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【本の紹介】五味渕典嗣『「国語の時間」と対話する 教室から考える』(青土社)

□難度【★★★★☆】
国語科や教育改革について、ある程度の知識を持っていないと難しいと感じられると思う。また、筆者は脱構築批評やフーコーの理論など、現代思想をしばしば論証のツールに用いる。そういった点に鑑みれば、読むのに簡単な内容とは言えない。ただし、いたずらに難解な言い回しを乱用するようなことはしていない。むしろ、難解なテーマをそれでもなんとか多くの読者に届けようという、真摯な思いに溢れた書き方だと思う。さらに、「第7章 表現と検閲 『文学国語』への授業提案」に関しては、高校生でも読める内容。ここを読むだけでも、十分に価値があると言える。

□内容、感想など
僕は、自らの興味関心から、本書を、脱構築批評の実践として読んだ。脱構築批評とは、端的に言えば、何かしらの言説に対し、その言説それ自体に内在する論理を徹底的に突き詰めていくと、その論理それ自体が機能不全に陥ることになる…そうした地点を見出していく思考実験である。狭義では、二項対立的構造について、その構造に内在する論理に着眼し、その対立自体が解消される地点を認識していく行為などと説明される。いわゆる、"二項対立崩し"である。
こう説明すると、〈脱構築=重箱の隅をつついて矛盾を暴く〉とイメージする人もいるかもしれない。そしてそのイメージは、あながち間違っていると言えないところもある。
が、脱構築批評において大切なことは、一つの脱構築のプロセスが成就したその瞬間に、そこにはまたあらたな論理や二項対立的構造が見出されることになるということであり、すなわちその瞬間、また次なる脱構築へと、読み手は歩みを進めることになる…つまり、"脱構築は永遠に終わらない"ということなのである。
テクストに内在する論理を可視化し、その論理を用いてテクストの矛盾を見出していく…脱構築とは、いわばテクストとの批判的な"対話"である。そして"脱構築は永遠に終わらない"とするならば、テクストの脱構築的読解とは、実は、常に新しい対話の回路を開いていく営みでもあるのだ。
なぜ、この『「国語の時間」と対話する 教室から考える』の感想に、こんなことを述べるのか。
それは、筆者が本書において、まさにこうした知の営みを実践しているからである。筆者はおそらく、「国語の時間」を通して、徹底的に"新たな対話の回路"を見出し続けようとしているのだ。

□こんな人にオススメ
・教育改革に興味関心のある人。
・国語の教師、講師。
・将来国語の教師や講師を目指す人。
・現代思想について、その具体的な実践例を読んでみたいと思っている人。
・「第7章 表現と検閲 「文学国語」への授業提案」については、高校生も、ぜひ。


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