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【試し読み】『古都に、消える。』(前田潤)後編

「なさけない息子で申し訳ありません」
そう書き残して失踪した、京都大学5年生の息子。
息子の行方に思いを馳せながら、古墳に耽溺する“私”。
“私”を古墳に導いた映画監督の父親、前田憲二。
三者三様の人生を描いたノンフィクション、『古都に、消える。――流浪の家族と空洞の古代史』が刊行されました。
試し読みとして、失踪前の息子と黄泉比良坂に潜ったエピソードを二回に分けてお送りします。

前編はこちらから ↓

 日本の国土は古墳の宝庫である。
 宮内庁管轄地以外の古墳には、周囲を散策するだけでなく、墳丘に登ったり、玄室に入ったりできるように、整備・開放されている古墳も多い。土地所有者不明のまま放置され、荒れ果てた古墳も無数にある。その中には、調査研究の末、やがては天皇陵に指定される古墳も存在しているに違いない。だがそうした古墳群のうち、現時点で、考古学者や歴史家が口を揃えて、疑いもなく天皇陵であると太鼓判を押す古墳は稀なのだ。
 例えば、平成二十二年に明日香村が実施した発掘調査で、八角形墳であると判明した牽牛子塚古墳。第三十七代斉明天皇陵が別の場(奈良県高市郡高取町大字車木「越智崗上陵」)に治定されているがために、飛鳥の農道を歩きながら誰もがすぐそばまで近付き、凝灰角礫岩刳抜式双室の石槨内部をゆっくりと眺めることができるわけだが、史上はじめて大王(天皇)位を「譲位」・「重祚」(退位した後再び天皇位につくこと)した皇極(斉明)女帝の真陵の可能性が濃厚と言われるこの牽牛子塚古墳にしても、近傍にある岩屋山古墳など、真陵を巡る議論は紛糾し、複雑を極めているのが実情だ。つまり、天皇陵を巡る議論は百出し容易には結論を見ない。

 崇峻陵はそうではない。
 「崇峻天皇の真陵を赤坂天王山古墳に比定するのは、学界のほぼ一致した見解である」
と矢澤高太郎が述べるように(『天皇陵の謎』)、国家の関心から外れ、なおかつ、専門家の
大多数が疑うことなく、実在した天皇の真陵であると考えるきわめて例外的な古墳。
 それが、赤坂天王山古墳なのである。
 私は日本の近代文学を専攻した人間である。
 考古学にも歴史学にも明るくない私は、ごく単純に、本物の天皇、本当の大王、真の権力者を巡る歴史と、彼らの眠る古墳にばかり惹き付けられる傾向がある。
 歴史研究者や古墳愛好者と異なり、元来動機が不純なのである。
 関心の萌芽がそもそも捻れている。

 「自己」なるものの起源。
 どうやら、私の関心はそこに向かっている。
 「自己」を生み出すものとしての「国家」。
 その権力の淵源。
 それを知りたい。

 言うまでもなく、今日「自己」は他者との共同性のもとに、そして当然、国家という「主権」との関わりにおいて存在している。すなわち、「自己」の起源という時、それは、「自己」なるものの全体を管理・統制し、「自己」を生み出し続けてやまない国家という存在の始原と深く関わっている。国家は私が生まれるずっと前から、厳然として私の生きる場所を占めている。自由意思で契約を結ぶこともなく、私は日本国民として生きることを運命付けられている。だから必然、その権力の淵源を巡る問いが、私の頭から去ることはない。国家権力の中心には、「暴力の独占」といった近代的「観念」では充分に語り尽くせない、虚無を糊塗して祭り上げてゆく人間集団の生を賭した営みの歴史が、幾重にも刻まれているに違いないのだ。

 果たして「私」は、「誰」に従う運命を背負っているのだろうか。
 はたまた「私」は、一体どこから来たのか。
 「倭」や「倭人」、「倭国」という呼称。
 「倭王権」、「ヤマト王権」、「初期ヤマト政権」なるものの存在。

 おそらく、三世紀「邪馬台国」を経て、空白の四世紀から、倭の五王の古墳時代中期(五世紀)に至るまでの、列島および大陸諸勢力の関係と歩みの中に、私が知りたいと願っているものの本体が身を隠していることは疑いない。だがそれはあまりにも射程が広く、摑みどころがない。プロの歴史家でさえ、一つの果実を得るために生涯を賭けざるを得ない領野である。門外漢が、自らを得心させるに足る果実を手に入れることは難しい。
 ただ同時に、私は、私たちに与えられた「歴史」を、そのまま鵜吞みにしたくはない。
出来合いの「物語」の一隅に安らぎの場所を見出して眠りにつくことに対する、底知れない恐怖感が、これまでの私の生を突き動かしてきた。
目を閉じて悠久の時の流れに身を沿わせる諦念のような感情といまだ無縁な私は、所与のものとしての「歴史」を、さながらに受け入れる寛容さを持ち合わせてはいない。

 だからこそ私は「古代」に魅了されるのだ。
 「古代」に触れる喜びの一端はそこにある。
 誰もがほぼ手探りで語らざるを得ない時代を深掘りすると、頭を押さえ付けられていた強い重圧から解放され、身体の隅々にまで温かい血が通ってゆく気がしてならない。計測された街路を慎重に歩む日常の拘束から逸脱する愉楽を感じられるばかりではなく、不透明な過去への遡行が、設計済みの未来を揺さぶり、正解の存在しない不定形な世界の扉を開いてくれるのである。正解のないその世界で、私は、束の間の自由を手に入れる。
 しかしながら、「古代」へと遡行しようとする私の欲望は、どうにもある不可思議な困難を招き寄せてしまうようなのだ。

