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*30 コミュニケーション

 パンは我儘わがままで素直である。人間もこう在るが良い。パンは機嫌や具合が直ぐ顔に出る。嫌な事をされたら嫌な顔を向けて来るし、具合が悪ければ人目憚らずへたり込んでしまう。一見すると手の焼ける厄介者の様であるが、二見も三見もしてやればこれほど解り易いものの無い事に気が付く。嫌だと思っていても顔が笑っていたんでは何方どちらかが損を負ってしまうし、具合が悪いのをひた隠されたんでは救えるものも救えなくなってしまう。裏にしまわれた本心を知ろうと思ったら本来四見や五見したくらいでは足らないなどと考えると、我儘で素直なのは大変解り易くて良い。
 
 それほど健気だからこそ酷く傷を負った姿を見せられた場合などは強烈に胸が痛む。パンは涙こそ流さないが、目に見える外傷でもって訴えて来る。例として一つ物語ると、過去に私は二十もの大型パンを焼成の工程で駄目にした事があったのだが、売り物にならない傷ましい姿のパンが並んだ光景に胸が痛んだ時、戦場に重なる血だらけの死体の山が思い起こされた。これを単に比喩表現だと解釈しないで頂きたい。私の場合全く同じと言って良いほど酷似した痛みに胸が襲われるのである。その上それを自らの手で起こしてしまったと考えると、胸中は罪人の意識である。
 
 人によっては私のこの告白を少々大袈裟過ぎやしまいかと呆れるかもしれないし、軽度の妄想性偏執症パラノイアを疑われるかも知れないが、思い返せば幼少の頃から似たような事があった。キャッチボールをしている際に暴投や後逸が起こりボールが水流に流されるなり茂みに見失うなりして二度と帰って来ない状況が起こった場合などは酷く胸を痛めた。これは単に私物を失う痛み以上に、失われたボールの身になって考える事に起因した胸痛である。たった一つの過失によってたちまち冷酷な永遠別離を突き付けられたボールの身を思うと先の一投が大変悔やまれた。道端の側溝の水流に運ばれた果てで、腐食も埋葬もされない姿を何時までも孤独にぷかぷかと存在し続けるボールの生涯を思うと余りに心苦しかった。パンに話を戻しても同じ事である。幸い不憫な末路を迎える場合の起こり難いパンであるが、その分軽重傷から最悪死まで眼前に突き付けられるから頭から爪先まで真剣質になる。それだからパンが見事に美しく焼き上がって窯から出て来た場合には、同じく彼らの感情に共鳴するが如く喜びを感じ、食べるほかに観賞の時間も必要になる、と言うのがパンと向かい合う場合の私であった。
 
 
 
 相変わらず職場でも自室でもパンと戯れる生活である。先々週頃から地道に面倒を掛けてやっていたサワー※1種が、早く使ってくれろと散々訴えて来たからロッゲンミッシュブロートライ麦粉と小麦粉混合の大型パンを焼いた。

 匂いも生地の硬さも調子が良さそうだったが、発酵器を持たない自室での難関は発酵の塩梅である。その上比較的この部屋が涼しいから、大体レシピに示された発酵時間よりも長く掛かる。この時も焼いてみたら発酵が今一つ足りない様で例によって傷を負わせてしまった。一見無傷端麗の様で引っ繰り返してみると腹が割れていた。また切って中を見るとクラストとクラムの隙間に空洞が出来ていた。典型的な発酵不足である。まあこの症状が出る場合、発酵不足の他にも幾つか原因と成り得る要素はあるのだが、この時は余程発酵の不足であった。思えば以前の職場でもこうした失敗やさらにこの延長のような失敗をした事もあったが、おいおいと文句を言う上司に具体的な原因を尋ねた時にまるで頓珍漢なろくでもない返答が帰って来たのが、私が製パンマイスター取得を思い立った一つの切掛きっかけであった。私の知りたい事がここではもう学べないと判断したわけである。結局マイスター学校ではパン焼成時の失敗例集も受け取り、それだけでもう既に私にとって意義があったと言えた。

