小池陽慈

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小池陽慈

執筆業、及び予備校講師(現代文)。一般書に『14歳からの文章術』『"深読み"の技法』(笠間書院)、『評論文読書案内』(晶文社)、『できる大人の「要約力」』(青春出版社)。参考書に『現代評論キーワード講義』(三省堂)など。

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    「日記」としてつけていましたが、よく考えれば日々のことをほとんど綴っていないので、「備忘録」としました。

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【共著】紅野謙介編『どうする? どうなる?これからの「国語」教育』(幻戯書房)【単著】『無敵の現代文 記述攻略メソッド』(かんき出版)【単著】『大学入学共通テスト 国語[現代文]予想問題集』(KADOKAWA)*2021年度用【改訂版】がありますので、お買い求めの際には、そちらをお願いいたします。 【単著】『一生ものの「発信力」をつける 14歳からの文章術』(笠間書院)【寄稿】「映像講義の収録について、予備校講師からのささやかなヒント」『いますぐ!超実践テレワーク』(マイナ

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      • 便意とナショナリズムのあいだ

        AustraliaはCairnsから成田空港に戻ってきた瞬間、便意が復活した。あれほど頑なに動くことを拒んでいた腸が、いきなりフル稼働し始める。トイレに駆け込み、用を足し、ふうとため息をつきながら思わず口にしてしまったのは、 「日本のトイレ、良いなあ」 という言葉だった。 帰宅後に食べた権兵衛のおにぎり(梅干し)のうまいこと。 米の味の甘いこと。 たまらずに勢いで作ってしまった味噌汁(わかめ、豆腐、玉ねぎ)の出汁の、体の芯に染みること染みること……。 私は、普段、

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          コンコルドの誤謬 〜ヘイターについて思うこと〜

           コンコルドと言えば、かつて英仏が共同で開発した超音速のジェット旅客機である。  投資した額の莫大さゆえに、採算の合わないことが明らかになっても、なかなかに開発をやめることができなかったという。  こうした事例から、 という心理状態を表すものとして、「コンコルドの誤謬」あるいは「コンコルドの誤り」という言葉が使われるようになった。  この社会には、残念ながら、ヘイターと呼ばれる人たちがいる。  ある人は例えば駅前などで、ある人は例えば電脳空間などで、社会的な弱者を指

          コンコルドの誤謬 〜ヘイターについて思うこと〜

          金村詩恩「『在日特権』『中韓の不都合な真実』…かつて“韓国人差別をしていた友人”に対面したときの話」を読んで

           タイトルに「かつて“韓国人差別をしていた友人”に対面したときの話」とあるように、金村詩恩が先日公開したこのエッセイ、「『在日特権』『中韓の不都合な真実』…かつて“韓国人差別をしていた友人”に対面したときの話」は、その昔に、 そんな高校生であった人物との交感を骨子とするものである。なお、念のために紹介しておくと、書き手である金村詩恩は、著書『私のエッジから観ている風景  日本籍で、在日コリアンで』(ぶなのもり)も刊行するエッセイスト、ブロガーであり、『私のエッジから観ている

          金村詩恩「『在日特権』『中韓の不都合な真実』…かつて“韓国人差別をしていた友人”に対面したときの話」を読んで

          権力が市民を飲み込もうとしているとき、思想や政治を語るのを忌避することを促す言葉は、逆説的に、強烈なイデオロギーの言説であると言える。

          権力が市民を飲み込もうとしているとき、思想や政治を語るのを忌避することを促す言葉は、逆説的に、強烈なイデオロギーの言説であると言える。

          学生の頃に亡くした友人を思う。30年弱も昔のことだ。もちろん友人は私の頭の中に生きていて、はにかむ顔は、二十歳そこそこの若さのままだ。日々老けてゆく私のことを、おもしろがって笑っている。私は彼に向けても、本を書いている。

