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*33 裏方

 日本に帰って来たら、一先ず日本の四季いちねんを味わわねば話にならない、と念頭に置き、秋を見て、冬を越え、そうして春である。最も春らしい雪解けと、気温が如実に春めく様は身に覚えがある。満開の桜の下も歩いた。菜の花の黄色の中も巡った。その何れもがすっかり同じ緑色に姿を変えた季節の流れを、不図ふと輪郭を持って見付けた時、春の儚さを改めて知るに至った。その儚さたるや人の夢の如しとうより、夢に見る人の如し、会えたと思えばすっと跡形も無く姿を消し、後になってあれは幻だったかと思う。異なるは、花は一年と待てば規則的にまた姿を拝まるる。然し人の場合は不規則的かつ不確実的で、それでも自分も相手も生きている内はまた姿を拝まれると思えば、花とそれほど変わらぬともれる。そういう事を少し思った。
 
 
 菜の花まつりを終えた翌月曜日、ゴールデンウィーク最終日に幼馴染で集まってバーベキューをしたより他に、連休らしい事もしなかった。もっとも必要も無かったのであるが、それにしても祝日の振替休日とは親切である。日本はドイツよりも祝祭日が多いと言うが、振替休日まで入れたらなお多い。ドイツで祝日と日曜日が重なると笑いながら残念がっていた元同僚の連中を思い出した。

 その翌日は個人的な休暇と定めると、風邪をひいた人間くらい長く眠った。まさに連休中の疲労を体が回復していたのだろう。ドイツにいた頃にどうしても睡眠時間が短くなってしまう私に対して「君、たまには十二時間くらい思いっきり眠ると良い。凄く体が楽になる」と言ったアンドレの言葉を思い出した。
 
 
 休まった体で翌日からまたパンを焼き始めた。そのかたわら、市役所から預かっている宿題にも取り掛かった。慣れぬ事は手間がかかる。然し慣れぬ事が慣れて来るとそれすなわち技能の取得である。最初で最後の事であれば経験である。そうやって色々と覚えて来た。
 
 ドイツから日本へ強制送還されそうになり齷齪あくせく彼方此方あちこち奔走した二週間も経験である。ドイツ語もまだ拙い内に目撃者として裁判所に立ったあの日も経験である。一方、そういう経験を経て上達したドイツ語は技能である。そのドイツ語を使って時に試験を受け、時に同僚と話しながら覚えた製パンは技能である。すなわち私が今焼くプレッツェルは私の持つ経験と技能の集合体である。
 
 
 プレッツェルを売るのに余計な装飾は無い。言葉巧みな売り文句も、わざわざ特筆するほどの拘りも無く装飾らしいものは塩のみであるが、そうかと言って売り込める点が全くないかと言えば無論そうでは無い。本場ドイツで売られているプレッツェルと極めて等しい味、というこの一点に魅力は集約され、またこの一点が魅力の全てである。私が販売に際して購買客にこの一点をせめて説明するのは、全くもって私の威厳性を主張する為のものではなく、日本語もドイツ語も喋られぬプレッツェルという主役の自己紹介を裏方であるパン職人の私が代弁者となって言うだけの事に他ならない。私がこのプレッツェルの言語を理解し翻訳し代弁出来る理由も、まさしく私がこれまでに重ねて来たプレッツェルとの遣取やりとりの末に培った経験と技能によるものというわけである。
 
 
 それだからプレッツェルを褒められるとすこぶる嬉しい。無論プレッツェルに限った話ではなくライ麦一〇〇%の大型パンについても同程度に嬉しい。私の代弁、もとい翻訳が間違っていなかった事の証明資料として自信に繋がるからである。私自身の肩書や資格や経歴を褒められる事もあるがこれはただそれだけの事である。とんと胸を打たれる事も無い。それに引き換えパンを褒められるは心を打つばかりか、打たれた振動が腹の底まで響き、そして染み込む。今週の土曜日、五月に入って最初のカフェ営業の際、私の心はしきりに打たれ、振動は体内に絶えず響き渡った。

