 後ろ手に突いた掌の粘っこい感触が薄気味悪い。
 次の瞬間、顔にふわりとした空気を感じ、頭上の空間が開いた。
 漆黒の中、スマートフォンの光がぼんやり灯っている。
 冥界に辿り着いたのだ。
 玄室は思いの他広い空間であった。
 立ち上がり、懐中電灯で周囲を照らすと、私の身長ほどもある巨大な石の棺が目の前にあった。

*      *

 奈良県桜井市、赤坂天王山古墳。
 六世紀末、後期古墳時代の方墳。
 二〇一七年十一月三日午後三時過ぎ、私と息子は、蘇我馬子に暗殺された第三十二代崇峻天皇の王墓の玄室内にいた。
 歴代天皇の肉体が実際に埋葬されたと考えられる闇の玄室空間に、現在足を踏み入れることができるのは、実は、この崇峻天皇陵、赤坂天王山古墳以外には存在しない。

 それには幾つかの理由がある。
 まず一つは、天皇陵を中心とした陵墓が、『皇室典範』に基づき宮内庁によって厳密に保護・管理されていることに拠る。陵墓と陵墓参考地の敷地内への侵入は一切禁止されている。国家形成史探求のための資料の宝庫とも言える巨大前方後円墳のような陵墓古墳への調査・研究の要請に対しても、死した歴代天皇の「静安と尊厳」ないしは「静謐と安寧」の保持を理由に、宮内庁がその要請を拒絶し続けていることは周知のところだろう。
 だがもちろん、禁止されているのは、宮内庁が指定している陵墓への侵入である。問題なのは、天皇陵に関して、宮内庁の指定が必ずしも正しくないということだ。「古代」の天皇陵についてはその傾向が顕著で、実在の可能性が高いとされる第十代崇神天皇以降、四十代天武天皇までの天皇陵のうち、正しい治定(陵墓の指定)が行われているのは、天智陵、天武=持統陵など数基に過ぎず、その大方を誤りとする見方もある。宮内庁の治定に全く誤りがないとする識者は、今日その思想的・政治的立場にかかわらずほぼ皆無に等しいだろう。もちろん宮内庁が関心を持たない古墳玄室には自由に立ち入ることができるケースもあり、宮内庁の管理から逃れた天皇陵が存在するならば、原理的にその調査も可能ということになる。

 先述したように、崇峻天皇は大臣蘇我馬子によって暗殺される。
 蘇我馬子は、自らを疎んじる発言をした崇峻を、「東国の調」という儀礼の場におびき出し、配下の東漢直駒に命じ白昼堂々群臣の面前で殺害する。『日本書紀』に拠れば、歴代天皇のうち、天皇在位中に暗殺された者は、第三十二代崇峻天皇と第二十代安康天皇だけである。とはいえ、安康天皇は報復のための殺害だ。第十九代允恭天皇の第二皇子安康天皇は、叔父を殺して奪った姫を皇后としたため、二人の子の眉輪の王によって刺殺された。つまり復讐であり、崇峻暗殺のように、王権の基盤を襲う皇室テロルとは質が異なっている。暗殺が蘇我氏の計画通り運んだためだろうか、崇峻は殺害の当日、殯もせず直ちに「倉梯岡陵」に葬られる。崇峻の死は西暦五九二年。とうに大型前方後円墳の流行期は終わり小型墳墓の時代に入っていた。

 明治政府は、この「倉梯岡陵」を、ここ赤坂天王山古墳ではなく、幕末の山陵家、北浦定政の『打墨縄』(一八四八年刊)を根拠に、南西に二キロほど離れた、奈良県桜井市倉橋の集落内、天皇屋敷という場所に比定(比較考証して対応関係を判定すること)し、明治二十二年に「崇峻陵」を築造する。これが宮内庁の管理下にある現陵となる。
このため、崇峻天皇と関係の切れた赤坂天王山古墳は、国家の管理を離れ、侵入可能な陵墓となったのだ。江戸期には天皇陵とされた古墳が、明治政府によって「格下げ」となった事例は、美人壁画の劣化が問題となった高松塚古墳と、この赤坂天王山古墳の二例を含む僅かしか存在しない。

後編へ続く)

【著者紹介】
前田 潤(まえだ・じゅん)
1966年東京生まれ、埼玉県在住。
早稲田大学卒業。立教大学にて博士(文学)の学位取得。専攻は日本近代文学。
現在、大学、予備校の兼任講師。
主著に、『漱石のいない写真』(現代書館、2019年)、『地震と文学』(笠間書院、2016年)がある。


古都に、消える。――流浪の家族と空洞の古代史
2000円+税 208頁 ISBN 978-4-7684-5901-0

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