          学生の頃に亡くした友人を思う。30年弱も昔のことだ。もちろん友人は私の頭の中に生きていて、はにかむ顔は、二十歳そこそこの若さのままだ。日々老けてゆく私のことを、おもしろがって笑っている。私は彼に向けても、本を書いている。

          知らなかったことを知るための読書も面白い。でも、自分の奥にありながら言葉にできていない散漫な想念を、解きほぐし、あるいは彫琢し、そうして概念化していくような読書も面白い。例えば私には、芥川龍之介を読むことがそれだった。

          知らなかったことを知るための読書も面白い。でも、自分の奥にありながら言葉にできていない散漫な想念を、解きほぐし、あるいは彫琢し、そうして概念化していくような読書も面白い。例えば私には、芥川龍之介を読むことがそれだった。

          本の紹介をするのは、良い本を、たくさんの人と共有したいと思うからだ。そうした思いに、邪な心はまったくない。ただ…「この本の読者が一人でも増えれば、社会もちょっとは良くなるかも…」という期待がないと言えば、それは嘘になる。

          本の紹介をするのは、良い本を、たくさんの人と共有したいと思うからだ。そうした思いに、邪な心はまったくない。ただ…「この本の読者が一人でも増えれば、社会もちょっとは良くなるかも…」という期待がないと言えば、それは嘘になる。

          物語や詩の一行、あるいはたったひと言から、妄想が横滑りしていき、もはや印刷された文字が頭に入ってこない。こうしたゾーンに突入することができたなら、それはもう、文学の読みとして大成功としか言いようがない。

          物語や詩の一行、あるいはたったひと言から、妄想が横滑りしていき、もはや印刷された文字が頭に入ってこない。こうしたゾーンに突入することができたなら、それはもう、文学の読みとして大成功としか言いようがない。

          語られた言葉は、語り得なかったことに思いを馳せるための足掛かりに過ぎない。

          語られた言葉は、語り得なかったことに思いを馳せるための足掛かりに過ぎない。

          サブカルチャー、大衆文化の伝達される速度の速さ、受容される範囲の広さ、その親近性は、権力に利用されると、高尚文化以上に強烈な支配の道具となる。だから、大衆文化をこそ、市民は、市民のものとして守ってゆかねばならない。

          サブカルチャー、大衆文化の伝達される速度の速さ、受容される範囲の広さ、その親近性は、権力に利用されると、高尚文化以上に強烈な支配の道具となる。だから、大衆文化をこそ、市民は、市民のものとして守ってゆかねばならない。

          本を読むことによって得られる最も尊いものは、「本を読んだ」という実感である。それに比べるなら、内容の理解やそこから得られる学びなど、副次的なものに過ぎない。

          本を読むことによって得られる最も尊いものは、「本を読んだ」という実感である。それに比べるなら、内容の理解やそこから得られる学びなど、副次的なものに過ぎない。

          一つの文章に、無垢な状態で臨める人間などいない。まっさらな心で言葉に触れるなど、誰にも不可能である。逆に言えば、自身の経験してきたこと、考えてきたこと、読んできたものを文章に織り込んでいくこと。それが、読むことなのだ。

          一つの文章に、無垢な状態で臨める人間などいない。まっさらな心で言葉に触れるなど、誰にも不可能である。逆に言えば、自身の経験してきたこと、考えてきたこと、読んできたものを文章に織り込んでいくこと。それが、読むことなのだ。

          私が、"その意図はなくとも"発した"何気ない"言葉も、確かに社会に蓄積してゆく。それらが権力(支配/被支配)の力学と結びつき、そしてその権力が何かしらの暴力を喚起したならば、その時、私は、暴力の主体である。

          私が、"その意図はなくとも"発した"何気ない"言葉も、確かに社会に蓄積してゆく。それらが権力(支配/被支配)の力学と結びつき、そしてその権力が何かしらの暴力を喚起したならば、その時、私は、暴力の主体である。