 四月から始めて五度目となったカフェ営業は、これ迄で最も客の入りが多かった。その前にここから先の話をする為には、先ず一度脳内にある都心部のカフェが繁盛しているイメージを掻き消していただく必要がある。それを踏まえた上で、この日は開店前から一人の御婦人が来店したのを皮切りにどんどんと人が来た。
 
 「すみません、十二時からって書いてあるんですが入らせて頂いてもよろしいですか」と恐る恐る扉を開けた御婦人を中へ通す。聞けば私のパンを道の駅で買って下さっていた様で、そこに置いてあるカフェ営業の案内書を見て来たんだと言った。私も到着したばかりの来店であったから「準備にまだ時間がかかりますので、本でも読みながらお待ち下さい」と言って私は準備に取り掛かった。御婦人は壁伝いに並んだ本を吟味し始め、暫くすると一冊を手に取り席へ腰掛けた。五月から古書館カフェと名前を変えたこの施設は既に一万冊以上の本が並んでいた。こういう場合に時間を埋めるのにもこれだけ本があれば良い、と改めて思った。
 
 
 御婦人はカイザーシュマーレンを注文して下さった。この日最初のカイザーシュマーレンである。何時いつも以上に気合を入れ、気持ちを込めて作った、とでも言えば綺麗な場面であるが気持ちのぶれが発生するとろくな事が起こらない。ただ失敗の無いよう注意をしながらカイザーシュマーレンを作った。
 
 珈琲と合わせて席に着いた御婦人の元へ運ぶ。お待たせ致しました、と言うと「こちらこそ開店前から来て急がせる様ですみません」と丁寧であった。一通りカイザーシュマーレンの自己紹介を代弁した後、食べる所を目の前で見ていては圧力プレッシャーであるから一度厨房へ下がり、少し用事を片付けてからまた表へ出て来た。もう一組、御客が入っていた。
 
 表へ出て来た私に御婦人は「とっても美味しいです」と声を掛けてくれた。そうしてどう美味しいんだかも教えてくれた。胸の透くような思いでそれらの言葉を私は心に染み込ませていた。自分の作った物の感想を目の前で頂戴する事は、裏方のパン職人にとって極めて稀な事である。道の駅やイベントで買って頂けても、食べる所までは私に知り得ないのが普通である。してやカイザーシュマーレンなどこの場所でしか提供していない物であるから、私の口がドイツを懐かしめる味だとしてもそれが日本人客の口に合うのかどうかについては依然として疑心暗鬼であった私は、御婦人の言葉に胸が透くと共に一つ安心感もあった。
 
 
 この日は最初の一つを皮切りに全部で六人前のカイザーシュマーレンを作り、振る舞った。その都度、御婦人同様の褒め言葉を戴いた。クグロフについても美味しがって頂いた。来客の数がこれ迄で最も多かった事も然る事ながら、カイザーシュマーレンを作った数がこれ迄で最も多かった事も然る事ながら、カイザーシュマーレンにしろクグロフにしろパンにしろ、美味しいという声を受け取った数がこれ迄で最も多かった事がこの日何よりの出来事であった。
 
 美味しいの一言がもたらすは作り手としての安心と代弁者としての自信である。その一言を促したり押し付けたりする趣味は無いからこちらから味の感想を求めるは苦手であるが、それでも伝えて頂くと、私の慣れ親しんだドイツの味が、極めて純粋なドイツの味が受け容れられる様で嬉しい。こうした経験も地道に積み重ねれば技能となろう。これの繰り返しである。
 
 月曜日にバーベキューをした幼馴染の家族も前触れ無く来店してくれた。その子供達が私のプレッツェルを「美味しい」と言いながら頬張る姿もまた大変喜ばしい。子供が喜んでパンを食べて笑っている姿の前に、経験だ代弁だなどと言った下らない能書きは要らぬ。何よりの励みである。


 
※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。


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