 それから週半頃にはシナモンロールZimtschneckeを作った。これについてはシナモンロールを作るのが目的であったと言うより、生地の折り込みについて先週の反省点の改善策を試したいという目的であった。シナモンロール作りという観点で見た場合の改善点も新たに生まれたが、形は不格好ながら生地の感じ、即ち折り込みはここ最近で最も良いように思われた。反省を活かし細心の注意を払っての作業であったから随分と時間も掛かったが、いや然し良い手応えであった。二度分の生地を捏ねておいたから次はクロワッサンでも焼いてみようと思う。こちらは成形に際して試したい事がある。

 職場では相変わらずクワルクシュ※3トレンが思ったように焼けずにいる。思ったように焼けないと言うのは何も店頭に陳列出来ないほどの失敗作を焼き上げているわけではないが、なかなか私の目が美しいと言わない。私は再三、パンはアートではないと言う持論を記述のべたりするが、私がパンの焼き上がった姿に満足いっていない様子を見せると、パンは芸術作品ではなく食べ物だから良いんだと諭される事があった。結果として私はその言葉で多少不格好に焼けたパンも飲み込むわけであるが、それは出来る限り綺麗に焼き上げようと真剣に向き合った後の話である。
 
 それからシュトレンの成形も余り美しくなかった。生地もそれほど良くなかった様な気もしたが、人の所為にする前に私の手元を見るとまだまだ伸びしろがあるように見えた。来週またシュトレンを焼くと言うからその時にまた意識してみる事にする。

 それから私個人でも来週は自室でシュトレンを焼いてみようかと考えていた。その為にオンラインでクワルクシュトレンの型やらシュトレンを成形する際の細い麺棒やらを注文したのだが、クワルクシュトレンの型のみが何故か配達出来ませんでしたとされて、近くの受け取り所にお受け取りにいらして下さいと書かれていたものの、何処へ行けばいいんだか具体的な住所も書かれない連絡を受け取った。
 
 それ以外の注文品は軒並み主玄関先に置かれていたり、主玄関を入った先の階段の足元に置かれていたり、私が不在の場合でも届いていると言うのに、配達出来ませんとはどういう訳だか分からない。そう連絡を貰ったのがもう週末の頃であったし、届かない場合の対処法として、間違いかもしれませんから二三日待ってみて下さいというのもあったから一先ず待つが、来週はどうにかして型を取り返してやらねばならない。届けられる筈だった型の感情に移入してみれば、果たしてどうして届けられなかったのかなと本人もきょとんとして出番を待っている筈である。
 
 
 
 土曜の仕事はルーカスもシェフもどこか上機嫌に見えた。理由は分からぬが上機嫌なのは良い事である。近頃になって私の言う冗談をルーカスが笑ってくれる事が増えた気がしているのだが、この日も特筆の余地も無いような他愛も無い内容の幾つかの冗談を、時として本心で笑っていると思えない場合もありながら笑ってくれていた。単に愛想笑いと記すには気持ちが込められている笑いは、ドイツに来て気付いた会話を大事にする彼らの会話構築術の基礎である。或いは相手を受け容れていると言う意思表示とも言える。パンとの対話も人や物の感情を六見七見とするのも良いが、目の前に起こる会話の構築に真面目な姿勢を私も見習わねばならない。
 
 最後帰り際でルーカスに、君の家にもアドヴェント※4クランツがあるかと尋ねてみた。彼は当然だろうという返事をした後、お前も持ってるかと聞いて来たから、持っていない、日本にはアドヴェントの文化が無いんだと教えてやった。サンタクロースはいるがニコラウスはいないんだとも言うと、初めて知ったというような様子で、そもそもクリスマスも祝日じゃないんだと言うと、それなら普通に働かなくちゃならない日なのかと驚いた。それでもクリスマス自体はある日本のクリスマスは一体どういった日かと聞かれると答えに窮するのが常であったが、この日は単にロマンチックな日だと答えておいた。誰の為でもないロマンチックな日だとすれば変に寂しがる必要も無さそうである。



(※1)サワー種Sauerteig:穀粉と水を混ぜて発酵させたパン種。
(※2)クワルクシュトレンQuarkstollen:ドイツのフレッシュチーズ・クワルクを使って作ったシュトレン。
(※3)アドヴェントクランツAdventskranz:第一から第四アドヴェント(待降節)毎にリースに立てられたロウソクに火を灯していくクリスマスの装飾。

※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。


 

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