 「私」なるものは、国家や共同体よりも先に、父母の血脈に強く繫がれている。
 考えてみれば当たり前のことだ。
 自己の意志がどうあろうとも、「私」なるものが、これまで血の繫がりから自由であった試しはない。
 著者であるこの私についてもそれはもちろん同様である。
 そしてどうやら私の試みは、今こうして言葉を書き付ける生身の私の心臓をも、鋭い刃で抉り出してゆかざるを得ない気配なのである。

 *      *

 崇峻天皇を埋葬していた家形石棺を前にして、私は予想しなかった奇妙な威圧感を感じていた。
 暗殺された薄幸の天皇の呪力など信じてはいなかったし、そもそもこれまで、霊力や迷信めいたものに振り回されたことなどなかった。
 ただおそらくどこかに、自分が、死者の眠りを邪魔する悪ふざけをしているだけなのではないかという、無意識の危惧があったのだと思う。もしかすると、宮内庁の「静安と尊厳」には、心に訴える存外の効果があるのかもしれない。
 スマートフォンの光と懐中電灯を掲げていくら照らしてみても、一向に明るくならない薄気味の悪い玄室内で、早くも私は外に出たくてならなかった。
 ただ私が誘った以上、息子にそうは言い出せない。
 六畳から八畳間くらいの広さの空間。石積みの壁面。
 手で触れたくはないが、壁の石はどうもわずかに湿っているようにも見える。
 闇に光が吸収され、石室の全容が見渡せない。

 石室内部から受けた印象としては、修学旅行で誰もが訪れる日本最大級の方墳、飛鳥の石舞台古墳を半分程度に縮小したかのようだ。共に方墳であり、大きな石積みで囲われた羨道の延長線上を直進し、羨道よりは幅広く、縦に長い玄室内に入り込むという感覚は、地表にむき出しになった、あの明るく乾いた石舞台の玄室内で感じた感覚と、よく似ている。
 石舞台古墳の被葬者は不明だが、崇峻暗殺の張本人、蘇我馬子の墓だと言われることも多い。崇峻を殺し埋葬を指揮した後、推古女帝を即位させて政治の実権を握ってゆく蘇我馬子の墓が石舞台なら、崇峻陵と築造方法が類似しているのは歴史的必然と言えるのかもしれない。
 眼前にある丈高い石棺を懐中電灯で照らす。
 巨大な家形石棺。聞いていたように、屋根のような棺蓋が重々しく乗っている。石の屋根が少しずれているように見えた記憶があるのは、光量が足りなかったのと、棺の正面に開けられた盗掘穴が視野に入ったための錯覚かもしれない。盗掘穴の存在は知っていた。
棺の中には何も残されてはいないはずだ。来る前は、盗掘穴から石棺の中を覗いて確認してみようと思っていたのだが、とうにそんな気は失せていた。一刻も早く外に出たい。地中の玄室の中は、人が長い時間を過ごせる場所ではない。

 私より先に穴に忍び込んだ息子はというと、中の様子には特に関心もなさそうに、手に持ったスマートフォンを動かしてひとしきり石室内を照らしている。
 私が用を済ませるのを、仕方なく待っているという様子だ。
 私は息子に、もう行こう、と声を掛けた。
 帰り際にもう一度石棺に懐中電灯を向けた。
 石棺が黒く艶やかに光ったように見えた。
 背後に漆黒の闇を残して、私たちは穴から出た。
 盗掘者のような気分だった。
 一人で来ればよかったという思いもあった。

 だが、そうした漠然とした思いが、やがて本物の後悔へと変わることを、その時の私は知らなかった。来なければよかった、という微かな思いが、私の未来を痛烈に予告するものであることに気付くのは、もう暫く後のことである。
 何も崇峻天皇に呪われたというのではない。
 そんなことは毛頭思っていない。
 ただ、人生にはよい巡り合わせと、悪い巡り合わせというものがある。
 おそらく、何かが、うまく嚙み合わなかったのだ。
 この奇妙な感覚を、残念ながら今の私はまだ説明できない。
 崇峻陵への侵入も、この時ではなく、別の時期ならばよかったのかもしれない。
 すべきではないことを、よりによって、すべきではない時にした。
 そんなところかもしれない。
 当時、息子は京都大学に通う四回生で、京都丸太町の熊野神社の前にある熊野寮という大学の学生寮で暮らしていた。
 埼玉に住む私は、京都にいる息子を年に何度か訪れては、奈良や京都の名所探索の旅に誘い出すのを楽しみにしていた。
 息子が拒むことはなかった。
 崇峻陵探訪も、そうした旅の一環だった。

 だが、飛鳥へのこの旅は、私たちにとって特別なものになった。
 崇峻陵に一緒に潜った息子も、おそらく、自分なりに、何かを感じていたのではないだろうか。
 息子が、学業や友人や親の存在の全てを一切放擲して、京都大学熊野寮から突然失踪するのは、この崇峻陵侵入から、およそ十か月後のことである。

【著者紹介】
前田 潤(まえだ・じゅん)
1966年東京生まれ、埼玉県在住。
早稲田大学卒業。立教大学にて博士(文学)の学位取得。専攻は日本近代文学。
現在、大学、予備校の兼任講師。
主著に、『漱石のいない写真』(現代書館、2019年)、『地震と文学』(笠間書院、2016年)がある。

古都に、消える。――流浪の家族と空洞の古代史
2000円+税 208頁 ISBN 978-4-7684-5901-0

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